表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/36

第10話:影の形

 スパイがいる。


 確信があった。暗殺者は単独行動ではなかった。捕縛した男の供述は断片的だったけれど、一つだけ明確な情報があった。——「俺だけじゃない」。


 『脅威モデルの更新を推奨。暗殺者は実行部隊の一員。上位に情報収集担当が存在する可能性:高——』


 分析して。全部洗い出して。


 リスク管理脳を、意識的に起動させた。


 もう「うるさい」とは言わない。この領地を守るには、前世で培ったこの思考回路が必要だ。



 ノアの執務室で、対策会議が開かれた。


 朝の光が窓から斜めに差し込んでいる。壁に貼られた領地の地図、テーブルの上のインク壺と羽ペン。紙の匂いがかすかにする。窓の外で、兵の号令が遠く響いた。


 参加者は四人。ノアが机の正面、マルタが窓際に立ち、フェリクスが手帳を膝に乗せて椅子に座っている。私は、少し離れた位置。まだ「客人」の距離だ。


「暗殺者の供述によれば、領地内に情報を収集している人間がいます」


 ノアが切り出した。仕事モードの簡潔な声。


「ユリア様。この手の対応について、何かお考えは」


 四つの視線が集まる。喉の奥が、少し詰まった。でも、ここでは黙っている方が不自然だ。


「前の……以前、学んだことですが」


 言葉を選ぶ。前世のことを、直接は言えない。


「内部に潜んだ人間を見つけるには、行動を観察するしかありません。正体を隠している人は、普通の人と同じふりをします。でも、完璧にはできない」


「具体的には?」


 フェリクスが手帳を開いた。記録する気だ。


「まず、行動パターンの変化です。同じ仕事をしていても、情報を集めようとする人間は、業務に不要な場所に立ち入ったり、聞く必要のないことを尋ねたりする」


 前世でも同じ提案をした。二ヶ月後に不正を見つけた。評価されなかった。


 もちろん、この世界にシステムなんてない。代わりになるのは、人の目だ。マルタという、屋敷の隅々まで把握している人間がいる。それが、どれだけ心強いか。


「使用人の中で、最近行動が変わった人間がいないか。普段は行かない場所に出入りしていないか。聞かなくていいことを質問していないか」


 マルタの目が光った。


「使用人の動きなら、私が一番把握しています」


「お願いします。それと——」


 少し迷った。言っていいのか。でも。


「新しく入った人間は、特に注意が必要です。暗殺者と同じ手口です。正面から来るより、内側に入ってしまったほうが効率がいい」


 沈黙が落ちた。


 全員が同じことを考えている。最近、新しく入った人間。


 リネットの顔が浮かんだ。


 振り払った。


「もう一つ。大事なことがあります」


「何でしょう」


「犯人探しをする必要はありません」


 フェリクスの眉が上がった。


「使用人たちを疑うのではなく、異常な行動パターンだけを拾ってください。誰が怪しい、ではなく、何がおかしい。人を疑い始めると、屋敷の空気が壊れます」


 前職の最後の月を思い出す。監視を強めすぎて、チームの報告が止まった。「何でも疑われるなら、何も言わない方がマシだ」。マルタが作った報告文化を、壊すわけにはいかない。


「何がおかしい、を集める。誰が怪しい、は最後にする。順番が大事です」


 ノアが小さく頷いた。


「わかりました。その方針で進めましょう。マルタ、使用人の動向を確認してください。フェリクスは領地に出入りする人間の記録を。ユリア様は——」


「帳簿を見ます」


「帳簿?」


「物の動きには、人の動きが映ります。誰がどの倉庫にいつ出入りしたか、資材の消費パターンに不自然な点がないか。帳簿は嘘をつきません」


 フェリクスが手帳にペンを走らせている。この人、私の言うこと全部メモしてるな。


 『チーム——機能中。各員、配置完了——』



 それから一週間。


 帳簿の数字を追った。仕入記録、在庫管理、人の出入り。いつもの作業の延長線上で、もう一つの層を読み取る。


 窓の外が明るくなって、暗くなる。また明るくなる。マルタが「終業です」と言うまで手が止まらない。インクで指先が汚れる。爪の間にまで入り込んだ黒い染み。ページを繰る紙の音が、しんとした書斎に乾いた音を立てた。肩が凝る。首が固まる。目の奥がじんわり熱い。でも、この疲れは前世の痛みとは違う。誰かのために数字を追う疲れは、悪くない。


 四日目に、引っかかった。


 指が止まる。呼吸が浅くなる。前世でログの異常値を見つけた時と、同じ身体反応。


 厨房の食材消費量。使用人の数に対して、パンの消費量が微妙に多い。微妙に。月にパン三個分。


 普通なら見逃す誤差だ。


 でも。


 『異常値を検出。パン消費量の超過:約3%。仮説——使用人以外の人間が屋敷内で食事をしている可能性——』


 同じ日、マルタから報告があった。


「洗濯場の使用人が、最近、洗い物の量が少し増えたと言っています。本人たちの分ではないそうです」


 パンが増えて、洗い物が増えた。


 つまり、屋敷の中に、帳簿に載っていない人間がいる。


「フェリクス、最近入った使用人のリストを出せますか」


「すでに用意してあります」


 フェリクスが書類を差し出した。準備がいい。


 リストに目を通す。新入りは三人。


 庭師見習い。屋外の人間だ。情報収集には向かない。


 洗濯婦。使用人区画から出る理由がない。


 侍女。


 手が止まった。次の文字を見る前に、もう答えを知っている。


 ——リネット。


 『該当者の行動パターンとの照合を推奨——』


 リスク管理脳の声が遠い。頭ではわかっている。でも胸の奥が締まって、息が重い。


 廊下で再会した時の、あの白い顔が浮かぶ。「見つかった」ことを怖がっていた。あの恐怖の正体が、今わかりかけている。


 違う。違うと思いたい。彼女は私の脱出を見逃してくれた人だ。味方のはずだ。


 でも。


 パンの増加量と、リネットが来た時期が、一致する。


「……もう少し、調べます」


 声が自分のものじゃないみたいだった。


 フェリクスが不思議そうな顔をしたけれど、何も聞かなかった。この人の、こういうところが助かる。


 書斎に戻った。帳簿を閉じて、窓の外を見た。


 山が見える。空が広い。良い場所だ。


 ——良い場所に、影が忍び込もうとしている。


 その影の形を、私はまだ直視できずにいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ