第10話:影の形
スパイがいる。
確信があった。暗殺者は単独行動ではなかった。捕縛した男の供述は断片的だったけれど、一つだけ明確な情報があった。——「俺だけじゃない」。
『脅威モデルの更新を推奨。暗殺者は実行部隊の一員。上位に情報収集担当が存在する可能性:高——』
分析して。全部洗い出して。
リスク管理脳を、意識的に起動させた。
もう「うるさい」とは言わない。この領地を守るには、前世で培ったこの思考回路が必要だ。
ノアの執務室で、対策会議が開かれた。
朝の光が窓から斜めに差し込んでいる。壁に貼られた領地の地図、テーブルの上のインク壺と羽ペン。紙の匂いがかすかにする。窓の外で、兵の号令が遠く響いた。
参加者は四人。ノアが机の正面、マルタが窓際に立ち、フェリクスが手帳を膝に乗せて椅子に座っている。私は、少し離れた位置。まだ「客人」の距離だ。
「暗殺者の供述によれば、領地内に情報を収集している人間がいます」
ノアが切り出した。仕事モードの簡潔な声。
「ユリア様。この手の対応について、何かお考えは」
四つの視線が集まる。喉の奥が、少し詰まった。でも、ここでは黙っている方が不自然だ。
「前の……以前、学んだことですが」
言葉を選ぶ。前世のことを、直接は言えない。
「内部に潜んだ人間を見つけるには、行動を観察するしかありません。正体を隠している人は、普通の人と同じふりをします。でも、完璧にはできない」
「具体的には?」
フェリクスが手帳を開いた。記録する気だ。
「まず、行動パターンの変化です。同じ仕事をしていても、情報を集めようとする人間は、業務に不要な場所に立ち入ったり、聞く必要のないことを尋ねたりする」
前世でも同じ提案をした。二ヶ月後に不正を見つけた。評価されなかった。
もちろん、この世界にシステムなんてない。代わりになるのは、人の目だ。マルタという、屋敷の隅々まで把握している人間がいる。それが、どれだけ心強いか。
「使用人の中で、最近行動が変わった人間がいないか。普段は行かない場所に出入りしていないか。聞かなくていいことを質問していないか」
マルタの目が光った。
「使用人の動きなら、私が一番把握しています」
「お願いします。それと——」
少し迷った。言っていいのか。でも。
「新しく入った人間は、特に注意が必要です。暗殺者と同じ手口です。正面から来るより、内側に入ってしまったほうが効率がいい」
沈黙が落ちた。
全員が同じことを考えている。最近、新しく入った人間。
リネットの顔が浮かんだ。
振り払った。
「もう一つ。大事なことがあります」
「何でしょう」
「犯人探しをする必要はありません」
フェリクスの眉が上がった。
「使用人たちを疑うのではなく、異常な行動パターンだけを拾ってください。誰が怪しい、ではなく、何がおかしい。人を疑い始めると、屋敷の空気が壊れます」
前職の最後の月を思い出す。監視を強めすぎて、チームの報告が止まった。「何でも疑われるなら、何も言わない方がマシだ」。マルタが作った報告文化を、壊すわけにはいかない。
「何がおかしい、を集める。誰が怪しい、は最後にする。順番が大事です」
ノアが小さく頷いた。
「わかりました。その方針で進めましょう。マルタ、使用人の動向を確認してください。フェリクスは領地に出入りする人間の記録を。ユリア様は——」
「帳簿を見ます」
「帳簿?」
「物の動きには、人の動きが映ります。誰がどの倉庫にいつ出入りしたか、資材の消費パターンに不自然な点がないか。帳簿は嘘をつきません」
フェリクスが手帳にペンを走らせている。この人、私の言うこと全部メモしてるな。
『チーム——機能中。各員、配置完了——』
それから一週間。
帳簿の数字を追った。仕入記録、在庫管理、人の出入り。いつもの作業の延長線上で、もう一つの層を読み取る。
窓の外が明るくなって、暗くなる。また明るくなる。マルタが「終業です」と言うまで手が止まらない。インクで指先が汚れる。爪の間にまで入り込んだ黒い染み。ページを繰る紙の音が、しんとした書斎に乾いた音を立てた。肩が凝る。首が固まる。目の奥がじんわり熱い。でも、この疲れは前世の痛みとは違う。誰かのために数字を追う疲れは、悪くない。
四日目に、引っかかった。
指が止まる。呼吸が浅くなる。前世でログの異常値を見つけた時と、同じ身体反応。
厨房の食材消費量。使用人の数に対して、パンの消費量が微妙に多い。微妙に。月にパン三個分。
普通なら見逃す誤差だ。
でも。
『異常値を検出。パン消費量の超過:約3%。仮説——使用人以外の人間が屋敷内で食事をしている可能性——』
同じ日、マルタから報告があった。
「洗濯場の使用人が、最近、洗い物の量が少し増えたと言っています。本人たちの分ではないそうです」
パンが増えて、洗い物が増えた。
つまり、屋敷の中に、帳簿に載っていない人間がいる。
「フェリクス、最近入った使用人のリストを出せますか」
「すでに用意してあります」
フェリクスが書類を差し出した。準備がいい。
リストに目を通す。新入りは三人。
庭師見習い。屋外の人間だ。情報収集には向かない。
洗濯婦。使用人区画から出る理由がない。
侍女。
手が止まった。次の文字を見る前に、もう答えを知っている。
——リネット。
『該当者の行動パターンとの照合を推奨——』
リスク管理脳の声が遠い。頭ではわかっている。でも胸の奥が締まって、息が重い。
廊下で再会した時の、あの白い顔が浮かぶ。「見つかった」ことを怖がっていた。あの恐怖の正体が、今わかりかけている。
違う。違うと思いたい。彼女は私の脱出を見逃してくれた人だ。味方のはずだ。
でも。
パンの増加量と、リネットが来た時期が、一致する。
「……もう少し、調べます」
声が自分のものじゃないみたいだった。
フェリクスが不思議そうな顔をしたけれど、何も聞かなかった。この人の、こういうところが助かる。
書斎に戻った。帳簿を閉じて、窓の外を見た。
山が見える。空が広い。良い場所だ。
——良い場所に、影が忍び込もうとしている。
その影の形を、私はまだ直視できずにいた。




