第1話:覚醒
私は死んだ。
——はずだった。
残業三日目の深夜。ディスプレイの青白い光だけが顔を照らしていた。インシデント報告書。脆弱性対応のチケット。未読メール百二十七件。どれも期限は昨日。
「守谷さん、まだいたの? 体壊すよ」
総務の人が声をかけてくれた。壁の時計は午前二時を回っている。
「大丈夫です。あと少しなので」
あと少し。その「あと少し」が終わることは、ついに一度もなかった。
翌朝。会議室に向かう廊下で、足元がぐらりと揺れた。
冷や汗が首筋を伝う。息が、吸えない。蛍光灯の光がぐるぐる回って、床のタイルが近づいてくる。タイルの目地が、やけにはっきり見えた。膝が折れる。手をつこうとした。指が、動かない。
遠くで誰かの声。足音が駆けてくる。「守谷さん!」やけに、遠い。
蛍光灯の白い光が、灰色に変わっていく。視界の端から暗くなる。最後に見えたのは、廊下の非常口の緑色のランプだった。
——ああ。やっと、休める。
最悪の休み方だったけど。
それが、守谷結衣の最後の記憶。
なのに今、目を開けている。
天井がある。
木目の模様が、ゆっくり焦点を結ぶ。節の渦巻き、年輪の筋、金箔の装飾。見慣れているのに、初めて見るみたいに鮮明だ。死にかけた人間の目は、こんなふうに世界を拾うのか。
古い木と蝋の混じった匂い。かすかに埃。どこかで木が軋む音。吊り下がった淡い緑の光。魔法灯だ。
布団の重さが、全身にのしかかっている。指先が冷たい。死んだ時の冷たさが、まだ残っているのか。それともこの体がもともとこうなのか。わからない。境目が、ない。
……あれ。なんで私、「魔法灯」なんて知ってるんだろう。
頭の奥がずきりと脈打つ。二つの記憶が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
守谷結衣。三十二歳。中小企業の一人セキュリティ担当。死因、過労。
ユリア・モーリス。十五歳。貴族令嬢。死因、まだ未定。
両方が、私だ。
混乱する頭の片隅で、勝手に何かが起動する。
『未知環境を検出。脅威レベル:不明。推奨:逃走経路の確保——』
……いや、ここ自分の部屋なんだけど。
頭の奥で、何かが勝手に回っている。声じゃない。前世で十年染みついた、セキュリティ屋の思考回路だ。
目覚まし代わりの脅威レベル判定。死んで転生しても治らないらしい、この職業病。
ただ今この瞬間に限っては、少しだけありがたい。こいつが勝手に走ってくれてるおかげで、パニックにならずに済んでいる。
たぶん。
体を起こす。
重い。十五歳の体のはずなのに、三十二歳で死んだときより重い。骨の奥にまで疲労が染みている。
窓辺の姿見に目をやる。映っているのは、腰まで伸びた黒髪の少女。紫がかった光沢があるのに手入れが雑。こはく色の切れ長の目、の下にしっかり刻まれたくま。
『外見評価:疲弊度——高。対外的信頼度に影響。推奨:八時間睡眠』
……美容相談してないんだけど。
造りは悪くないはずなのに、万年寝不足の半目がすべてを台無しにしている。「悪役令嬢」と呼ばれているのは、たぶんこの目つきのせいもある。
前世のほうがまだマシだった、と思うくらいのくま。
ベッドの縁に腰を下ろしたまま、前世の記憶が像を結んでいくのを待つ。
守谷結衣。中小企業の一人セキュリティ担当。
聞こえはいい。実態は、「何でもかんでもお前」。
「また守谷さんがなんか言ってる」
「セキュリティって言えば仕事増やせると思ってんの?」
——で、本当に一人でやる羽目になった。指摘も対応も報告書も、全部。
——屋敷のどこかで、扉が閉まった。
……なのに、記憶が止まらない。
問題を未然に防いでも、誰も気づかない。「起きなかったこと」に手柄はない。
「なんで防げなかったんだ」
防いでも評価されない。防げなかったら責められる。十年。その果てに、廊下で膝が折れた。
……で。
視線を窓に向ける。薄い朝日。中庭を横切る使用人の影。誰も、この部屋のことなんて気にしていない。
今世の、ユリア・モーリスの記憶も、ちゃんとある。十五年分。
……なぜだろう。前世の記憶がなかったはずなのに、この子は、私は、同じようなことをしている。
屋敷の帳簿に不正を見つけたら指摘する。宴会の段取りに抜けがあれば報告する。当たり前のこと。当たり前のことを、当たり前にやっただけ。
結果。
「あの子、いつも余計なことを言うのよ」
「正論ばかりで、場の空気が読めないの」
気づいたら、「悪役令嬢」と呼ばれていた。
『前世データとの照合——類似度:94%』
……知ってた。比べなくても、わかってた。
前世も今世も同じだ。
正しいことを言って、疎まれて、孤立して、最後は壊れる。
性格が変わらないなら、どこに生まれたって同じ轍だ。
ラノベなら、ここで「運命を変えてやる」と拳を握るところだ。転生した主人公には大体チートがある。
私が持っているのは、ファイアウォールの設定知識と、インシデント報告書のテンプレート。
この世界にファイアウォールはない。
『……城壁を「防御壁」と見なせば、一応——』
見なさないよ。
「原作」も存在しない。あるのは、十年分の「報われない防御」の経験だけ。
『推奨:生存戦略の策定を——』
無理。だって疲れてるんだもの。
ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を押しつける。冷えた布地が頬に張りつく。天井の魔法灯が、ぼんやり揺れている。
前世で死ぬほど働いて、今世でもこき使われて、記憶が戻った結果が「もう一回頑張れ」?
誰が。
『現状を継続した場合のリスクは——』
聞きたくない。でも、わかってる。このまま同じことを続けたら、同じ結末だ。前世では三十二歳。今世は、もっと早いかもしれない。
変えなきゃいけない。何かを。指先が冷たい。ベッドの中なのに、芯から冷えている。
でも、性格は変えられない。見て見ぬふりをするくらいなら嫌われたほうがマシだ。前世でも今世でも、そこだけは変わらなかった。
——それは本当に、欠点なのか。
わからない。今は、わからない。
なら、変えるべきは。
そこまで考えたとき。
廊下の向こうから、侍女たちの声が聞こえた。
「——お嬢様、まだお休みなんですって」
「まあ。お茶会のお席、空けておいたほうがよろしいかしら」
「ええ。……そのほうが、皆さまもお気が楽でしょうし」
含み笑いと、遠ざかる衣擦れの音。
記憶が、重なる。前世のオフィス。給湯室。あの声。
「守谷さん、今日休みだって」
「——まあ、いないほうが会議スムーズだよね」
……ああ。
同じだ。
シーツを握る手に、力が入った。何もかも。
息を吸い込む。言い返してやりたい。今すぐ廊下に出て——。
……体が、動かない。
私は布団を頭まで引き上げた。冷たい布地が額に触れる。洗い晒しのリネンの、かすかに埃っぽい匂い。布団の重さだけが、今の私の味方だ。
この世界でも、やっぱり私は、いないほうがいい人間らしい。
目を閉じる。暗闇の中で、前世の記憶と今世の記憶が、まだぐるぐる回っている。
変えるべきは、何だ。性格じゃない。環境か。方法か。それとも。
『……推奨:休息を優先。判断は、回復後に』
……うん。そうする。明日。
手が止まる。
前世の私は、「明日やろう」と言い続けて、明日が来なくなった。
あの朝、廊下で膝が折れた時。最後に思ったのは「明日こそ休もう」だった。明日は来なかった。
布団の中で、指先を握った。まだ冷たい。でも、動く。この手は、まだ動く。
目が冴えていく。
——同じ轍は、踏まない。今度こそ。




