ラズロの交渉
マイルの告げた医者――Dr.ワイズマン――宅を、ラズロは訪ねていた。
「夜分遅くに申し訳ない……」
「あぁ……構わんよ……急患かね」
ボサボサの白髪頭に分厚い眼鏡とよれよれの白衣。Dr.ワイズマンは、一目見たら絶対に忘れなさそうな風貌の医師だった。
「あぁ、と……いや……その……」
ラズロは少しばかり悩み、口ごもる。
「一週間ほど前、十歳くらいの子供が……母親を先生のとこに運び込んだでしょう」
「…………ふむ?」
「その母親は……多分……首を強く締め付けられながら、大振りのナイフで……ザクッと……それともザクザク……?」
分厚い眼鏡に隠されたワイズマン医師の表情は、読み取ることが難しい。
ラズロは続ける。
「犯人はまだ捕まってない……当然です、被害者が居なくなって通報もされてないんだから。……このままほっとくと、次は被害者の息子が狙われる」
「…………ふぅむ」
ラズロは眉を下げ、困ったように力なく笑った。
「あと一歩なんです。……ワイズマン先生」
「わしはなんも言えん。守秘義務がある」
「……医師としての守秘義務はありますが、市民としての通報の義務も…………ねェ?」
「…………ふむ」
「事件として捜査をするには、通報が必要なんですよ。被害者が消えて、事件そのものが起きてもないことになってる……今……犯人だけが笑っているんです」
ワイズマン医師はしばらく考え込むように俯き、ふむ、とまた頷いた。
「わしでなくてはいかん理由が?」
「お医者様の通報なら……警察は無視はできない」
ワイズマン医師はまた俯き、うぅむと唸るように言った後、わかった……と了解した。
◇◇◇
ラズロは夜の街を歩いていた。
草臥れたコートの襟を立て、突き刺すような冷たい夜風に吹かれるままに。
訪れたのは、以前ちょっとした取引をしたことのある経済界の大物――マナ・ラインベリーの証券事務所。
受付で名乗ると、マナ氏は大変快くラズロを迎えてくれた。
「いったい何の用かしら」
「……いやぁ…………そんな、怖い顔で睨まないで……」
冬の夜風より冷たく突き刺さる視線がラズロを射抜く。
「あなたとの取引は終わったはずよ」
「はい……マダム……なのでこれは……純粋なお願いで……」
マナ氏の表情は氷の彫刻よりも冴え冴えとして冷え切っている。
「ダーニング卿をご存知でしょうか」
ラズロは簡潔に切り出した。
彼女からの圧に耐えきれなかったのだ。
「ダーニング卿……えぇ、社交界で何度か顔を合わせたことがあるわね。……それが何か?」
ラズロは、ほ、と息を吐いた。
無駄足にならずに済んだ、という安堵だ。
「どうか秘密で……特に、ダーニング卿の奥方には絶対に知られないように、お伝えしたいことがありましてェ……」
マナ氏の美しい柳眉が片方だけ弧を描いて吊り上がった。
「私になんの得があるのかしら。紳士に不逞の輩を紹介なんて……」
「得はないかもしれませんが……でも、あなたの秘密を、私が複製して持ってないとは限らないんですよ……私の誠実さに賭けるのは、ちょっとギャンブルに過ぎませんかね」
ラズロの言葉に、マナ氏は完璧な笑みを湛えた。
「刑事課のみならず、証拠管理室からも追い出されたいなら、それも良いかもしれませんね。ラズロ・ロウ巡査? ずいぶんと皮肉なお名前だこと」
「………………はは。自分でもそう思いますよ」
ラズロは苦笑した。
すっかり身元がバレている。本当に職を失うかもしれない。それだけで済めばいいが、恐喝や収賄の罪で逮捕される可能性もある。
「申し訳ない……マダム……私が浅はかで……ですが、……お願いします」
「ずいぶんと弱々しくなったことね。……口八丁はどうしたのかしら」
「…………子供の命がかかっています。って、言ったら信じてくれますかねェ」
困ったように力なく笑って、ラズロは言った。
マナ・ラインベリーという女は、決して情に流されるような人間ではなかったろう。
だが賢く、合理的で、打算的ではあった。
ラズロが語ったダーニング家の闇とその顛末、妻レジーナへの状況証拠から生じる合理的疑いを理解すると、態度を軟化させた。
「……ひどい話ね」
そう口では言いながら、彼女はおそらく、ダーニング卿にこの恩を売ることで自身の顧客の増加と事業拡大の可能性を考えている。
ダーニング卿は資産家としても有名だった。
「いいわ、わたりを付けましょう。……ですがこれきりよ、ロウ巡査。二度と私を脅そうなどと思わないことね」
「……肝に銘じますよ」
ラズロは心から言った。
役者が違いすぎる。
しかし、危ない橋を渡った成果はあった。
あと少しで、この最低な事件の後始末をつけられる……ラズロはそっと息を吐いた。




