視る
――からりん。 からりん。
ドアベルの音が鳴ったのは、もう深夜に近い時刻だった。
相変わらず所定の位置で本を読んでいたらしいエリアスは、顔を上げるなりまた不機嫌な顔になった。
ラズロはへらっと笑って、エリアスの方へ歩み寄る。
「……嫌だ」
「まだ何も言ってないですよ」
「どうせまたろくでもないモノ見せるつもりだろう……」
エリアスは見たくないということを全身で表明するかのように、ソファに座りそっぽを向いて本で顔を隠した。
その様子にラズロはただ困ったように笑う。
「いっ……てて。 そんな冷たいこと言わないでくださいよぉ……」
殴られた顔が引き攣れて痛む。
口端は切れて、顔は多分腫れていそうだ。
ラズロは痛みに顔を顰めた。
「見たくない。一度だけって話だった。だいたいなんだそのだらしない顔は……」
「だらしないって!? ……凶暴な……オーガみたいなやつに殴られたんですよぉ……!?」
「………………」
エリアスは無言で、質種のひとつだろうか……上品で造りの良い、美しいコンパクトミラーをラズロに突き出した。
ラズロは顔を顰めながらコンパクトを開く。
「あ゛……」
殴られた痕に紛れて、無数のリップの痕が顔にたくさん残っていた。
「いや、誤解……! 違いますよぉ、そういうコトじゃなくてですねェ!?」
エリアスの眼差しは軽蔑の度合いを深め、不潔なドブネズミを見るよりなお冷たいものだった。
ラズロは痛む顔をゴシゴシと袖で拭きながら、出来事を細かく一から十まで説明するはめになった。
「……………………まぁ、………………災難ではあったな」
「ご理解いただき、どうも……………………」
ぐったりと疲れた心地で、ラズロは言った。
それから気を取り直すように――痛む顔をおして――エリアスににこりと愛想の良い、良すぎる笑みを浮かべた。
エリアスが再び口を開く前に、ゴトリとヘアブラシをカウンターに置く。
その音に眉を顰めるエリアスの手を、ラズロはぐいと引き寄せた。
「……っ、おい、よせ……」
革手袋に包まれたエリアスの手を両手で包みながら、ラズロはその左右色違いの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ひどいことを言ってるのはわかってますよ。あんたがやりたくないのも。……でも、状況は一刻を争うことかもしれないんです。あの子は……もしかしたら……命の危険に晒されているかも」
エリアスの手が、ラズロの手の中でびくりと震えた。
「な、なんの根拠があって……」
「…………勘、です。根拠は……うまく言えないんですよ」
「っ、ふ、ふざけるな……そんな……そんなくだらないもののために、俺が……なんで犠牲にならなきゃいけない」
エリアスは、ラズロの手を振り解こうと身を捩る。しかし、その力は決して強いとは言えない。
迷いがあるようだった。少なくともラズロの目にはそう見えた。
冷たく振る舞っても、エリアスには情がある。
ラズロは、手袋越しにも伝わるほどのエリアスの指先の震えと、凍えるような冷たさを、覆うようにいっそう手に力を込める。
「この後、私が諦めて帰ったとしましょう。あんたは寝床で、あの赤い髪の男の子を夢に見る。細こい体で必死にこの店までやってきたあの子の……」
「………………おまえ……………………最低だ」
エリアスの声は低く、震え、吐き捨てるように零れ落ちていった。
抵抗の力は消えて、そこにあるのは諦念と、目の前の警察官への侮蔑と嫌悪だけのように見える。
ラズロは軽く笑って手を離した。
「………………」
エリアスが手袋を取る。
整えられた爪、繊細な指先……それは微かに震えながら、ゆっくりとヘアブラシに伸ばされていく。
触れる直前、躊躇うように指先が跳ね……ぎゅっと握り込まれて……それでも結局、諦めたようにまた指を伸ばす。
――触れる。
――――――――――――
ガチャン! と壁に花瓶がぶつかって割れた。
筋肉質な怒肩の大男がズシリズシリと距離を詰めて来る。
いや!
来ないで!
来ないでよ!!
必死に叫びながらテーブルを蹴り倒し、逃げ回り、それでも大きな腕に囚われてぎしりと腕がねじられる。
痛み。
男の大きな手が首にかかる。
大きなナイフが振り上げられる。
転がっていたヘアブラシを掴んで男を必死で殴って、殴って、殴って……。
いやだ。
いやだ。いやだ。
ごめんなさい。だれにも言わない。
言わないから。
ゆるして。ころさないで。ころさないで。
ころさ……ない…………で………………。
――――――――――――――――――
「ぁっ、ゔ……ぅェ………………ァアッ………………!!」
エリアスの口から、繰り返し漏れたのは、ころさないで。という悲痛な叫びだった。
その手がヘアブラシから離れても、エリアスはしばらく呻き、苦しそうに声を潜めながら嗚咽を漏らした。
「……だ、旦那……エリアスさん……エリアス」
その様子に、ラズロが手を伸ばし背中に触れて宥めるように撫でる。この苦しみを強いたのはラズロ自身だというのに。
やがて、少し落ち着いたエリアスが、左の金の目から流れる涙を袖で拭い顔を上げた。
背を撫でるラズロの手を乱暴に振り払う。
「…………見たからって、なにがわかるんだよ。ただの……」
物盗りじゃないのか。
蒼白い顔をますます青くしてエリアスはソファに深く座り直した。
「……いや。…………ただの物盗りじゃなさそうですよ」
「…………は。また勘か?」
エリアスが鼻先で笑う。
「部屋の中はひどく荒らされてはいましたが、何かを漁ったような形跡はなかった。おそらく明確な目的が……。あんたの見た、最期の言葉の断片……誰にも言わないから……って、そりゃ……まるで口封じじゃないですか? それも、いずれ来るのがわかっていたような」
「………………どういうことだ」
「物音が聞こえたのは二、三日前だそうです。坊やがここに来たのは昨日の夜。……もしもの時はコレを換金しろと母親は予め言い含めていた」
エリアスは黙り込み、ふんと鼻を鳴らした。
「なんの口封じだよ。言っておくが、あの宝石箱は何から何まで贋物だぞ。金はメッキ、宝石はイミテーション。あんな……」
少しの間。
エリアスの眉が寄る。
「あんな趣味の悪いモノ……作らせたやつがいるのか、わざわざ……」
何の為に。と言いた気にエリアスの瞳がラズロを向く。
ラズロは無精髭の伸びた顎を撫でながら視線を天井に向けて。
「………………さぁ」
「…………は?」
「まだなんとも。ピースが足りないみたいです。もう少しいろいろ調べてみないと」
ラズロは肩を竦めた。
エリアスはすっかり冷めた顔で、つまらなさそうにこめかみを揉んでいる。頭痛かもしれない。
「そろそろ帰りますよ、明日も仕事がありますからねェ」
「………………あのガキは。どうするんだ」
「…………」
「おまえの話が、もし、本当なら……危ないんじゃないのか」
ラズロはぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「まぁ、そうなるとやはり……マイルくんを見つけないといけませんねェ。……その、母親をやった奴より、先に」
「…………あぁ、そう……なるな。……次は蹴られて逃げられるようなヘマするなよ」
「……はは。手厳しいことを…………」
ラズロはがくりと肩を落とした。
あの時点ではまさかこんなバイオレンスな事態とは思ってもみなかったのだ。
油断してても仕方ないじゃないですか……と言いたいところだったが、ますます軽蔑されるだけだろう。
「まぁ……警察官は人探しのプロなんでねェ。子供ひとり見つけ出すくらいワケないですよ。……じゃ」
「…………あぁ、せいぜい頑張れよ、ポチ」
ラズロは力なくワンワンと鳴いて、エリアスの店を出て行った。
◇◇◇
「………………」
ひとり残ったエリアスは、マイルが預けて行った贋物の宝石箱をチラと見る。
手袋に包まれた指が、トントンとカウンターを打つ。何かを悩むようなそぶり。
やがて、舌打ちと共に箱を手に取ると、鑑定士鑑定士として入念な検分に集中していった。




