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届かない 千尋の風は桜音を想う。 昨日を生きた君へ、明日から来た僕より。

作者: 恋綴みるる
掲載日:2026/01/31

その図書室は、死にかけた生き物のような匂いがした。


 埃を被った古い紙の匂いと、長い間開けられていない窓から漏れ出す湿気。


建て替えが決まっている旧校舎の三階、その最果てに位置する図書室を訪れる生徒は、今の千尋ちひろを除いて他にはいなかった。


 千尋がここへ通うのは、静寂だけが目的ではない。進路調査票という名の、自分の将来を否定するような白紙の紙から逃げるためだ。


窓の外では最新の重機が校庭を削り、新しい時代の音が響いている。


それさえも、ここにある分厚いコンクリートの壁は、遠い異国の出来事のように遮断してくれた。


 窓際の、一番端にある棚。そこには背表紙の文字が剥げかかった、古い日本詩集が並んでいる。


 千尋は、適当に一冊を抜き出した。萩原朔太郎の『月に吠える』。


指先にざらりとした感触を残すその本をパラパラとめくると、中ほどに一枚、場違いなほど鮮やかな青い付箋が挟まっていた。


『この一行、雨の日の匂いがすると思いませんか?』


 文字は、少し右上がりの、丁寧だが意志の強そうな筆致だった。


 ふと目を落とすと、付箋の端には『2014. 6. 15 桜音さくらね』という小さな署名がある。


 十年前。千尋がまだ、雨の匂いなど気にせず水たまりを跳ね回っていた頃の文字だ。


「十年前かよ……」


 千尋は苦笑し、ポケットからシャーペンを取り出した。誰もいない図書室の静寂が、彼を少しだけ大胆にさせた。


返ってくるはずのない返信を書くこと。それは、空き瓶に手紙を入れて海に流すような、無意味で、けれど少しだけ優しい暇つぶしだった。


『確かに。アスファルトが濡れた時の、少し寂しい匂いです』


 書き込み、そっと本を棚の奥へ戻す。その日はそれで終わるはずだった。


 翌日。


 放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、千尋は吸い寄せられるように旧校舎へ向かっていた。階段を二段飛ばしで上がり、重い図書室の扉を開ける。


 棚の奥、昨日と同じ場所にその本はあった。


 32ページ。青い付箋。千尋の心臓が、耳元でうるさく跳ねた。


 千尋の拙いシャーペンの文字の下に、新しい、瑞々しいインクの跡があった。


『わかってくれる人がいて嬉しい。昨日は一日中、学校の窓から外を眺めていました。ところで「アスファルト」という表現、素敵ですね。私の周りの人は、みんなただ「地面」って言っちゃいますから』


 千尋は息を呑んだ。


 インクはまだ乾いたばかりのように鮮明だ。しかし、そこに記された日付は、やはり狂っていた。


『2014. 6. 16 桜音さくらね


 窓の外では、現代の2024年の雨が降り始めていた。千尋は震える指で、すぐさま新しい付箋を手に取った。


『桜音さん、信じられないかもしれないけど。僕のいる世界は、2024年です。君は本当に、十年前の人なんですか?』


 書き終えてから、千尋は自分の愚かさに気づいて顔を赤くした。もしこれが誰かの悪戯なら、自分は最高の道化だ。


 しかし、その翌日。返信は、千尋の想像を遥かに超える言葉で綴られていた。


『2024年? 十代の私たちが、そんなに遠い未来と話せるわけがない……と言いたいけれど。千尋くん、あなたの付箋、私の時代にはないホログラムのロゴが入っていますね。それが何よりの証拠かもしれません』


 二人の間に流れる十年の月日が、一枚の青い付箋の上で交差した。


 それは、この夏、遥風千尋はるかぜちひろ桜音栞さくらねしおりによる世界で最も長く、そして最も切ない恋の始まりだった。



***

 それからの日々、千尋の放課後は図書室のあの棚の前で始まった。


 一日に一度、一往復だけの文通。スマートフォンのメッセージなら数秒で終わる会話を、二人は二十四時間の空白を挟んで慈しむように紡いだ。


「二十四時間は、君にとってはたったの一日だけど、僕にとっては君の声を聞くための長い長い滑走路だ」


 千尋がそう書くと、翌日の付箋には少し照れたような、丸っこい文字が並んだ。


『滑走路だなんて、千尋くんは詩人ですね。私の2014年では、みんなもっと直接的ですよ。放課後に教室で待ち合わせて、言いたいことを言う。……でも、こうしてインクの匂いを辿りながら君を待つのも、悪くないって思い始めています』


 二人は、お互いの世界の「違い」を教え合った。


 栞の時代で流行っている、少し懐かしいロックバンドのメロディ。千尋の時代では当たり前になった、ワイヤレスのイヤホンやAIの存在。


 千尋はスマートフォンの画面で2014年のヒット曲を検索し、彼女が今、教室の窓際で聴いているであろう音楽を自分の耳に流し込んだ。


 同じ校舎、同じ図書室。けれど、十年の断絶。


 千尋が触れている机の傷は、栞の時代ではまだ新しかった。千尋が見上げる窓の外の古い銀杏の木は、栞の時代ではもっと青々と茂っていた。


 ある日、栞から少し特別な提案があった。


『千尋くん、312ページの角を見てみて。そこに、私の指紋をつけておいたから。そっちから見える?』


 千尋は慌ててページをめくった。そこには、光にかざさなければ見えないほど微かな、脂の跡があった。千尋は自分の指を、その上にそっと重ねる。


 紙の冷たさを通して、彼女の体温が伝わってくるような気がした。十年という残酷な距離を無視して、二人の鼓動が同期する。


『触れたよ』


 千尋は、震える手で付箋に書いた。


『桜音さん。……いや、栞さん。僕は、画面の中にいる誰よりも、クラスにいるどの子よりも、十年前の君に惹かれている』


 それは、届くはずのない、けれど誰よりもまっすぐな告白だった。


 翌日、本を開く千尋の指は、期待と恐怖で強張っていた。


 青い付箋には、一言だけ、滲んだ文字で書かれていた。


『私も。千尋くんに会いたい。未来の君に、恋をしてもいいですか?』


 その文字の横には、小さな涙の跡のようなシミがついていた。


 図書室の窓から差し込む夕日は、十年という時間を溶かして、二人を同じ黄金色に染め上げていた。



***

 告白の翌日から、二人のやり取りはより密やかで、熱を帯びたものになった。


 千尋は学校の購買で一番高い、滑らかな書き味のゲルインクペンを買った。


栞に届ける文字が、少しでも美しく、長く残るように。


『今日、放課後に中庭のベンチに座っていました。千尋くんの時代にも、あのベンチはありますか? 三つ並んでいるうちの、真ん中の席。木が少し腐りかけていて、座るとギィ、と鳴るんです』


 千尋は付箋を握りしめ、すぐに中庭へ走った。


 そこには、栞の言う通り三つのベンチがあった。しかし、真ん中の一つはもう腐り落ち、土台の石だけが残っている。千尋はその冷たい石の上に座り、スマートフォンを取り出した。


 2014年の気象データを検索する。彼女の生きる「今日」は、快晴だったはずだ。


『栞さん、今、同じ場所に座っているよ。ベンチはもう壊れちゃったけど、風の吹き方はきっと君の時と同じだ。僕の時代の空は、少し霞んでいるけれど、君が見ている青空を想像して深呼吸してみる』


 物理的な距離はゼロ。しかし、時間の距離は三千六百五十日。


 千尋は時折、図書室の窓から校庭を見下ろし、そこにいるはずの栞を探した。


白線が引かれたグラウンド、放課後の喧騒。千尋の目には映らないが、十年前の同じ瞬間、栞もまた窓辺に立ち、十年後の千尋に思いを馳せているのだ。


 ある時、栞が小さな「贈り物」を本に挟んでくれた。


 それは、押し花にされた一本のシロツメクサだった。


『校門の脇に咲いていたの。千尋くんの時代まで、枯れずに届くかな?』


 千尋が触れたその花は、十年の歳月を経て茶色く脆くなっていた。けれど、指先でなぞると、確かに彼女がそれを摘み、本に挟んだ瞬間の、優しい躊躇いが伝わってくるようだった。


千尋は胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。同時に、拭い去れない不安が、泥のように心の底に溜まり始めていた。


 恋が深まるほど、千尋は「今の彼女」を知りたくなった。


 栞は今、二十七歳になっているはずだ。どこかの街で働き、誰かと笑い、あるいはもう家庭を持っているのかもしれない。


嫉妬に似た感情を抱きながらも、千尋は卒業生名簿が保管されている資料室へ向かった。


 埃っぽい棚から、2014年度の卒業生名簿を引き出す。


「さ、さ……桜音……」


 指で名前をなぞる。だが、栞の名はどこにもなかった。


 2015年度も、2016年度も。彼女は卒業していない。


 嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝う。


 千尋は図書室へ戻り、古い新聞のマイクロフィルムが保管されているコーナーへ飛び込んだ。ターゲットは「2014年」。彼女と付箋を交わしている、まさにその夏。


 当時の地方紙の見出しをスクロールしていく。


 そこで千尋の指が止まった。



『2014年8月20日:集中豪雨により土砂崩れ発生。校舎裏の住宅地を直撃』



 記事の隅に載っていた「行方不明者リスト」の中に、その名前を見つけた時、千尋の視界は白く明滅した。


『桜音栞(17)……』


 その日は、栞との付箋の中で「明日は夏祭りの日ですね」と約束していた日の一日前だった。


 千尋は震える手で詩集を開いた。


 そこには、まだ何も知らない栞からの、明るいインクの文字が躍っていた。


『千尋くん、明日は浴衣を着て学校の裏山から花火を見るつもり。君の時代でも、同じ花火があがるかな?』


 千尋は叫び出したい衝動を抑え、泣きながらペンを握った。



 彼女の「明日」は、絶望の雨が降る日だ。


 図書室の窓の外は、2024年の静かな夜だった。しかし千尋の目には、十年前に降り注いだであろう、止むことのない豪雨が見えていた。


 8月20日。災害発生の日。


 栞からの最後の付箋は、前日の日付で止まっていた。「浴衣を着て裏山へ」という、無邪気な計画が書かれたまま。


 千尋は、本がボロボロになるほど乱暴にページをめくり、持っている全てのペンを使って付箋を書きなぐった。


『栞さん、裏山に行くな!』


『明日、この町に記録的な豪雨が来る! 絶対、高台へ逃げてくれ!』


『お願いだから、このメッセージを信じて! 君が死んでしまうかもしれないんだ!』


 詩集の余白は付箋で埋め尽くされ、文字はインクが滲んで判読できないほど切羽詰まっていた。


千尋は自分が過去を変えようとしていることに、何のためらいも感じなかった。栞を失う恐怖の前では、時間の法則など無意味だった。


 だが、その夜。栞からの返信は、なかった。


 翌日、8月20日。


 千尋は朝から図書室に籠城した。


栞がこの本を開いてくれることを祈りながら、しかし新たな付箋を貼る勇気はなかった。


彼女は今、豪雨の中で逃げ惑っているのかもしれない。あるいは、もう……。


 夕方になり、千尋の絶望は頂点に達した。彼女にメッセージは届かなかったのだ。過去は変えられなかった。


 その時、本棚の向こうから、古びたトランジスタラジオの音が聞こえてきた。図書室の司書が、定時ニュースを聞いている音だ。


「……なお、十年前の今日発生しました、この地域を襲った集中豪雨による土砂災害では、懸命な救助活動が行われ……」


 千尋はラジオの音に耳を澄ませる。だが、司書はそこでラジオを消してしまった。


 千尋は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。もう、付箋は来ない。栞は、もういない。


 彼女が最後に書いた「浴衣を着て」という明るい未来の言葉だけが、千尋の心に突き刺さる。


 どれくらいそうしていただろうか。


 ふと、千尋は詩集から目を離し、昨日栞が贈り物として挟んでくれた、茶色くなったシロツメクサの押し花に目をやった。


 その時、千尋は信じられないものを見た。

 押し花の下、栞が最後に書いた付箋の、さらに奥。昨日までは何もなかったはずの場所に、新しい、小さな付箋が差し込まれていた。


 千尋は恐る恐るそれを抜き取る。震える指で文字を追う。そこには日付も名前もない。ただ、青いインクで一言だけ。


『千尋くん。私、知ってるよ。君が未来から返事をくれていること。……私ね、明日、君に会いに行く方法を見つけたよ』


 千尋の頭の中が真っ白になった。「会いに行く方法」?


 栞は、災害に巻き込まれたのではないのか? いったい、どうやって……。


 その日の夜、千尋は一睡もできなかった。栞からの最後のメッセージは、絶望ではなく、希望に満ちたものだった。


彼女は助かったのか? それとも、別の形で千尋に会いに来ようとしているのか?


 答えは、十年後の現在にしかない。


 『君に会いに行く方法を見つけたよ』


 その文字は、これまでのどのメッセージよりも力強く、けれどどこか、二度と戻らない場所へ旅立つ人のような、研ぎ澄まされた静けさを湛えていた。


 千尋は狂ったようにペンを動かした。


『どういう意味? 会いに来るって、どうやって。栞さん、君のいる場所は今、雨が降っているはずだ。お願いだ、返事をして。方法なんていい、ただ生きていてくれればそれでいいんだ』


 しかし、どれだけ待っても、詩集のページが熱を帯びることはなかった。


 図書室の窓の外、2024年の空は皮肉なほどに晴れ渡り、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。この平和な光景の裏側で、十年前の今日、彼女は泥流の唸りを聞いていた。


 千尋はふと、栞が以前書いていた言葉を思い出した。


『千尋くん。私たちがこうして繋がっているのは、この古い詩集が「依り代」になっているからじゃないかな。もし、この本がなくなったら、私たちはどうなるんだろうね』


 千尋は戦慄した。


 旧校舎の解体は、来週から始まる。図書室の蔵書は一部を除いて廃棄されるか、遠くの分館へバラバラに送られる予定だ。


 本が失われる時、二人の「通路」は閉ざされる。


栞が言った「会いに行く方法」とは、過去を書き換えることではなく、この十年という残酷な歳月を、彼女自身の足で歩き通すということではないのか。


「……まさか」


 千尋は、カバンを掴んで図書室を飛び出した。


 学校の裏山。十年前、土砂崩れが起きたその場所。


 今は強固なコンクリートの防護壁で覆われ、その上には若い草木が芽吹いている。


 千尋は、栞が「花火を見る」と言っていた展望台の跡地へ向かった。


 息を切らし、藪を掻き分け、ようやく辿り着いたその場所に、一本の古びた桜の木が立っていた。幹には深い傷跡があり、あの日、この木がどれほどの濁流に耐えたのかを物語っている。


 その根元に、不自然なほど滑らかな石が置かれていた。


 千尋は震える手で、その石を退けた。


 土を掘り起こすと、指先に硬い感触が当たった。


 それは、錆びて茶色くなった、かつてはお洒落だったであろうビスケットの缶だった。


 蓋は固く閉ざされていたが、千尋が渾身の力を込めると、嫌な音を立てて開いた。


 中には、ビニール袋に幾重にも包まれた、一冊のノートが入っていた。


 表紙をめくると、あの日、図書室で交わした青い付箋が、びっしりと、大切に貼り付けられていた。


 そして最後のページ。


 そこには、付箋ではなく、ノートの紙面に直接、滲んだインクでこう記されていた。



『千尋くん。雨が強くなってきた。あなたの警告、ちゃんと届いたよ。だから私は、山へ行くのをやめて、隣の町の避難所へ向かいます。

 このノートをあなたがいつ見つけるかはわからない。明日かもしれないし、ずっと先かもしれない。

 でも、もしこれを見つけたら、あの図書室があった場所に来て。

 十年後の今日。私は、そこであなたを待っています。

 

 ――未来のあなたに、会いに行くために』



 日付は、2014年8月20日。


 千尋の頬を、熱いものが伝った。


 彼女は賭けたのだ。千尋の言葉を信じ、自分の運命を書き換え、そして「十年」という気の遠くなるような時間を、ただ一度、千尋に会うためだけに生き抜くという賭けに。


「栞……っ」


 千尋はノートを抱きしめ、夕闇に包まれ始めた旧校舎へと駆け出した。

 

 旧校舎の図書室があった場所は、今は更地になり、新しい校舎の影に隠れた小さな中庭になっていた。

 千尋がそこに辿り着いた時、時計の針は午後六時を指していた。

 

 夕立の予感を含んだ、生温かい風が吹く。

 アスファルトが濡れ始めた、あの「少し寂しい匂い」が漂ってきた。


 そこに、一人の女性が立っていた。


 白いブラウスに、藍色のスカート。


 千尋よりも少し背が高く、その瞳には、千尋の知らない十年の歳月が、深い光となって宿っていた。


 彼女の手には、千尋が図書室に残してきたはずの、あの古い詩集が握られていた。


「……遅かったじゃない。千尋くん」


 彼女の声は、千尋が想像していたよりもずっと優しく、そして、付箋の文字から感じていた通りの、芯の強さを持っていた。


 二十七歳になった栞は、少し困ったように笑い、それから、一歩だけ千尋の方へ歩み寄った。


「十年、待ったんだよ。君があの付箋を貼ってくれるのを。そして、私がこの場所へ来るのを」


 千尋は言葉にならなかった。


 彼女は、千尋が図書室で付箋を見つけるよりもずっと前から、千尋のことを知っていたのだ。


2014年に千尋からの警告を受け取った彼女は、それから十年間、千尋が高校二年生になり、あの図書室で詩集を手に取るその日まで、静かに、けれど情熱的に、時が満ちるのを待っていたのだ。


「僕……僕は……」


「言わなくていいよ。全部、知ってるから。だって、君が書いてくれた付箋、私、全部持ってるもの」


 栞は詩集の間に挟まれた、色褪せた青い付箋を愛おしそうになぞった。


 二人の時間は、今、ようやく同じ歩幅になった。


 雨が本格的に降り始めた。


 けれど、もう寂しい匂いはしなかった。


 千尋は、十年前から届いた彼女の手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。


 その温もりは、どんなインクの言葉よりも鮮やかに、二人の現在いまを証明していた。


「会いたかった、栞さん」


「うん。やっと会えたね、千尋くん」


 十年の隔たりを超えて。


 二人の恋は、今、この雨の中で、ようやく最初のページをめくった。



***

 降りしきる雨の中、千尋は栞の温もりに浸っていた。十年の歳月を越えて目の前に現れた彼女。その事実に、これ以上の奇跡はないと信じていた。


 しかし、ふとした違和感が千尋の指先をかすめた。


「……あれ?」


 栞が持っていたあの古い詩集。


彼女が「十年間大切に持っていた」はずのその本を、千尋が何気なく受け取った時のことだ。


 千尋が図書室で読んでいた時、その詩集の背表紙には、誰かが無理やり剥がそうとしたような、赤黒い「禁帯出」のラベルが貼られていた。


しかし、今、栞が持っている本には、そんな汚れ一つない。それどころか、まるで今日新刊書店で買ったばかりのような、異様なほど瑞々しい質感を保っている。


「栞さん、この本……」


 問いかけようとした千尋の言葉は、栞の表情を見て凍りついた。


 彼女は微笑んでいた。けれど、その瞳は、先ほどまでの慈愛に満ちたものとは違う、どこか虚無的な、透き通った色をしていた。


「あれ、千尋くん。気づいた?」


 栞は千尋の手にある詩集の、あるページをめくった。


 そこには、千尋が書いたはずのない、「未知の付箋」が貼られていた。


 色は、これまでのような青ではない。


 禍々しいほどに鮮やかな、真紅の付箋。

 そこには、震えるような走り書きで、こう記されていた。


『逃げて。今の私は、君が知っている私じゃない』


日付:2034. 8. 20


「二〇三四年……?」


 千尋は息を呑んだ。今の千尋から見れば、それは「十年後の未来」から届いたメッセージだ。

 

 千尋が目の前の栞を見上げると、彼女の姿が、雨の雫に濡れたガラス越しのように、一瞬だけ激しく歪んだ。


彼女の影が、地面に二つ落ちている。一つは今の彼女の影。そしてもう一つは、泥にまみれ、助けを求めるように手を伸ばす、「あの日、助からなかったはずの栞」の影だ。


「千尋くんが過去を変えた時、世界は二つに分かれちゃったの」


 栞は、冷たくなった指先で千尋の頬をなでた。


「助かった私と、助からなかった私。今、あなたの前にいるのはどっちだと思う?」


 遠くで、再び雷鳴が轟く。


 千尋が持っていた錆びたビスケット缶の中のノートを確認しようと視線を落とすと、そこにあったはずの栞のメッセージが、まるで水に溶けるように、みるみるうちに消えていく。


 代わりに浮き上がってきたのは、全く別の、無数の他人の筆跡。


 それは、この図書室の詩集を通じて「過去を変えようとして失敗した」人々が残した、呪詛のような付箋の山だった。


 栞だと思っていた女性が、耳元で囁く。


「ねえ、千尋くん。次の十年の文通を始めましょう? 今度は、君が私を『本物』にする番だよ」


 千尋が繋いでいた手の感覚が、急に希薄になる。


 彼女は本当に、十年前から歩いてきた「栞」なのか。それとも、千尋が過去を弄んだことで生み出された、実体のない「時間のバグ」なのか。


 雨の匂いが、再び変わった。


 それはアスファルトの匂いでも、花の匂いでもない。


 古びた紙が燃えるような、焦げ付いた、終わりを告げる匂いだった。


千尋が繋いでいた手の感覚が、急速に温度を失っていく。


目の前の「栞」と名乗る存在の輪郭が、雨のヴェールに溶けるように透けて見えた。


「栞さん、君は……誰だ」


千尋の震える声に、彼女は悲しげに、けれど抗いようのない確信を持って微笑んだ。


「私は、君が望んだ『記憶』の集積。千尋くん、君は無意識のうちに、詩集を使って過去を書き換えすぎたの。その代償として、君のいる2024年のリアリティが剥がれ始めている」


彼女が空を指さした。


見上げると、夜空の一部が虫食いのように欠け、そこから2014年の濁流の音が漏れ聞こえていた。過去を救ったことで、現代の平穏が侵食され始めたのだ。


「このままだと、この街ごと十年前の泥の中に沈むわ。千尋くん、選択肢は一つだけ」


栞は、真紅の付箋が貼られた詩集を千尋の胸に押し付けた。



「その付箋を剥がして、2034年の君へ、本当の結末を書き送って。……私が、あの日の山で死ぬはずだったという、『正しい歴史』を」



「そんなこと、できるわけないだろ!!!」


千尋は叫んだ。彼女を救うために、あんなに必死に文字を紡いだのだ。ようやく触れられたその手を、自分から離すことなどできるはずがない。


しかし、足元のアスファルトが泥濘ぬかるみに変わり、周囲の建物が蜃気楼のように揺らぎ始める。遠くで、存在しないはずの避難警報が鳴り響く。


栞は優しく千尋の手を握り、それを詩集の赤い付箋へと導いた。


「大丈夫。私は消えるんじゃない。君の心の中に、一番綺麗な姿で固定されるだけ。……さよなら、私のヒーロー」


千尋が泣きながら付箋を剥ぎ取った瞬間、凄まじい閃光が視界を埋め尽くした。


次に千尋が目を覚ました時、そこは建て替えが終わったばかりの、真新しい図書館のベンチだった。


頬には涙の跡が乾いて残っている。


手元には、あのボロボロの詩集があった。


恐る恐る中を開く。


32ページ。


そこには、もう青い付箋も、赤い付箋もなかった。


ただ、紙面に直接、古びたインクでこう刻まれていた。



『2014. 8. 20 この本をいつか手に取る君へ。

 私は、君のおかげで最期まで一人じゃなかった。

 ありがとう。あなたの未来が、どうか晴れ渡っていますように。 桜音栞』



それは、過去を書き換えた「奇跡」の代わりに残された、彼女からの本当の遺言だった。

千尋は立ち上がり、窓の外を見た。


そこには、十年前の土砂災害を乗り越え、力強く復興した街並みが広がっている。


栞はいない。


けれど、彼女が守りたかった「未来」が、今、千尋の目の前に確かに存在していた。


千尋はポケットから、自分自身の新しい付箋を取り出した。


そこには、もう警告も絶望も書かない。



『2024. 8. 20 栞さん、今日の空も、君に教えたくなるほど綺麗です』



千尋はそれを詩集の最後に貼り、そっと棚へ戻した。


いつか、また誰かがこのページをめくり、見えない誰かとの対話を始めることを願って。



***

雨はいつしか、すべてを洗い流すような細い霧雨へと変わっていた。


千尋の指先には、まだ彼女の体温の残滓ざんしが、消えゆく香りのように微かに留まっている。


世界は再び、静謐な秩序を取り戻していた。


濁流の音も、真紅の警告も、歪んだ影も。すべては最初からなかったかのように、夜のとばりの向こう側へと吸い込まれていった。


千尋は、手の中に残された古い詩集を見つめた。


それはもう、時を繋ぐ魔法の道具ではない。ただの、古びた紙の束だ。


けれど、その空白の余白には、目に見えない無数の想いが積層している。十年の歳月をかけて、一文字ずつ、一滴ずつ、二人が分け合った孤独と救済の結晶が。


「栞さん」


その名を口にすると、風が優しく頬を撫でた。


彼女が本当に実在したのか、あるいは未来の自分が作り出した美しき幻影だったのか、もはや千尋にはわからない。


けれど、彼が流した涙の熱さだけは、紛れもない真実だった。


人は、失ったものの重さで、自分の今立っている場所を知る。


彼女を救えなかったのではない。


彼女が、千尋の生きるこの世界を、その命と引き換えに美しく繋ぎ止めてくれたのだ。


千尋は、夜の図書室へと続く階段を静かに登った。


もう、ここから逃げる必要はない。


自分の進むべき道の先には、彼女が夢見た「晴れ渡った未来」が続いているのだから。


棚の片隅。元の場所へ、詩集を戻す。


それは、彼女という長い長い手紙を、ようやくポストに投函するような心地だった。


窓の外では、雨上がりの月が雲の切れ間から顔を出し、濡れた街を銀色に縁取っている。


2024年の月光は、かつて彼女が見上げた2014年の月と同じ、どこまでも透き通った光を放っていた。


ページを跨ぎ、時代を越え、結ばれることのなかった二人の恋。


それは、言葉というインクが乾いた後も、誰かの胸の奥で永遠に滲み続ける。


青い付箋が色褪せても、物語は終わらない。


次に誰かがこの本を開くとき、物語はまた、新しい一行目から書き始められるのだから。



――遠い空の向こうで、風がページをめくる音がした。

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