届かない 千尋の風は桜音を想う。 昨日を生きた君へ、明日から来た僕より。
その図書室は、死にかけた生き物のような匂いがした。
埃を被った古い紙の匂いと、長い間開けられていない窓から漏れ出す湿気。
建て替えが決まっている旧校舎の三階、その最果てに位置する図書室を訪れる生徒は、今の千尋を除いて他にはいなかった。
千尋がここへ通うのは、静寂だけが目的ではない。進路調査票という名の、自分の将来を否定するような白紙の紙から逃げるためだ。
窓の外では最新の重機が校庭を削り、新しい時代の音が響いている。
それさえも、ここにある分厚いコンクリートの壁は、遠い異国の出来事のように遮断してくれた。
窓際の、一番端にある棚。そこには背表紙の文字が剥げかかった、古い日本詩集が並んでいる。
千尋は、適当に一冊を抜き出した。萩原朔太郎の『月に吠える』。
指先にざらりとした感触を残すその本をパラパラとめくると、中ほどに一枚、場違いなほど鮮やかな青い付箋が挟まっていた。
『この一行、雨の日の匂いがすると思いませんか?』
文字は、少し右上がりの、丁寧だが意志の強そうな筆致だった。
ふと目を落とすと、付箋の端には『2014. 6. 15 桜音』という小さな署名がある。
十年前。千尋がまだ、雨の匂いなど気にせず水たまりを跳ね回っていた頃の文字だ。
「十年前かよ……」
千尋は苦笑し、ポケットからシャーペンを取り出した。誰もいない図書室の静寂が、彼を少しだけ大胆にさせた。
返ってくるはずのない返信を書くこと。それは、空き瓶に手紙を入れて海に流すような、無意味で、けれど少しだけ優しい暇つぶしだった。
『確かに。アスファルトが濡れた時の、少し寂しい匂いです』
書き込み、そっと本を棚の奥へ戻す。その日はそれで終わるはずだった。
翌日。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、千尋は吸い寄せられるように旧校舎へ向かっていた。階段を二段飛ばしで上がり、重い図書室の扉を開ける。
棚の奥、昨日と同じ場所にその本はあった。
32ページ。青い付箋。千尋の心臓が、耳元でうるさく跳ねた。
千尋の拙いシャーペンの文字の下に、新しい、瑞々しいインクの跡があった。
『わかってくれる人がいて嬉しい。昨日は一日中、学校の窓から外を眺めていました。ところで「アスファルト」という表現、素敵ですね。私の周りの人は、みんなただ「地面」って言っちゃいますから』
千尋は息を呑んだ。
インクはまだ乾いたばかりのように鮮明だ。しかし、そこに記された日付は、やはり狂っていた。
『2014. 6. 16 桜音』
窓の外では、現代の2024年の雨が降り始めていた。千尋は震える指で、すぐさま新しい付箋を手に取った。
『桜音さん、信じられないかもしれないけど。僕のいる世界は、2024年です。君は本当に、十年前の人なんですか?』
書き終えてから、千尋は自分の愚かさに気づいて顔を赤くした。もしこれが誰かの悪戯なら、自分は最高の道化だ。
しかし、その翌日。返信は、千尋の想像を遥かに超える言葉で綴られていた。
『2024年? 十代の私たちが、そんなに遠い未来と話せるわけがない……と言いたいけれど。千尋くん、あなたの付箋、私の時代にはないホログラムのロゴが入っていますね。それが何よりの証拠かもしれません』
二人の間に流れる十年の月日が、一枚の青い付箋の上で交差した。
それは、この夏、遥風千尋と桜音栞による世界で最も長く、そして最も切ない恋の始まりだった。
***
それからの日々、千尋の放課後は図書室のあの棚の前で始まった。
一日に一度、一往復だけの文通。スマートフォンのメッセージなら数秒で終わる会話を、二人は二十四時間の空白を挟んで慈しむように紡いだ。
「二十四時間は、君にとってはたったの一日だけど、僕にとっては君の声を聞くための長い長い滑走路だ」
千尋がそう書くと、翌日の付箋には少し照れたような、丸っこい文字が並んだ。
『滑走路だなんて、千尋くんは詩人ですね。私の2014年では、みんなもっと直接的ですよ。放課後に教室で待ち合わせて、言いたいことを言う。……でも、こうしてインクの匂いを辿りながら君を待つのも、悪くないって思い始めています』
二人は、お互いの世界の「違い」を教え合った。
栞の時代で流行っている、少し懐かしいロックバンドのメロディ。千尋の時代では当たり前になった、ワイヤレスのイヤホンやAIの存在。
千尋はスマートフォンの画面で2014年のヒット曲を検索し、彼女が今、教室の窓際で聴いているであろう音楽を自分の耳に流し込んだ。
同じ校舎、同じ図書室。けれど、十年の断絶。
千尋が触れている机の傷は、栞の時代ではまだ新しかった。千尋が見上げる窓の外の古い銀杏の木は、栞の時代ではもっと青々と茂っていた。
ある日、栞から少し特別な提案があった。
『千尋くん、312ページの角を見てみて。そこに、私の指紋をつけておいたから。そっちから見える?』
千尋は慌ててページをめくった。そこには、光にかざさなければ見えないほど微かな、脂の跡があった。千尋は自分の指を、その上にそっと重ねる。
紙の冷たさを通して、彼女の体温が伝わってくるような気がした。十年という残酷な距離を無視して、二人の鼓動が同期する。
『触れたよ』
千尋は、震える手で付箋に書いた。
『桜音さん。……いや、栞さん。僕は、画面の中にいる誰よりも、クラスにいるどの子よりも、十年前の君に惹かれている』
それは、届くはずのない、けれど誰よりもまっすぐな告白だった。
翌日、本を開く千尋の指は、期待と恐怖で強張っていた。
青い付箋には、一言だけ、滲んだ文字で書かれていた。
『私も。千尋くんに会いたい。未来の君に、恋をしてもいいですか?』
その文字の横には、小さな涙の跡のようなシミがついていた。
図書室の窓から差し込む夕日は、十年という時間を溶かして、二人を同じ黄金色に染め上げていた。
***
告白の翌日から、二人のやり取りはより密やかで、熱を帯びたものになった。
千尋は学校の購買で一番高い、滑らかな書き味のゲルインクペンを買った。
栞に届ける文字が、少しでも美しく、長く残るように。
『今日、放課後に中庭のベンチに座っていました。千尋くんの時代にも、あのベンチはありますか? 三つ並んでいるうちの、真ん中の席。木が少し腐りかけていて、座るとギィ、と鳴るんです』
千尋は付箋を握りしめ、すぐに中庭へ走った。
そこには、栞の言う通り三つのベンチがあった。しかし、真ん中の一つはもう腐り落ち、土台の石だけが残っている。千尋はその冷たい石の上に座り、スマートフォンを取り出した。
2014年の気象データを検索する。彼女の生きる「今日」は、快晴だったはずだ。
『栞さん、今、同じ場所に座っているよ。ベンチはもう壊れちゃったけど、風の吹き方はきっと君の時と同じだ。僕の時代の空は、少し霞んでいるけれど、君が見ている青空を想像して深呼吸してみる』
物理的な距離はゼロ。しかし、時間の距離は三千六百五十日。
千尋は時折、図書室の窓から校庭を見下ろし、そこにいるはずの栞を探した。
白線が引かれたグラウンド、放課後の喧騒。千尋の目には映らないが、十年前の同じ瞬間、栞もまた窓辺に立ち、十年後の千尋に思いを馳せているのだ。
ある時、栞が小さな「贈り物」を本に挟んでくれた。
それは、押し花にされた一本のシロツメクサだった。
『校門の脇に咲いていたの。千尋くんの時代まで、枯れずに届くかな?』
千尋が触れたその花は、十年の歳月を経て茶色く脆くなっていた。けれど、指先でなぞると、確かに彼女がそれを摘み、本に挟んだ瞬間の、優しい躊躇いが伝わってくるようだった。
千尋は胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。同時に、拭い去れない不安が、泥のように心の底に溜まり始めていた。
恋が深まるほど、千尋は「今の彼女」を知りたくなった。
栞は今、二十七歳になっているはずだ。どこかの街で働き、誰かと笑い、あるいはもう家庭を持っているのかもしれない。
嫉妬に似た感情を抱きながらも、千尋は卒業生名簿が保管されている資料室へ向かった。
埃っぽい棚から、2014年度の卒業生名簿を引き出す。
「さ、さ……桜音……」
指で名前をなぞる。だが、栞の名はどこにもなかった。
2015年度も、2016年度も。彼女は卒業していない。
嫌な予感が、冷たい汗となって背中を伝う。
千尋は図書室へ戻り、古い新聞のマイクロフィルムが保管されているコーナーへ飛び込んだ。ターゲットは「2014年」。彼女と付箋を交わしている、まさにその夏。
当時の地方紙の見出しをスクロールしていく。
そこで千尋の指が止まった。
『2014年8月20日:集中豪雨により土砂崩れ発生。校舎裏の住宅地を直撃』
記事の隅に載っていた「行方不明者リスト」の中に、その名前を見つけた時、千尋の視界は白く明滅した。
『桜音栞(17)……』
その日は、栞との付箋の中で「明日は夏祭りの日ですね」と約束していた日の一日前だった。
千尋は震える手で詩集を開いた。
そこには、まだ何も知らない栞からの、明るいインクの文字が躍っていた。
『千尋くん、明日は浴衣を着て学校の裏山から花火を見るつもり。君の時代でも、同じ花火があがるかな?』
千尋は叫び出したい衝動を抑え、泣きながらペンを握った。
彼女の「明日」は、絶望の雨が降る日だ。
図書室の窓の外は、2024年の静かな夜だった。しかし千尋の目には、十年前に降り注いだであろう、止むことのない豪雨が見えていた。
8月20日。災害発生の日。
栞からの最後の付箋は、前日の日付で止まっていた。「浴衣を着て裏山へ」という、無邪気な計画が書かれたまま。
千尋は、本がボロボロになるほど乱暴にページをめくり、持っている全てのペンを使って付箋を書きなぐった。
『栞さん、裏山に行くな!』
『明日、この町に記録的な豪雨が来る! 絶対、高台へ逃げてくれ!』
『お願いだから、このメッセージを信じて! 君が死んでしまうかもしれないんだ!』
詩集の余白は付箋で埋め尽くされ、文字はインクが滲んで判読できないほど切羽詰まっていた。
千尋は自分が過去を変えようとしていることに、何のためらいも感じなかった。栞を失う恐怖の前では、時間の法則など無意味だった。
だが、その夜。栞からの返信は、なかった。
翌日、8月20日。
千尋は朝から図書室に籠城した。
栞がこの本を開いてくれることを祈りながら、しかし新たな付箋を貼る勇気はなかった。
彼女は今、豪雨の中で逃げ惑っているのかもしれない。あるいは、もう……。
夕方になり、千尋の絶望は頂点に達した。彼女にメッセージは届かなかったのだ。過去は変えられなかった。
その時、本棚の向こうから、古びたトランジスタラジオの音が聞こえてきた。図書室の司書が、定時ニュースを聞いている音だ。
「……なお、十年前の今日発生しました、この地域を襲った集中豪雨による土砂災害では、懸命な救助活動が行われ……」
千尋はラジオの音に耳を澄ませる。だが、司書はそこでラジオを消してしまった。
千尋は崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。もう、付箋は来ない。栞は、もういない。
彼女が最後に書いた「浴衣を着て」という明るい未来の言葉だけが、千尋の心に突き刺さる。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと、千尋は詩集から目を離し、昨日栞が贈り物として挟んでくれた、茶色くなったシロツメクサの押し花に目をやった。
その時、千尋は信じられないものを見た。
押し花の下、栞が最後に書いた付箋の、さらに奥。昨日までは何もなかったはずの場所に、新しい、小さな付箋が差し込まれていた。
千尋は恐る恐るそれを抜き取る。震える指で文字を追う。そこには日付も名前もない。ただ、青いインクで一言だけ。
『千尋くん。私、知ってるよ。君が未来から返事をくれていること。……私ね、明日、君に会いに行く方法を見つけたよ』
千尋の頭の中が真っ白になった。「会いに行く方法」?
栞は、災害に巻き込まれたのではないのか? いったい、どうやって……。
その日の夜、千尋は一睡もできなかった。栞からの最後のメッセージは、絶望ではなく、希望に満ちたものだった。
彼女は助かったのか? それとも、別の形で千尋に会いに来ようとしているのか?
答えは、十年後の現在にしかない。
『君に会いに行く方法を見つけたよ』
その文字は、これまでのどのメッセージよりも力強く、けれどどこか、二度と戻らない場所へ旅立つ人のような、研ぎ澄まされた静けさを湛えていた。
千尋は狂ったようにペンを動かした。
『どういう意味? 会いに来るって、どうやって。栞さん、君のいる場所は今、雨が降っているはずだ。お願いだ、返事をして。方法なんていい、ただ生きていてくれればそれでいいんだ』
しかし、どれだけ待っても、詩集のページが熱を帯びることはなかった。
図書室の窓の外、2024年の空は皮肉なほどに晴れ渡り、遠くで運動部の掛け声が聞こえる。この平和な光景の裏側で、十年前の今日、彼女は泥流の唸りを聞いていた。
千尋はふと、栞が以前書いていた言葉を思い出した。
『千尋くん。私たちがこうして繋がっているのは、この古い詩集が「依り代」になっているからじゃないかな。もし、この本がなくなったら、私たちはどうなるんだろうね』
千尋は戦慄した。
旧校舎の解体は、来週から始まる。図書室の蔵書は一部を除いて廃棄されるか、遠くの分館へバラバラに送られる予定だ。
本が失われる時、二人の「通路」は閉ざされる。
栞が言った「会いに行く方法」とは、過去を書き換えることではなく、この十年という残酷な歳月を、彼女自身の足で歩き通すということではないのか。
「……まさか」
千尋は、カバンを掴んで図書室を飛び出した。
学校の裏山。十年前、土砂崩れが起きたその場所。
今は強固なコンクリートの防護壁で覆われ、その上には若い草木が芽吹いている。
千尋は、栞が「花火を見る」と言っていた展望台の跡地へ向かった。
息を切らし、藪を掻き分け、ようやく辿り着いたその場所に、一本の古びた桜の木が立っていた。幹には深い傷跡があり、あの日、この木がどれほどの濁流に耐えたのかを物語っている。
その根元に、不自然なほど滑らかな石が置かれていた。
千尋は震える手で、その石を退けた。
土を掘り起こすと、指先に硬い感触が当たった。
それは、錆びて茶色くなった、かつてはお洒落だったであろうビスケットの缶だった。
蓋は固く閉ざされていたが、千尋が渾身の力を込めると、嫌な音を立てて開いた。
中には、ビニール袋に幾重にも包まれた、一冊のノートが入っていた。
表紙をめくると、あの日、図書室で交わした青い付箋が、びっしりと、大切に貼り付けられていた。
そして最後のページ。
そこには、付箋ではなく、ノートの紙面に直接、滲んだインクでこう記されていた。
『千尋くん。雨が強くなってきた。あなたの警告、ちゃんと届いたよ。だから私は、山へ行くのをやめて、隣の町の避難所へ向かいます。
このノートをあなたがいつ見つけるかはわからない。明日かもしれないし、ずっと先かもしれない。
でも、もしこれを見つけたら、あの図書室があった場所に来て。
十年後の今日。私は、そこであなたを待っています。
――未来のあなたに、会いに行くために』
日付は、2014年8月20日。
千尋の頬を、熱いものが伝った。
彼女は賭けたのだ。千尋の言葉を信じ、自分の運命を書き換え、そして「十年」という気の遠くなるような時間を、ただ一度、千尋に会うためだけに生き抜くという賭けに。
「栞……っ」
千尋はノートを抱きしめ、夕闇に包まれ始めた旧校舎へと駆け出した。
旧校舎の図書室があった場所は、今は更地になり、新しい校舎の影に隠れた小さな中庭になっていた。
千尋がそこに辿り着いた時、時計の針は午後六時を指していた。
夕立の予感を含んだ、生温かい風が吹く。
アスファルトが濡れ始めた、あの「少し寂しい匂い」が漂ってきた。
そこに、一人の女性が立っていた。
白いブラウスに、藍色のスカート。
千尋よりも少し背が高く、その瞳には、千尋の知らない十年の歳月が、深い光となって宿っていた。
彼女の手には、千尋が図書室に残してきたはずの、あの古い詩集が握られていた。
「……遅かったじゃない。千尋くん」
彼女の声は、千尋が想像していたよりもずっと優しく、そして、付箋の文字から感じていた通りの、芯の強さを持っていた。
二十七歳になった栞は、少し困ったように笑い、それから、一歩だけ千尋の方へ歩み寄った。
「十年、待ったんだよ。君があの付箋を貼ってくれるのを。そして、私がこの場所へ来るのを」
千尋は言葉にならなかった。
彼女は、千尋が図書室で付箋を見つけるよりもずっと前から、千尋のことを知っていたのだ。
2014年に千尋からの警告を受け取った彼女は、それから十年間、千尋が高校二年生になり、あの図書室で詩集を手に取るその日まで、静かに、けれど情熱的に、時が満ちるのを待っていたのだ。
「僕……僕は……」
「言わなくていいよ。全部、知ってるから。だって、君が書いてくれた付箋、私、全部持ってるもの」
栞は詩集の間に挟まれた、色褪せた青い付箋を愛おしそうになぞった。
二人の時間は、今、ようやく同じ歩幅になった。
雨が本格的に降り始めた。
けれど、もう寂しい匂いはしなかった。
千尋は、十年前から届いた彼女の手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。
その温もりは、どんなインクの言葉よりも鮮やかに、二人の現在を証明していた。
「会いたかった、栞さん」
「うん。やっと会えたね、千尋くん」
十年の隔たりを超えて。
二人の恋は、今、この雨の中で、ようやく最初のページをめくった。
***
降りしきる雨の中、千尋は栞の温もりに浸っていた。十年の歳月を越えて目の前に現れた彼女。その事実に、これ以上の奇跡はないと信じていた。
しかし、ふとした違和感が千尋の指先をかすめた。
「……あれ?」
栞が持っていたあの古い詩集。
彼女が「十年間大切に持っていた」はずのその本を、千尋が何気なく受け取った時のことだ。
千尋が図書室で読んでいた時、その詩集の背表紙には、誰かが無理やり剥がそうとしたような、赤黒い「禁帯出」のラベルが貼られていた。
しかし、今、栞が持っている本には、そんな汚れ一つない。それどころか、まるで今日新刊書店で買ったばかりのような、異様なほど瑞々しい質感を保っている。
「栞さん、この本……」
問いかけようとした千尋の言葉は、栞の表情を見て凍りついた。
彼女は微笑んでいた。けれど、その瞳は、先ほどまでの慈愛に満ちたものとは違う、どこか虚無的な、透き通った色をしていた。
「あれ、千尋くん。気づいた?」
栞は千尋の手にある詩集の、あるページをめくった。
そこには、千尋が書いたはずのない、「未知の付箋」が貼られていた。
色は、これまでのような青ではない。
禍々しいほどに鮮やかな、真紅の付箋。
そこには、震えるような走り書きで、こう記されていた。
『逃げて。今の私は、君が知っている私じゃない』
日付:2034. 8. 20
「二〇三四年……?」
千尋は息を呑んだ。今の千尋から見れば、それは「十年後の未来」から届いたメッセージだ。
千尋が目の前の栞を見上げると、彼女の姿が、雨の雫に濡れたガラス越しのように、一瞬だけ激しく歪んだ。
彼女の影が、地面に二つ落ちている。一つは今の彼女の影。そしてもう一つは、泥にまみれ、助けを求めるように手を伸ばす、「あの日、助からなかったはずの栞」の影だ。
「千尋くんが過去を変えた時、世界は二つに分かれちゃったの」
栞は、冷たくなった指先で千尋の頬をなでた。
「助かった私と、助からなかった私。今、あなたの前にいるのはどっちだと思う?」
遠くで、再び雷鳴が轟く。
千尋が持っていた錆びたビスケット缶の中のノートを確認しようと視線を落とすと、そこにあったはずの栞のメッセージが、まるで水に溶けるように、みるみるうちに消えていく。
代わりに浮き上がってきたのは、全く別の、無数の他人の筆跡。
それは、この図書室の詩集を通じて「過去を変えようとして失敗した」人々が残した、呪詛のような付箋の山だった。
栞だと思っていた女性が、耳元で囁く。
「ねえ、千尋くん。次の十年の文通を始めましょう? 今度は、君が私を『本物』にする番だよ」
千尋が繋いでいた手の感覚が、急に希薄になる。
彼女は本当に、十年前から歩いてきた「栞」なのか。それとも、千尋が過去を弄んだことで生み出された、実体のない「時間のバグ」なのか。
雨の匂いが、再び変わった。
それはアスファルトの匂いでも、花の匂いでもない。
古びた紙が燃えるような、焦げ付いた、終わりを告げる匂いだった。
千尋が繋いでいた手の感覚が、急速に温度を失っていく。
目の前の「栞」と名乗る存在の輪郭が、雨のヴェールに溶けるように透けて見えた。
「栞さん、君は……誰だ」
千尋の震える声に、彼女は悲しげに、けれど抗いようのない確信を持って微笑んだ。
「私は、君が望んだ『記憶』の集積。千尋くん、君は無意識のうちに、詩集を使って過去を書き換えすぎたの。その代償として、君のいる2024年のリアリティが剥がれ始めている」
彼女が空を指さした。
見上げると、夜空の一部が虫食いのように欠け、そこから2014年の濁流の音が漏れ聞こえていた。過去を救ったことで、現代の平穏が侵食され始めたのだ。
「このままだと、この街ごと十年前の泥の中に沈むわ。千尋くん、選択肢は一つだけ」
栞は、真紅の付箋が貼られた詩集を千尋の胸に押し付けた。
「その付箋を剥がして、2034年の君へ、本当の結末を書き送って。……私が、あの日の山で死ぬはずだったという、『正しい歴史』を」
「そんなこと、できるわけないだろ!!!」
千尋は叫んだ。彼女を救うために、あんなに必死に文字を紡いだのだ。ようやく触れられたその手を、自分から離すことなどできるはずがない。
しかし、足元のアスファルトが泥濘に変わり、周囲の建物が蜃気楼のように揺らぎ始める。遠くで、存在しないはずの避難警報が鳴り響く。
栞は優しく千尋の手を握り、それを詩集の赤い付箋へと導いた。
「大丈夫。私は消えるんじゃない。君の心の中に、一番綺麗な姿で固定されるだけ。……さよなら、私のヒーロー」
千尋が泣きながら付箋を剥ぎ取った瞬間、凄まじい閃光が視界を埋め尽くした。
次に千尋が目を覚ました時、そこは建て替えが終わったばかりの、真新しい図書館のベンチだった。
頬には涙の跡が乾いて残っている。
手元には、あのボロボロの詩集があった。
恐る恐る中を開く。
32ページ。
そこには、もう青い付箋も、赤い付箋もなかった。
ただ、紙面に直接、古びたインクでこう刻まれていた。
『2014. 8. 20 この本をいつか手に取る君へ。
私は、君のおかげで最期まで一人じゃなかった。
ありがとう。あなたの未来が、どうか晴れ渡っていますように。 桜音栞』
それは、過去を書き換えた「奇跡」の代わりに残された、彼女からの本当の遺言だった。
千尋は立ち上がり、窓の外を見た。
そこには、十年前の土砂災害を乗り越え、力強く復興した街並みが広がっている。
栞はいない。
けれど、彼女が守りたかった「未来」が、今、千尋の目の前に確かに存在していた。
千尋はポケットから、自分自身の新しい付箋を取り出した。
そこには、もう警告も絶望も書かない。
『2024. 8. 20 栞さん、今日の空も、君に教えたくなるほど綺麗です』
千尋はそれを詩集の最後に貼り、そっと棚へ戻した。
いつか、また誰かがこのページをめくり、見えない誰かとの対話を始めることを願って。
***
雨はいつしか、すべてを洗い流すような細い霧雨へと変わっていた。
千尋の指先には、まだ彼女の体温の残滓が、消えゆく香りのように微かに留まっている。
世界は再び、静謐な秩序を取り戻していた。
濁流の音も、真紅の警告も、歪んだ影も。すべては最初からなかったかのように、夜の帳の向こう側へと吸い込まれていった。
千尋は、手の中に残された古い詩集を見つめた。
それはもう、時を繋ぐ魔法の道具ではない。ただの、古びた紙の束だ。
けれど、その空白の余白には、目に見えない無数の想いが積層している。十年の歳月をかけて、一文字ずつ、一滴ずつ、二人が分け合った孤独と救済の結晶が。
「栞さん」
その名を口にすると、風が優しく頬を撫でた。
彼女が本当に実在したのか、あるいは未来の自分が作り出した美しき幻影だったのか、もはや千尋にはわからない。
けれど、彼が流した涙の熱さだけは、紛れもない真実だった。
人は、失ったものの重さで、自分の今立っている場所を知る。
彼女を救えなかったのではない。
彼女が、千尋の生きるこの世界を、その命と引き換えに美しく繋ぎ止めてくれたのだ。
千尋は、夜の図書室へと続く階段を静かに登った。
もう、ここから逃げる必要はない。
自分の進むべき道の先には、彼女が夢見た「晴れ渡った未来」が続いているのだから。
棚の片隅。元の場所へ、詩集を戻す。
それは、彼女という長い長い手紙を、ようやくポストに投函するような心地だった。
窓の外では、雨上がりの月が雲の切れ間から顔を出し、濡れた街を銀色に縁取っている。
2024年の月光は、かつて彼女が見上げた2014年の月と同じ、どこまでも透き通った光を放っていた。
ページを跨ぎ、時代を越え、結ばれることのなかった二人の恋。
それは、言葉というインクが乾いた後も、誰かの胸の奥で永遠に滲み続ける。
青い付箋が色褪せても、物語は終わらない。
次に誰かがこの本を開くとき、物語はまた、新しい一行目から書き始められるのだから。
――遠い空の向こうで、風がページをめくる音がした。
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