おっぱい枕
目を開けると、そこにはトレーナー室の天井が広がっていた。
後頭部に感じるハリのある柔らかさと、ほのかに漂う清楚で甘酸っぱい香り。まさか、またやってしまったのだろうか、と思わず血の気が引く。そして答え合わせをするかのように、一人のウマ娘が、上から覗き込んで来た。
「……お目覚めですか、トレーナーさん?」
彼女の、長く美しい青色の髪がふわりと流れて鼻先を微かにくすぐる。
儚げで品のある雰囲気、優しげなカーブを描く眉、カチューシャのような編み込み。担当ウマ娘のメジロアルダンは、アメジストの双眸で、どこか不満そうに見下ろしていた。
俺は今────彼女に、膝枕をされている。
そして、蛇に睨まれた蛙のように、ぴしりと固まってしまっていた。
「以前、居眠りをしてしまうほども無理をしないでくださいと、お伝えしましたよね?」
「……はい」
「充血した目、僅かに黒ずんだ目の下、少しかさついているお肌」
「うっ」
隠していたつもりだったのだが、アルダンには全てお見通しだったようだ。この状況は、バレンタインの時の、焼き直しである。
バレンタインの日、俺はうっかり居眠りをしてしまい、アルダンに膝枕をさせてしまった。蓄積した疲労を見抜かれて、彼女から注意をされて、そして、バレンタインチョコを貰った。
あの時、無理はしないようにしようと、心に決めたはずだったのだが。俺はひどい自己嫌悪に襲われながら、彼女へ謝罪を口にする。
「すまない、キミのことを考えていたら、つい時間を忘れてしまって」
「……えっ?」
「今後のトレーニングプランやローテーション、考えたいことはいくらでもあるから」
「あっ、ああ、そういうことでしたか、てっきり私と同じ………………こほん」
アルダンは何故か頬を染めながら、誤魔化すように咳払いをした。そして、俺はふと、我に返る────いつまで膝枕をされているつもりなのか、と。
慌てて起き上がろうとすると、彼女は少し心配そうな視線を向けた。
「もう少し、このまま休んでいても宜しいかと」
「いや、もう大丈夫、それにいつまでもキミの脚に負担をかけてられないからね」
「……このくらいならば、何の心配もありませんが」
「それでも、だよ、キミの脚には刻むべき軌跡がある、俺なんかのために使っちゃダメだよ」
硝子の脚と呼ばれた、アルダンの脚。それはもう過去の話であり、今や重戦車とも呼ばれるような、力強い走りを支えていた。彼女のことは、信じている。けれど、どうしても、心配になってしまう俺が心の奥底にいた。
…………まあ、そもそも担当に膝枕をしてもらう、という行為自体がアレなのだけれど。
俺はゆっくりと起き上がって、改めて、彼女の座るソファーへと腰掛ける。背もたれを倒すと簡易ベッドにもなる大きなソファー、メジロ家御用達のメーカーだとかなんとか。
少しすっきりとした頭を軽く回してから、俺は改めて、彼女と向きあう。
「…………」
向き合ったアルダンは────何故か、頬を膨らませていた。
思慮深く、落ち着いていて、大人びた彼女には珍しく、どこか子どもっぽい様子で。何故そんな表情をするのかがわからなくて、俺は恐る恐る、彼女の名前を呼んだ。
「えっと、アルダン?」
「……ええ、トレーナーさんがそうおっしゃるのでしたら、膝枕はもうやめておきます」
「あっ、ああ、そうしてもらえると」
「ですから、トレーナーさんも無理はやめてくださいね」
アルダンは、口の端を吊り上げて、目を細める。上品でありながら、どこか艶めかしく、それでいて美しい微笑み、それは彼女らしからぬ表情で、どちらかといえば、彼女の姉のような魔性の顔。
思わず心臓が固まり、目を奪われてしまった俺の耳に、彼女の声が入り込んでくる。
「次に、居眠りを見かけたら────とびきりの枕で、お休みしていただきますので」
その言葉の意味は、良く分からない。良く分からないけれど、得体の知れない恐ろしさを、確かに感じた。
俺は改めて、無理はしないようにしようと、心に誓うのであった。
◇
人は何故、過ちを繰り返すのだろうか。
対戦する相手の研究に、熱中し過ぎてしまったからだろうか。取り寄せた論文の内容が思った以上に興味深く、熟読してしまったからだろうか。アルダンの走りをより良くしていくため、彼女のレースを何度も見直していたからだろうか。
あるいは、その全てか────俺は覚醒した意識の中、深い後悔を感じていた。
身体が横になっていると、まず気づいた。先ほどまでデスクで仕事をしていたはずなので、恐らくは、アルダンが運んでくれたのだろう。
約束したはずなのに、一体、何をしているのやら。心の中で自嘲しながら、俺は恐る恐る、目を開いた。
「……?」
しかし、視界は広がらない。
目は開いているはずなのに、眼前は依然として真っ暗のままだった。どういうことだろうと思いながら、周囲を見るように、顔を動かしてみる。
「あっ、ん……!」
────その時、周囲がぴくんと震えて、聞き慣れた相手の、聞き慣れない甘い声が鼓膜を揺らした。
俺の、思考回路が一斉に停止して、すぐさま再起動が行われる。微睡みから完全に目覚めた俺の感覚が鋭敏に機能して、周囲の状況を捉え始めた。
ふんわりと柔らかく、母性に溢れた膨らみと温もりに、顔が沈み込んでいる。
鼻腔から押し付けられるように伝わってくる、とても甘く、芳しい香り。
背中には優しく抱きしめるように伸ばされた細い腕と、小さな手。
左脚をがっちりと挟み込んでいる、細身ながらもハリのある左右の太腿。
右足の方には、さらさらの毛並みが捕らえるかのように、しゅるりと絡みついていた。
まさか、いや、まさか。
今の俺がどんな状況なのかは、おおよそ想像はついていた。けれどそれを認めることが出来なくて、俺は新たな情報を得るべく、顔を動かす。
「んっ……もうトレーナーさん、めっ、ですよ? もぞもぞとされたら、くすぐったいですから」
そして、即座に、現実へと叩き落される。俺は諦めるように、ゆっくりとした動きで、なんとか視線を上へと向けた。
そこには、頬を紅潮させて、慈愛に満ちたような微笑みで俺を見つめる、アルダンの顔。
今────俺は彼女の胸に、顔を抱き寄せられてた。
先日、膝枕をしてもらったソファー。その簡易ベッド機能を存分に活用して、俺達は身体を絡ませながら、横になっている。全身に触れ合う生々しい肉感と体温に気づいてしまい、顔が燃えるように熱くなった。
「アッ、アルダン? これは、いったい?」
「…………言ったではありませんか、次に居眠りを見つけたら、とびきりの枕で休んでいただく、と」
「いや、確かに言ったけれども……!?」
「脚ではなく、私の身体で、もっとも柔らかなところ、ですから」
アルダンはそう言うと、背中から手のひらを滑らせて、後頭部へと触れる。そして、優しく力を加えて、自らの豊満な胸の中へと、俺の顔を押し込んだ。
「むぐっ……!?」
再び、ふわふわとした谷間へと落とされる。
苦しくはない、痛みもない。
ただ、けれど。
視界は彼女の胸に阻まれて、他を見ることは出来ない。
鼻先は彼女の匂いでいっぱいになって、完全に麻痺してしまっている。
触覚は彼女の温もりと柔らかさに包まれて、他もは何も感じられない。
鼓膜は彼女の小さな鼓動と少し乱れた息遣いで、絶え間なく震えていた。
口を開けば、より濃厚に彼女を感じてしまいそうで、開けることが出来ない。
もはや────アルダンに、五感を染められてしまっていた。
「トレーナーさん、私、怒っているんですよ?」
ふと、小さな声が聞こえてくる。悲しそうな響きを感じさせる、少しだけ重みのある声。
当然だろう、俺はアルダンとの約束を、裏切ってしまったのだから。後悔に顔を歪めて、息を詰まらせてしまう中、アルダンの言葉は続いていく。
「貴方が、私の止まり木であるように、私も、貴方の止まり木になりたいと、思っているんです」
思わぬ内容に、俺の頭が真っ白になってしまう。空白になった脳へと刻み込むように、ゆっくりとした彼女の声が落ちて来る。
「だから、自分なんか、なんておっしゃらないでください」
────貴方はともに『今』を歩むと決めた、私の大切な人なのですから。
彼女はそう言うと、さらさらと、俺の髪を優しく撫でつけた。アルダンは自らが儚き身であることを、自覚していた。何時、砕け散るかもわからない存在であることを、認めていた。
けれど彼女は、自分を卑下することはなかった。
短くとも、すぐに色褪せて、忘れ去られてしまうとしても。それでも、『今』この瞬間を輝かせるために、命を賭したいと彼女は考えていた。
その覚悟を目に刻んでいたからこそ、俺も覚悟を決めたというのに。
「……ごめん、アルダン」
「……わかっていただければ、良いのです」
「痛いくらいに、わかったよ、今度こそ、もう大丈夫だから」
アルダンは、約束を破った俺に怒っていたのではない。自らを顧みず、自らの存在を軽く扱う俺に、怒っていたのだ。
…………本当、まだまだだな、俺は。
改めて、自らの不明を自覚して、小さく息をつく。そして、解放してもらうべく、とんとんと、彼女の肩に触れた。すると彼女はくすりと笑みを浮かべて────ぎゅうっと、より力強く抱きしめて来た。彼女の全てが、より強く、より色濃く、脳へと叩き込まれる。
「……!?」
「それはそれとして、罰は罰、ですから」
耳に、アルダンの熱い吐息交じりの囁きが、襲いかかる。ぞくりと反応してしまう俺を見て、彼女は悪戯っぽい笑みを貰いながら、言葉を紡ぐのであった。
「…………今日はこのまま、たっぷりと、お休みしていだたきますね?」
◇
そうして数分が過ぎた。
お互いにほとんど言葉を交わさず、ただ静かに寄り添っている。彼女の胸に顔を預けたまま、俺はまるで子どものように身を任せていた。
胸元から響く、一定のリズムで刻まれる心音。その音に耳を澄ませていると、不思議と、焦燥も不安も、すべてが溶けていくようだった。意識がうっすらと滲んで、瞼の裏が柔らかく温まってくる。
「……アルダン」
抑えきれずに、俺は声を漏らす。
不安だった。弱さを見せてしまう自分が、情けなかった。けれど今だけは、心のどこかが、どうしようもなく甘えたがっていた。
「少しだけ、こうしていてもいいかな……?」
情けない言葉だった。
自分でも、そう思った。けれどアルダンは、何も言わず、ただゆっくりと手を後頭部に回して、優しく撫でた。
「……もちろんです。いくらでも、どうぞ」
その囁きは、春の陽だまりのように、柔らかく、あたたかかった。俺はそっと目を閉じて、彼女の胸に頬を寄せた。
かすかに感じる、鼓動と鼓動の重なり。温かな柔らかさに包まれて、緊張の糸が、ぷつりと切れる。
何もかも、もういいとさえ思えた。この人が、こうして受け入れてくれるなら。自分の弱さを、否定せずにいてくれるのなら。今だけは、何も考えず、甘えても許されるのだと。
「……ありがとう、アルダン」
小さく呟いた俺の言葉に、アルダンはそっと頷き、もう一度、俺の髪を撫でた。
「こちらこそ……トレーナーさんが、素直になってくださって、嬉しいです」
その声には、愛しさと安心と、どこか、くすぐったさを含んだ微笑みがあった。
ふと、俺の唇が、彼女の胸元に触れた。
柔らかな膨らみの中で、ただ沈み込むだけだったはずの感覚が、次第に意識を侵食していく。あまりにも甘く、あまりにも心地良いその感触に、抗うことが出来なかった。
ほんの少しだけ、吸い寄せられるように唇が動いてしまったのは、きっと無意識のことだった。けれど、それが彼女の吐息を震わせるには、十分すぎるほどの刺激だったらしい。
「……んっ、トレーナーさん……」
微かな、けれど確かな声が、彼女の喉から漏れる。
それは驚きと戸惑い、そしてどこか満たされたような、甘やかな響きを孕んでいた。拒まれることも、咎められることもない。ただ静かに、彼女の手が、そっと俺の頭を抱きしめる力を強める。
その仕草に、安心を覚えてしまったのだろう。まるで子どもがそうするように、俺は彼女の胸元に頬を擦り寄せる。ボタン越しに感じる体温と香り。その障壁の存在が、次第にもどかしく思えてくるのに、そう時間はかからなかった。
「……アルダン、少しだけ……」
言葉にならない言葉を呟きながら、俺はそっと彼女のブラウスのボタンに手をかける。
拒まれるかもしれない。
それでも、彼女は何も言わず、ただ静かにこちらを見つめていた。肯定でも拒絶でもない、けれど──すべてを委ねるような、そんな瞳だった。
一つ、また一つ。
慎重に、震える指先でボタンを外していく。隙間から覗く白く繊細な肌が、吐息を誘い、胸の鼓動を早めた。彼女は何も言わず、ただ、そっと自らの髪をかき上げ、俺に視線を注ぎ続ける。
最後のボタンが外れる頃には、俺の中の羞恥や躊躇はすっかり溶けていた。
薄布の隙間から覗いたその柔らかさに、ほんの一瞬、呼吸が止まった。それはまるで、夜明けの雫のように繊細で、触れることすらためらわれるほど美しかった。
彼女の胸元は、下着からわずかにはみ出していた。レースの縁取りが淡く波打つ、薄い水色のブラ。優雅さの中に、ほんのりとした少女の名残を感じさせるその下着は、まるで彼女の内面そのもののようだった。清らかで、でもどこか、隠しきれない艶がある。
「……アルダン」
名を呼ぶと、彼女はゆっくりと目を伏せ、小さく頷いた。
その仕草に、俺の中の理性が、音もなく崩れていく。
横になったまま、彼女の肩へ指先を這わせて、そっと肩紐をつまんだ。滑らせるように引き下ろすと、レースの縁が彼女の肩をくるりと撫で、音もなくソファの上に落ちていく。その動きに合わせて、胸元を包んでいた布も、重力に従ってゆるやかにずれていった。
そして──
彼女の乳房が、ふわりとあらわになる。
大きな膨らみは、横たわった姿勢のまま自然に流れ、けれどなお、瑞々しく張りを感じさせた。淡く紅を帯びた乳首が、小さく硬くなっているのがわかる。冷たい空気に反応したのか、それとも、俺の視線が触れたせいか──その答えは、彼女の瞳の奥にあった。
「見ないで……なんて、言えませんね……ふふ……」
アルダンが小さく微笑んだ。
その声は、どこか照れくさそうで、けれど嬉しそうでもあった。そんな表情をされてしまえば、もう、ためらう理由なんてどこにもなかった。
俺はゆっくりと顔を近づけた。彼女の胸元から漂う、淡い花の香りに包まれながら──
そして、そっと唇を重ねる。柔らかく、温かく、そしてどこか甘い。軽く吸うと、アルダンの身体がぴくりと震えた。唇に伝わる、確かな反応。それが心地よくて、俺は今度は少しだけ、舌を這わせた。
「あっ……ん、んんっ……」
吐息がもれる。
抑えた声が、彼女の喉奥から漏れ出すたびに、俺の奥底にある本能がざわめいた。そのまま何度も、丁寧に、彼女の乳首を口に含む。甘えるように、貪るように、ゆっくりと吸い上げた。
彼女の指が、俺の髪に絡む。逃がさないように、でも傷つけないように。そこには、確かな欲と、深い情が混ざり合っていた。
──もう、戻れない。
そんな予感が、胸を締めつけた。けれど、不思議と怖くはなかった。彼女の鼓動が、俺の耳元で穏やかに響いていたから。