月は東に日は西に
見渡せば、広大な菜の花畑。柔らかな光の朧月は、黄色い海に浮かび、振り返れば、夕日は沈もうとしている。
(ああ、此処を知っている)
記憶の奥から、懐かしさが陽炎の様に立ち昇る。
『菜の花や月は東に日は西に』与謝蕪村の俳句の状況が整うのは、春の満月の夜だと、あの人は教えてくれた。
(……あの人)
あの人が、菜の花畑の小道を登って来る。
胸が疼いた。都会で大学生だった頃の同級生西野ヨウタ。彼とは二回生の時から卒業まで同棲していた。
近付きながら、彼が何か言った。
『……は、しあわ……でしたか』
――卒業時に、プロポーズされた。卒業間際に一度だけ訪ねた彼の郷里は、ひなびた漁村だった。風にギシギシ軋む、古い木造の小さな家と田舎の因習は、私の許容を超えていた。
此処で生きて行くことは無理だと思った。
彼の家に入る覚悟が出来ない私は、別れを告げる。何度も話し合ったが、彼が実家に戻らない選択は無く、私が彼の実家に入る選択も無かった。私の愛とは、その程度のものなのだと、自己嫌悪に陥った。しかし、長い結婚生活を思えば、当初から選択しないのがベターである。それが、理系女子である私の判断だった。彼への愛が消えた訳でも、彼の私への愛が消えた訳でもなかったが、私達は同棲を解消し別れた。
「結婚は愛だけでは成り立たないのよ」
分かったようなことを言う私に、彼は最後まで食い下がったが。
場面は変わって駅のホーム。
見送りに来た彼をホームに残し、私は物理的に距離を置く為、郷里への列車に乗る。遠ざかる彼の姿を、涙で見えなくなるまで見詰めていた。私がホームに残したのは、彼だけではなかったのかもしれない。
そこで、目が覚めた。
今頃、何でヨウタの夢など見たのだろう。彼のことは久しく忘れていたのに。
目覚まし時計のアラームが鳴る前に目が覚めた。今日もまた忙しい一日が始まる。今日はS社との打ち合わせと、K社とⅯ社の見積り確認。今日のタスクを確認して出社する。
「おはようございます」
「おはよう。工藤さ……、じゃなくて、東山さん」
苦笑する私に、上司は「すまんね、まだ慣れなくて」と言い訳する。
私は最近、離婚して姓が旧姓に戻っていた。
大学卒業後、勤めた会社の取引先の御曹司と結婚したが、子供が出来なくて離婚。結婚生活は十余年だった。子供が欲しい元夫と仕事をしたい私。相手が変わっても、私と相手の考えは平行線のまま、別れを選択した。
私は今年で四十二歳になる。結婚も子供も望まず、これから一人で生きて行くと決めた矢先に、ヨウタの夢を見るとは思わなかった。
平安時代、夢に誰かが出て来るのは、その人が自分に会いたがっているからだと考えたそうだが、「まさかね」と自分で打ち消す。あんなに一方的な別れ方をしたのだから、彼は私を恨んでいると思う。
そういえば、あれから彼はどうしただろう。何の情報も無く過ごしてきたが。
数日後の週末、私はふと、夢に出て来た場所を訪ねてみたいと思った。あれは、ちょうど今頃の神戸市だった。与謝蕪村があの句を詠んだ摩耶山に菜の花畑は無かったので、神戸総合運動公園まで足を延ばしたのだった。残念ながら条件が合わず、与謝蕪村の俳句の情景にはならなかったが。
思い立った私は新幹線の乗客になっていた。
『摩耶山がある辺りでは、菜種油を生産するために菜の花が栽培されていたのだよ』
過ぎ去る車窓の景色を眺めながら、物知り顔で彼が話していたのを思い出す。
(私は何をしているのだろう)
自分の行動が、いまいちよく分からない。彼と行った菜の花畑の夢を見て、思い出に浸りたいのだろうか。彼は夢の中で何か言っていた。何と言ったのだろう。私は根拠なく、あの場所に行けば分かるような気もしていた。
神戸総合運動公園は菜の花が満開だった。
丘を登りながら、彼の言葉を思い出す。
『俳句の状況が整うのは、春の満月の夜』
何処かで仕入れた知識をちょこちょこ紹介してくれる人だった。出掛けに調べたら、今夜は満月だった。けれど、今は昼間だから、夢で見た様な情景にはならない。
空は晴れ渡り、そよ風が温く顔を撫ぜる。丘の上から広場から眼下を眺めると、黄色いじゅうたんが広がり、遠景には明石海峡大橋や淡路島が見渡せた。ピクニックをしている家族連れがいる。小さな子供や世話をする両親。私が望まなかった未来は、優しく温かな光景だった。
二十代から今日まで、私は何を得、何を失ったのだろう。
ヨウタと結婚していたら、元夫との間に子があれば。いやいや、たらればを考えても仕方ないことだ。私は、その時のベストを選び取ってきたはずだ。
「菜の花や月は東に日は西に」
広がる菜の花畑を見て、思わず口にすると、誰かの声が重なり、私は振り返る。
其処には私と同じく二十年の時を経た彼が立っていた。
「……ツキミ?」
「……ヨウタ?」
「何で……」
「ええっ……」
こんな事があるだろうか。夢が私を此処に呼んだのだろうか。
そういえば、『平安時代、夢に誰かが出て来るのは、その人が自分に会いたがっているからだと考えた』というのも、彼が教えてくれたことだった。
二人でレンタルのピクニックシートに座る。
キッチンカーで調達したコーヒーが熱く香った。
「……そう、貴方は結婚しなかったの」
「きみと平行線のまま別れたのが、ずっと引っ掛かってさ。何とか出来なかったのかなって、考えていた」
「……ご実家は?」
「両親が施設に入ることになったから、いずれ取り壊すつもり」
「そう」
私は、風で軋む彼の実家を想った。
「僕が拘こだわっていた実家とか郷里とか、何なのだろうって思う。どちらも、今も大切なのに変わりはないけれど、その拘りの所為で、僕の人生から、きみが居なくなってしまった」
「私はね、結婚したよ」
「……そか」
ヨウタは熱いコーヒーに口を付ける。
「でも、子供が出来なくて離婚した」
隣で彼が身じろいだのが分かった。
「仕事をしたかったの。不妊治療しようと言われたのが、丁度、大きな計画を任された時だったから、途中で体調を崩したり、出産や育児で休んだりしたくなかった」
「ツキミらしいね」
ヨウタは、ふふと笑う。
「今日、此処に来たのはね、夢に貴方が出て来たからなの。ほら、あの蕪村の俳句みたいな菜の花畑にいて」
ヨウタは、はっとしたように顔を向けた。
手にした紙コップのコーヒーが揺れる。
「以前、話してくれた事あったでしょ、平安時代の人の夢の考え方。もしかして、貴方が会いたがってくれたのかなって?」
冗談のつもりで笑い掛けたが、ヨウタは真面目な顔でポツリと言った。
「……きみは幸せでしたか」
今度は、私がはっとする番だった。
「それって」
夢の中で、彼が口にした言葉なのだと、瞬時に理解する。
「きみに会いたかった。未練がましいけれど、あの別れが、自分で納得できなかったから。しかし、本当にそういうこと、あるんだな」
彼はコーヒーを一口飲んだ。
「あの時、貴方も私もベストの選択をしたはず、そう思い込もうとしていた。でも、多分、心の深い処で納得していなかったのかもしれないね」
ヨウタと元夫との双方と、平行線のまま別れを選んだ私には、何か他に道があったのかもしれないとも思う。
「妥協? ううん、歩み寄りが出来たのかもしれないなって」
「自分の考えで突き進むだけが良い訳ではないってこと、僕も思った。あの時は一つしか見えなかったけれど、他に道はあったのかもしれないってね」
「ふふ、これは歳を取ったから分かる事なのかも?」
私の言葉に二人で笑う。
青春時代を共有した彼。二人の間に横たわる二十年の歳月を飛び越えた気がした。
日は傾き始め、ピクニックの人々も帰り支度をしている。そろそろ、ピクニックシートを返却しなくてはと考える。コーヒーは、いつしか空になっていた。
ヨウタは菜の花畑を眺めている。
「今夜は満月だから、もしかしたら『月は東に日は西に』を見られるかもしれないよ。……どうする?」
彼の言葉に私は首を横に振った。
「ごめん、明日早いの。だから、今日はこれで、もう帰ります」
「ははは、ツキミは月だな、東に上る。僕は、西に帰る」
「月は東に日は西に? ヨウタは、日ってことね」
笑った顔のまま彼は私を見詰める。
「会えて良かった」
「私も」
それから、二人は連絡先を交換して別れた。
この先、どうなるのか分からないけれど、帰宅の途に就いた私の心に、ポッと温もりが灯った気がした。
新幹線の窓を、昇り始めた朧月と菜の花畑が流れて行く。