第56話 帰宅
家に帰ると、香ばしい匂いがしていた。どうやら日比野千代子夫人が魚を焼いているところらしく、俺は一郎くんに頼んで、一郎くんは千代子夫人に「すいません、隼人は食欲がないらしいので」と言いに行った。食べ物は喉を通らなかった。食おうとすると、身体がそれを吐き出そうとしてしまった。別に食ってやっても構わんのだが、そうすれば必然的に咀嚼して吐き出す機械的な儀式か何かになるため、千代子夫人に対して失礼にあたるだろう。
そんな言い訳がましい事をひとり勝手に呟きながら、一郎くんが千代子夫人の機嫌を直すために非常に明るい態度を取っているのを聞きながら、2階の部屋に篭った。この家はあまり広くない──と言うのは失礼だが、前に住んでいた家は各階5室の3階建てだったから、相対的に狭く見える──し、他の部屋は用途が決まっているから、俺と一郎は襖で続いた連続した6畳の和室に入れられていた。
紳助さんからは毎月3000円の小遣いが貰えて、一郎くんは俺の代わりにご機嫌を取るために随分優しく使っているらしい。俺はそういう使い方が分からなかった。なので、使わずに引き出しの中に貯めていた。
ベッドの上で寝転がっていたピグさんを抱き上げて、布団の上に寝転んで、ピグさんを脇に下ろす。ピグさんは「ピグピグ」と音を出しながら、抱きついてきた。
しばらく天井を眺めていると、ふと携帯電話が鳴った。見ると、それは、師匠からの電話らしく、俺は通話を開始させると、冷たくなったそれを耳に当てた。
「元気か、隼人くん」
「その元気というのは『身体的病気ひとつなく精神的病気もなく』という事を言っているなら、『身体的病気』という面で言うと元気だが、『精神的病気』という面を言うと、元気とは言い難い。自己診断は心的外傷後ストレス障害。それと鬱病の併発。おばけアーカイブのほとんどが消えた」
「重症だな」
「そうですか? そうかもしれないけど、いまになってはどうでもいいことだよ」
「君の家に火をつけた犯人を特定した。黒申教の信者の親族だった」
「住所は」
「なに?」
「住所は」
「そいつの住所と、家族構成は」
「教えないよ。こういう事は警察に任せるべきだ」
「そうですか」
名前は……橋本雄二。
妻と子がいる。妻は橋本琴葉。専業主婦。火曜日は12時から14時まで近所の主婦と食事。子は橋本勉。花巻市立花巻城南小学校に通う小学4年生。住所は岩手県花巻市花城町細かいところは省略。毎週土曜日は酒を飲み、友人、土井雅之・佐々木誠也と共に駅前の居酒屋に最低でも4時間居座る。
「じゃあ、もう切りますね」
「待って、隼人くん」
「なに」
「君を改造するのは……まだ先だ」
「改造なんて話もありましたね。忘れてたんで大丈夫です」
「…………君が物事を忘れる……?」
「なんですか?」
「いや、なんでもない」




