第35話 黒垂れるもの
悠の家に呼ばれたので行くと、赤ん坊がいた。
「俺と君の子かい?」
「なに言ってんだお前? 甥っ子だよ。立花右京! お前人の名前おぼえられたっけ」
「従兄弟の一郎君の名前を覚えるのに何年かかったっけ?」
「10年」
「そう! 10年だ。悪いけど人間を覚えるくらいならおばけを覚えたい。う……きょうすけ? 京介くんには悪いけど」
「右京だよ」
「え?」
「京介じゃなくて右京だ」
「そうだった。ごめん。覚える気はもちろんあるんだけど、いかんせん……」
重要度が低い。
「でも俺の名前は一発で覚えてなかった?」
悠が首を傾げた。
「君はなんというか、すごく、魅力的だったから。『この先の人生、こいつの名前は忘れちゃいけない』と思ったんだ」
俺の脳みその中の内訳を話す。
ココだけの話。
おばけアーカイブ 8割
その他の記憶 0.5割
悠 1割
その他の人物 0.5割
ちなみに俺で言う0.5割は読者諸君、君たちで言う8割だ。君たちも俺ほどの記憶力を保持することは可能だ。簡単に言えば、物心のつかないうちに、頭の中に架空のインターネットを作り上げて、約1京ほどの検索キーワードを想定しておく。そして、そこに結びつけて、物事を自動で記憶するように学習しておく。つまり君たちには無理だ。あきらめろ凡人類。ちなみに、昔この事を弾くんに教えてあげたら「それの7割をおばけに使ってるならむしろバカだろ」と言われたよ。哀しいこともあるもんだ。
「照れること言うなよ」
「照れる君も素敵だな。さて! 京平くん!」
「右京」
「右京くん! 今からお兄さんが面白い話をしてあげよう。これは、俺が体験したとてもスリリングでエキサイティングな話である」
「お前いつもそう言うけどお前の話あんまり面白くないぞ」
「なに? え? おばけだぞ? 存在するだけでスリリングさ!」
◆
青空のある日だった。雪に朝日が反射して、青く輝いて居た。そこに映す影は、どうも、神秘的だった。その時俺は家族旅行をしていて、灯火市郊外に旅館の「はぎわら」に1泊したところだった。泊まっていた部屋から海が見えるように、旅館から1歩外に出れば、海が広がっていて、とても美しいと素直に賞賛できるような海だった。その美しさに見惚れていると、目の前の欄干になにかが引っ掛かっているのが見えた。
それは、黒くドロドロしたもので、その粘液質のものは、この朝日の下にあっても、まるで光ひとつ通していなかった。光を99パーセント以上吸収する黒というのは存在しているが、それはそういうものではないように見えた。写真や映像のように、「ある一瞬を切り取った」というような。それは、そこにはあるものの別次元の何かだとでも言うような、異質な存在感だった。
光のない時に撮影した写真の中の海は輝かないように、それもここにあるように思えた。8歳児の俺は気になってそれに触りたかったが、母が嫌がるからやめた。
それから、1ヶ月ほど水辺でそれをよく見かけるようになった。地面に落ちていたり、木に引っかかっていたり、犬に咥えられていたり。
家の庭にある人工池にもそれは現れた。ある日、気になって、興味が勝った俺は、それを触りに行くことにした。当時飼っていた愛犬「ポアロ」はとても賢い犬で、それの危険性がサッとわかるようだった。俺の服の端を引っ張って、2メートル5センチより先に進ませないようにしていた。
なので、俺は石を投げつけることにした。家の裏に敷き詰められていた砂利を取ってきて、それに何回か投げつける。数回当てると、老人とも若者とも、男とも女ともとれる不気味な悲鳴が聞こえて、それは消えた。
◆
「ほら! 面白くない!」
「なぜ! おばけだよ」
「おばけなら無遠慮に面白いと思っててヤバ」
「ちなみにそのおばけはいまはもう見えないの?」
「ん? ああ、それは秘密さ」




