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Precious Summer Memory Among Us

作者: 結城 刹那


 1


 夏休み初日の土曜日。

 二週間にわたる長いテスト期間が終わりを告げ、二ヶ月間の自由を獲得した。

 初日である今日は車を使ってドライブを楽しむことにした。テスト期間は自宅と学校を往復する毎日だったのだ。いい加減、このルートから逃れたい。


 隣の県の有名スポットを目的地に設定。夏にピッタリの音楽を流して車を走らせる。

 途中で高速道路に乗り、県を抜けたあたりで降りた。高速道路から見える景色は何だか味気なかったのだ。


 車を走らせていると、左手に黄色に彩られた畑が見えてくる。夏の季節だけ見ることができる特別な畑。『ひまわり畑』だ。


「あっ! あそこに行ってみたいな」


 ひまわり畑に目を凝らしていると、不意に助手席にいたカノジョがそう言って俺が見ている先を指差す。どうやら、ひまわり畑を間近で見たいらしい。

 カノジョの願いだ。聞いてやらないわけにはいかない。急遽、方向を変えてひまわり畑のある方へと車を走らせた。


 ひまわり畑のある場所に近づいていくとフラワーパークの看板が見える。どうやら、ひまわり畑はフラワーパーク内にあるようだ。専用の駐車場に車を止め、そこからは徒歩で向かっていった。カノジョはノリノリの様子で鼻歌まじりに俺の前を歩いていく。


 受付で五百円の入園チケットを二枚購入し、入り口の方へと歩いていく。チケットは俺が持っているので、入園前に位置を入れ替え、俺が先頭に立った。


 入園口にいるお姉さんに二枚のチケットを渡す。

「いらっしゃい」と笑顔で言って彼女はチケットを二枚受け取った。

 視線を俺の後ろに向けると彼女は突然表情を変え、困ったように俺の方を見た。


「どうかしましたか?」

「えっと……もう一名の方はどこにいらっしゃいますか?」

「えっ……」


 ポッカリと口を開け、後ろを振り返る。

 夏の風が吹き荒れる。後ろにカノジョの姿はなかった。

 そこで気づく。最初からカノジョなんて車に乗せていなかったのだ。


 頬を伝う雫が汗なのか、涙なのか俺には分からなかった。


 ****


 日曜日の今日はたくさんのお客さんで店内は溢れかえっており、気の抜けない状態が続いていた。そのため、休憩時間は至福のひとときだった。私はボーッとしながら机に置かれたカレンダーを眺めていた。


 八月。またこの月がやってきた。私は小学六年以前のこの月の記憶がない。

 

 記憶というのは部屋に似ている。記憶するというのは自分が外から持ってきたものを仕舞うこと。思い出すというのは、仕舞ったものを外へと持ち出すこと。きちんと整理された部屋ほどものを探しやすく、散らかった部屋ほどものを探しにくい。

 

 私の部屋には大切なものをしまうための保管庫があった。ある日、私は大罪を犯し、怒った神様が部屋にやってきて保管庫に鍵をかけていったのだ。だから大切なものを取り出せなくなってしまった。


「ねえねえ、千影」


 カレンダーを眺めていると横にいた先輩に声をかけられる。顔を向けると彼女は目をキラキラさせてこちらを見ていた。茶髪姿の彼女には一ヶ月経った今もまだ慣れていない。


 彼女の握ったスマホ画面は私の方を向いており、画面には『◯◯花火大会』と書かれていた。そう言えば、さっき横で『花火大会に行きたい』みたいな話をしていたなと思い出す。


「この花火大会に行こうと思ってるんだけど、千影もどう?」

「ぜひ、行きたいです! 連れていってください!」


 私は特に何も考えることなく、返事をした。先輩からのお誘いだ。これからここでやっていく上で無碍にはできない。だが、承諾したタイミングでミスに気づいてしまった。


 日付は来週の日曜日。その日は予定があった。


「あー、ただ、その日ちょっと昼に予定があるので、私だけ現地集合でもいいですか?」

「了解。じゃあ、着いたら連絡してもらっていい? それで集合場所決めよう」

「はい。わかりました」


 なんとか軌道修正できて良かったと安堵する。

 来週の予定は絶対に外すわけにはいかなかった。

 そうだ。せっかくの花火大会なんだから浴衣でも着ていったら喜んでくれるに違いない。

 

 時刻を見るともうすぐ休憩終了時間だった。

 私はロッカーにスマホをしまって準備を始めた。

 

 2


 トリガルーティン症候群。

 ある状況がきっかけで決まった行動を取ってしまう精神疾患の一つである。

 

 中学二年の夏をきっかけに、俺はその病気を患うこととなった。

 川で溺れて意識不明となったカノジョ。その後の行方を知る事なく、俺は引っ越してしまった。引っ越してから何年経っても、自宅にカノジョから連絡が来ることはなかった。それで何となく状況を察してしまった。


 だから俺は自分の中にカノジョのイマジナリーを作ったのだ。これ以上、精神に負担がかかることがないように自己防衛本能が働いたのだろう。それが俺のトリガルーティン症候群発症のきっかけだ。


「お大事に。くれぐれも川には近づかないでくださいね」


 かかりつけの精神科へと赴き、カウンセリングをしてもらった。

 彼女は念を押すように俺に注意喚起する。俺の症状は自分では止めることができない。今回はひまわり畑を見てフラワーパークに行っただけだから良かった。川を見て、彼女が溺れている様子を想起して助けに行くなんてことをしたら、大惨事になってしまっていた。


 かと言って、ずっと避けるわけにもいかないのがこの病気の悪いところだ。

 自己防衛として作り上げたイマジナリーに対して、何もしなければ精神的ストレスが募る。適度にイマジナリーと会いつつ、避けるところは避ける。今年の夏も骨が折れる日々を過ごしそうだ。


 処方箋を受け取り、駅の方へと歩いていく。

 お昼の日差しは肌を強く刺激する。長時間歩くとヒリヒリとした痛みに襲われるためできる限り日陰を歩いた。


「ん?」


 駅に辿り着くと、柱に設置された液晶パネルに『花火大会開催』の広告が映し出されていた。〇〇花火大会が三年ぶりに開催されるらしい。


「今週の休日、花火大会が開催されるんだ。ねえ、行ってみたい!」


 すると隣にいたカノジョがそう言って、俺に微笑みかけた。

 長い黒髪を垂らし、まん丸な紺碧の瞳を閉じて、にっこりと笑う。まだ幼い彼女はセーラー服を身に付けていた。


「うん、行こうか」


 再びイマジナリーに唆され、今週末に開催される花火大会に行くこととなった。


 ****


「最悪……」


 花火大会当日。私が着いた頃には、会場は多くの人で溢れかえっていた。道路は観覧者のために一定区間通行止めになっていた。

 目の前に広がる人の列。入ったら最後、もう戻っては来られないほど人が右から左へと流れていく。まるで濁流のようだ。


 ここからバイトの先輩二人を探さなければいけないとなると骨が折れる。

 スマホで時間を見ると午後六時半を回っていた。開催は午後七時なのでタイムリミットはわずか三十分。ひとまず、スマホからチャットを開いて先輩に通話する。

 

「もしもし」

「もしもし、千影です。今〇〇駅につきました。どこにいます?」

「近くの噴水にいるよ。ここ意外と綺麗に見えるらしいってさっき教えてもらったんだ」


 会話をスピーカーモードにして、スマホの地図アプリで現在位置と噴水の距離を測る。ここから歩いて十分くらいで着けるようだ。

 ただ、不幸にも濁流に反して動かなければいけないので、時間は大いにかかるだろう。


「わかりました。今からそちらに向かいますね」

「了解。人が多いから、気をつけてね」

「ありがとうございます」


 通話を切り、ポケットにしまうと私は意を決して濁流へと入っていった。

 人混みは流れる人と止まっている人がいる。それをうまくかわして歩いていった。時間はたっぷりある。ゆっくりと着実に歩いていく。


 すると止まった人たちの間から大勢の人たちが流れてきた。私は思わず立ち止まり、彼らの流れを待つ。彼らは止まることなく、ゆっくりと流れるため空くまでに時間がかかった。

 流れが消え、ようやく空くと私は少し急いで歩を進める。


 刹那、不意に足が強く引っ張られると何かが抜けたような感覚を抱く。

 勢いにのって私は前のめりになり、こけそうになる。


「大丈夫?」


 それを前にいたお兄さんがうまく受け止めてくれた。「すみません」と言って、彼から離れる。反射的な行動で相手に不快を抱かせてしまったと思い、頭を下げた。その際に自分の履いていたサンダルが一足ないことに気づく。代わりに道路の熱を感じて思わず足をあげた。

 

 素足をもう一方の足に重ねつつ、あたりを見回す。人が多すぎて自分のサンダルがどこにあるのかわからなかった。路上が熱を持った中、素足で歩くのは困難を要する。私は思わず、ため息をついてしまった。


 こんなことになるなら来なければよかった。せっかくの花火大会なのに、何故こんな思いをしなければならないのだろうか。周りにいる人たちに対して、思わずイライラしてしまう。そう思ってしまう自分が嫌で落ち込む負のスパイラルに陥っていった。


『ドカーン』


 それを吹き飛ばすように大きな音が鼓膜を伝う。波の振動に鼓動が共鳴し、強く疼く。

 最初の大きな音を合図に『ヒュー』と打ちあがる音が幾多にも重なる。夜空を見上げると色とりどりの花火が一斉に花開いた。


「綺麗……」


 落ち込んでいたからだろうか。久々に生で見たからだろうか。夜空に咲き誇る花火に心を打たれ、一人でに感嘆を漏らしてしまった。


 3


「綺麗……」


 隣から聞こえた声に魅了され、俺は顔を向けた。

 紺色を基調とした白い花柄の浴衣を着た彼女は、紺碧の瞳を灯して夜空に浮かぶ花火を必死に眺めていた。短く揃えられた茶髪に赤色の造花が添えられている。


 俺の中にいるカノジョのイマジナリーだろうか。それにしては駅で見た時とは印象が少し違う。あの時は長い黒髪をしていた。それに背も高くなっている。子供じみた顔は少しながらも大人の雰囲気を醸し出している。


 手を伸ばし、そっとカノジョの肩に添えようとした。いつもなら、実体のないカノジョに触れようとすると空を切るようにすり抜けていく。だが、今回はカノジョの体を感じ取ることができた。暖かい体温が俺の手から脳に伝わってきた。


「えっと……あの……」


 隣にいたカノジョは困ったような表情で俺を見た。

 そこでハッと我に帰る。全然知らない女性の肩を何気なく触ってしまったのだ。下手をすればセクハラと感じられても仕方のない行為だ。


「あっと、すみません。ちょっとバランスを崩しそうになってしまって……」


 どう弁解しようか考えた末、嘘をついてしまった。


「ああ、そうだったんですね」

 

 彼女は愛想笑いを浮かべると再び花火へと目を凝らした。

 やり過ごせたことに安堵しながらも俺も花火を見る。夜空に打ちあがる花火はとても綺麗だった。これなら必死に目を向けてしまうのも無理はない。


 赤、青、緑、黄色。大きく花開くものもあれば、小さな花がいくつか開くものもある。

 奏でられる花火の大きな音。遠くから聞こえる「たまやー」や「かぎやー」という叫び声。普段なら鬱陶しく感じるだろうが、今このタイミングだけはとても心地がいい。


 花火を見ていると時間が過ぎるのはあっという間で、気づけば最後の連発になっていた。夜空を一瞬彩る花火。それらが連なることによって、まるでアニメーションのように時間的な動きをもたらしてくれる。


 最後に打ち上げられた幾多の花火は視界全体を覆い尽くし、都内全体に音を轟かせていった。全ての玉が打ち上げられ、会場から拍手が流れる。数万人の人々が奏でる拍手の音も花火に劣ることなく大きかった。


 花火が終了し、皆が動き始める。

 俺は隣にいた浴衣姿の彼女に目をやった。彼女はスマホで誰かと通話しているようだ。足元を見ると片方は素足の状態で、それをもう片方の足の上に乗せていた。


 通話を終えると一人でため息をつく。

 素足を地面にゆっくりと下ろすが、再び片方の足の上に乗せた。きっと路上の熱に触れてみたものの、熱さのあまり引っ込めたのだろう。どうしたものかと困った様子を見せる。


「あの……よければ駅まで手をお貸ししましょうか?」


 いてもたってもいられず彼女へと声をかける。

 彼女は俺の方へと顔を向けると露骨に嫌な顔をした。さっきことがあった手前、邪な考えで声をかけられたと思ったのだろう。


「えっと……靴が片方なくて困っているようだったので、お手伝いできないかなと思いまして……」


 手を後頭部に置きながら照れ臭く理由を話す。彼女の表情は一層険しくなる。理由を話して説得力を持たせようとしたが、逆効果だったみたいだ。

 彼女は一度後ろから流れてくる人の群れに視線を注ぐ。それから先ほどの表情とは打って変わって懇願するような表情を浮かべた。


「すみません、お願いしてもいいですか?」


 俺は彼女の返答に呆気にとられる。まさか了承してもらえるとは思わなかった。

「わかりました」と言って体を後ろに向ける。だが、彼女はしばらくしても乗ってこなかった。まだ疑われているのだろうか。


 後ろに顔を向けようとすると背中に圧がかかる。思わずバランスを崩しそうになったが、何とか堪えた。そのまま体を起こし、彼女をおんぶする。浴衣のため足を持つ位置が低く、重く感じる。ただ、本人の体重が軽いからかあまり苦にはならなかった。


「靴、探しますか?」

「いえ、そのまま駅の方に行ってください」

「了解です」


 彼女の指示に従い、流れる人混みに合わさるようにゆっくりと歩いていった。


 ****


 落ちないようにと、彼の身体にしっかり捕まりながら私たちは駅の方へと進んでいく。

 彼からの提案を承諾してから私の心は終始穏やかではなかった。見ず知らずの男性におんぶしてもらうことに羞恥心を感じてしまっていた。下心とか抱かれていないかなとか、重いと思われていないかなとか、不安が頭を駆け回る。


 仕方がないじゃないか。できれば断りたかった。でも、自分の力では駅に向かうことはできないし、道路の熱が覚めるのを待っていたらいつ帰れるか分からない。だから目の前にいる彼に頼るしかなかった。


 浴衣で来なければ良かったなんて一ミリたりとも思わないけど、せめてサンダルはもう少し頑丈なものを買っておいた方が良かったと後悔した。

 

 時間の流れは全てを解決する。しばらく彼の背中で休んでいると心が落ち着いてきた。

 そういえば、この光景には何だか既視感があった。前にもこんなことがあったっけ。いつだったろう。夏の思い出だからきっと思い出せない。


 でも、何だか彼の背中にくっついていると心が暖かくなった。

 無意識のうちに顔を彼の肩に乗っけてしまっていた。私の肩に勝手に手を乗せたのだからこれでおあいこだ。

 彼の汗の匂いは悪い匂いではなかった。きっと良い柔軟剤を使っているからだろう。


 そういえば、なぜ彼は私の肩に手を乗せたのだろう。あの時の彼の表情は何か言いたげだった。最終的に言った言葉はバレバレの嘘。バランスを崩したために乗っけたにしては優し過ぎる。だからこそ、なんて言いたかったのかすごく気になった。


 彼の足取りはゆっくりとしていて乗り心地が良かった。

 男性特有の筋肉質で硬い背中。心に浸透するほどの暖かい体温。私に手を添えた時の表情。それらの点が結びつけられ、徐々に線になっていった。


 記憶が疼く。

 思い出した。初めて浴衣を着た時、確か小学五年生だったか。その時も同じように誰かにおんぶしてもらったんだ。履き慣れない下駄を履いて足を痛めたんだっけ。


「アキくん?」


 気づけば私は彼の耳元でそう囁いていた。

 彼は私の言葉で不意に立ち止まる。彼の身体から伝わる心臓の音は早くなっていた。そこから彼が動揺しているのがわかる。


 そして、それは私も同じ。彼の名前を読んだ瞬間にカチッと音を立てて、保管庫の鍵が解錠されたのだ。


「何で俺の名前を知ってるの?」


 彼は緊張したように震えた声で私に問いかける。

 私は彼の心臓音に耳を傾けながら、ゆっくりと保管庫の扉を開けた。


「ずっと探してた」


 頬を伝う雫が汗なのか、涙なのか私には分からなかった。


 4


 バスの小刻みな揺れに身を任せながら、見たことない街の景色を堪能していた。

 自宅から約三時間。目的地まではもうすぐだ。


 花火大会で久々に再会を果たした千影は小さい頃の面影を全く感じさせなかった。

 長かった髪は短く切られ、陽気な表情は不貞腐れた表情に変わっていた。小さい頃は全くしていなかった化粧もするようになっていたのも大きかっただろう。


 でも、花火を見ていた彼女の姿に面影を感じられたということは、心の深い部分は変わっていないという証拠だろう。


 彼女がなぜ俺に気が付かなかったのか、それは川で溺れた時に記憶障害を引き起こし、エピソード記憶を失くしたからだったようだ。普通だったら、寂しい気持ちを抱いただろうが、俺としては喜びの方が大きかった。だって、あの時は意識不明で最悪の場合、死んでいたかもしれなかったのだ。


 俺のことを忘れていたとしても、命があっただけで十分だった。


 バスは目的地に到着し、支払いを終えると外へ出た。市営ではないこのバスは距離別に料金を支払わなければいけないようだ。

 外へ出ると大きなビルが目の前に佇んでいた。一番上には十字のマークがつけられており、それが目的地に着いたことを証明していた。


「アキくん!」


 建物を見つめていると不意に横から声が聞こえてきた。

 その声に俺は思わず、目を見開いた。今まで夏に散々聞き続けた声。千影のことは分からなかったが、彼女のことだけは声を聞いただけですぐに分かった。


「千聖!」


 横に顔を向けると車椅子に乗った女性の姿が見える。彼女は俺を見つめながら涙を流していた。黒の長い髪を垂らし、紺碧の瞳が太陽に照らされて反射する。涙ながらにして微笑むカノジョの笑顔は数年前とちっとも変わっていない。


 千聖の後ろには昨日見たばかりの千影の姿があった。どうやら、彼女がここまで連れてきてくれたみたいだ。


 川で溺れたのは千影だけではない。千影を助けようとして一緒に流された千聖もまた記憶障害を患い、手続き記憶を失って生活に支障をきたしてしまった。それ故に、病院から一歩も出ることができなかったらしい。


 俺の記憶を失くしたものの自由に動くことができる千影。俺の記憶を失くしていないものの自由を失ってしまった千聖。互いにすれ違う事が多々あったらしい。


 千聖はずっと俺のことを呼び続けていた。でも、千影はそれを理解できなかった。彼女たちの両親は俺がトリガルーティン症候群にかかっていることを聞かされていたらしく、これ以上の心配はかけさせられないと連絡をしなかったらしい。


 仕方がない。きっとすぐに聞かせられていたら、耐えられなかっただろう。数年間ゆっくりと傷が癒えたからこそ受け入れられたのだ。

 ただ、俺がもう少し強ければ、状況は変わっていたのかもしれないと反省した。これからはもっと強くなろうと心に誓った。


 俺は走って千聖の姿を見ると、ダッシュで彼女のところへと駆けていった。

 

「久しぶり」


 偽物ではなく、本物の千聖が目の前にいる。俺は中腰になり、彼女の存在を確かめるように手をギュッと握りしめた。空を切ることはなく、手はちゃんと握りしめられる。それどころか向こうからも手をギュッとしてくれた。


「うん、久しぶり。アキくん」


 この日、三人の失ってしまった大切な夏の思い出を取り戻すことができた。

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