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残告

 Aという少年が自殺をした。

 原因は、いじめである。

 私はフリーの三流ルポライターで、ある偶然の切っ掛けで、この事件の取材を行う事となった。関係者の名前を伏せるという条件でのインタビューを、この“A”という少年をいじめていたグループ『X・Y・Z』という三人の少年に対して行う事になったのだ。

 三人は自宅謹慎の最中であった。だから、私は三人それぞれの自宅を訪問しなくてはならず、結果的にインタビューは個人面談という形を取る事になった。

 この三人のうち、Zという少年がどうやら少年達のリーダー格であったらしい。だが、その彼は中々取材には応じてくれず、しばらくの間、面談を行う事ができなかった。

 その為、彼との面談は、他の二人との面談よりも時間的に離れている。更に、私の中で取材を通してある程度の熟考の期間が置けた事もあり、他の二人とは少々違った対応をする事になってしまった。よって、Zとの面談の記述は最後に回す事にし、まず他の二人との面談の内容から書く事にしてみたいと思う。

 また、他の二人の面談に関しては、時系列順には記述していない。私の見解を述べるのに都合の良い順序で、記述してあるので了解して欲しい。

 さて、私がまず最初に面談を行った相手は、三人の中では一番階級が低いという、Xという少年だった。

 彼は面談の始めから泣きそうな表情で、自分が昔はいじめられていた事を私にしきりに訴えてきた。


 X 『怖かったんです、Zのヤツが。昔は僕も、あいつにいじめられていて・・。逆らえば、またいじめられるかもしれない。だから、Aをいじめる事に反対できなかった。まさか、自殺するなんて・・』


 彼は悲痛な声を上げていた。


 X 『Zのヤツはおかしいよ。僕達は、本気でAの事を殴ったりなんかしていなかった。でも、あいつは思いっきり、下手したら死んでしまうんじゃないかってくらいの勢いでAの事を殴りつけていた・・』


 Xは完全にZを非難しているようだった。Zという少年が、唯一の加害者である。と、言っているようにも聞こえる。どうやら、彼自身も幾らかの恨みを、Zに対して持っているようだった。

 ………

 私はXの語る内容から、Zという少年が、残酷で、血も涙もない人間であるかのような印象を受けた。しかし、同じZの事を語る内容でも、もう一人のYという少年の語ったZについての内容は、明らかにXのモノとは違っていた。

 Yという少年は、XよりもZと近しい関係であるらしく、三人の内では、二番手という事になるであろうか。Zがあまりに加虐的になり過ぎるのを、抑える役割を担っていたようだ。


 Y 『Z? 良いヤツだよ。不器用だけどな』


 彼は気さくにそう語った。呆気らかんとしている。私に対しても、全く気後れしていないようだ。


 『でも、A君の事を一番いじめていたのは、彼なんだろう? 肉体的な暴力を振るっていたというじゃないか・・』


 私がそう質問をすると、Yは馬鹿にした表情を浮かべ、


 Y 『それ、Xから聞いたんだろう? あいつが言いそうな事だよ…』


 と厭きれた声で言い、


 Y 『確かにそうだよ。あいつが一番暴力を振るっていた。事実さ。でもね、記者さん。俺は、Aのヤツは、そんな事で自殺したんじゃないと思うけどなあ』


 と、語った。私はそれを聞いて、更に質問をした。


 『なら、君はどうしてA君が自殺したんだと思っているんだい?』


 Y 『さあ? 上手く言えないけど、精神的な事じゃないのかな? プライドとか、ズタズタだろうから… 孤独だったろうし』


 『それに、金も巻き上げられていた し かな?』


 私はYに向け、少々の皮肉を言った。するとYは、


 『それもあるね』


 と、言いづらそうにして、そう応えた。


 確かにそうなのだろう。私は、Yの言う事はもっともだと思った。暴力が自殺の直接の原因であったとはとても思えない。

 暴力から逃れる為なら、自殺でなくても他に幾らでも手段はあったはずだ。

 ………否、

 それも違うかもしれない。Aにとって、X・Y・Zの暴力は、逃れられないモノであったのかもしれない。暴力がもたらす人間関係。あまりにインパクトの強い恐怖は、人から正常な思考、判断能力を奪う。恐れは、神経症的な思い込みを生じさせ、閉塞感と絶望感を与える。特に、彼には頼れる友人もいなかった。孤独感も付き纏う。

 その他に幾らでも、暴力が原因となってのAの自殺は想定できるだろう。しかし、ここでは敢えてこれ以上、Aの自殺についての心理の言及は避けようと思う。

 ここで重要なのは、むしろAではなく、彼らの心理なのだ。私は、その為の取材を行っている。

 そう、彼ら。

 いじめを行ってしまう人間達の心理。

 さて、話題が少しずれてしまったが、Zが必ずしも残虐非道な人間でなかった事は分かってもらえたと思う。少なくとも、Yの目にはそうは写っていなかったのだ。

 自殺の原因についても、彼一人の所為ではない。というような意味合いの事を、Yは語っていた。

 ここでまた、Xとの面談に話を戻そう。


 私はXの話を聞きながら、こんな事を考えていた。

 自分がいじめられるのが怖くて、誰かをいじめるという行為を止められない。或いは、止めさせる事ができない。こういった心理は一般的に認められる事で、さして珍しい事ではない。

 しかし、Xがいじめを止められなかった理由は、本当にそれだけなのだろうか?

 私はXに対し、こう質問した。


 『確かに君はA君の事をそれほど酷く殴ったりしなかったかもしれない。だが、君だって、金を奪ったり、悪口を言ったり、酷いイタズラを散々やったりしたんだろう? 何にも責任がない訳じゃないと思うけどな』


 すると、Xは明らかに動揺して、


 『それは、分かってます。でも、僕は、仕方なくやったんだ。決して自分から望んでいた訳じゃ……』


 そう、応えた。

 目が泳いでいる。

 ………。

 望んでいたのだろうな。

 その態度からは、容易にそれが察せられた。Xは、Aをいじめる事に快感を感じていたのだろう。だから、こんなに焦っているのだ。根が正直なのか、嘘がつけないようだ。

 優越感。

 恐らくは、それを感じていたのだろう。少なくとも快感の要因の一つであった事は確かだ。

 いじめられっ子。これは、言われなき劣者である。どこに基準がある訳でもない。落ち度が、もちろんある場合もあるのだろうが、なくても単にいじめられっ子という事だけで、何故か社会の中で、劣者の立場となる。

 それは驚くべき事に、学校という小社会を離れた場合でも、つまり一般社会でも、大して変わらないのだ。

 だからだろう。誰しも、いじめられている人間に対しては、知らず知らずの内に優越感が働く。

 気持ちが良いのだ。

 私はそれ以上Xを責める事をせず、次にこんな質問をした。


 『どうして、A君はいじめられていたのだと思う? 君達の仲間にだって、他にも喧嘩の弱い子もいただろうし、大人しい子だっていたはずだ。君達がいじめるのに都合が良かったのは何もA君でなくても良かったはずだろう?』


 するとXは、俯きながら消え入りそうな声でこう言った。


 『Aは、変なヤツだったから…』


 Aは、確かに少々変わった所のある少年であったらしい。そして、気が弱く大人しい少年でもあった。

 いじめられ易いタイプの人間としては、典型的な例ではないだろうか?

 気が弱ければ、反撃や抵抗をしてくる危険性が低く、脅せば何でも言う事を聞きそうだから、いじめる側の人間にとってみれば面白く、いじめられ易いというのは分かる。また、人には、自分とは違う存在を恐れ、排除しようとする性質がある事も、差別問題などを掘り下げるまでもなく、今更、分かりきった事であろうから、虐待の対象になり易いという事も分かる。

 と、いう事は、変人で気が弱ければ、それだけでいじめの原因になってしまうというのは当たり前の事なのだ。

 だがしかし、それでは、変人で気が弱ければ、必ずいじめられるのかといえば、それも違うだろう。それも確かだ。

 これはつまり、同じタイプの人間がいても、いじめが発生する集団と、発生しない集団がある事を意味している。

 この差は一体、何処から生じるのだろうか? いじめを行ってしまう人間の事について追求するには、まずこれを考えなくてはいけないだろう。

 ………。

 Xと同じ質問をYにした時、Yは気になる発言をした。


 Y 『いじめられてた原因? う〜ん 運が悪かったのかな?』


 『運が悪かった?』


 Y 『そうさ、それが一番の原因だな。多分』


 『………、どういう事かな?』


 Yは少しの間考えると、語り始めた。


 Y 『まあさ、俺達にとってみればスポーツみたいなモンだったんだよ。“いじめ”は、さ。 別にAの事を嫌いだったとか、そういうんじゃなかったんだよ。楽しむ為に、利用してただけだな』


 それは、原因にも何にもならない。原因はAではない。つまり、Aがいじめられていた原因は、彼にあるのではなく、いじめていた側にあるのではないか。

 私はそう思ったが、そうは言わずに、Yに向けてこう言った。


 『つまり、A君は、君達がいじめを楽しむ為の犠牲者だった、て事を言ってるのかな?偶々、運悪く、A君はその対象に選ばれてしまったと………』


 Y 『まあ、そうかな?』


 Yは、相変わらず呆気らかんとしてそう答えた。まるで、当たり前の事の様に。

 このYの語った内容は、いじめを考える上で、一つのキーワードがある事を示している。それは、前にも書いたが“快感”で、ある。楽しいから、自分達はいじめを続けていた。と、Yは述べているのだ。

 これは、個人をも含めた集団が、いじめを楽しい事だ。と学習してしまっている事を、意味している。

 ただ、単純にその快感の正体が優越感だ、としてしまう訳にはいかないだろう。そして、どうして集団が、いじめを楽しい事だと学習してしまっているのか。これも考えなければいけない重要な事柄だ。

 ここで、Xとの面談にまた戻る事にする。


 何度かの受け答えの後、Xはこんな事を言った


 X 『ルールができるんだ…』


 『ルール?』


 X 『仲間内だけのルールだよ』


 『それを破ると、どうなるんだい?』


 X 『いじめられるか、無視されるね。もう、皆の一員には加えてもらえなくなる』


 『……………、』


 私は、それを聞いて沈黙した。

 ここで、また、もう一ついじめを考える上でのキーワードがある事が分かると思う。つまり、Xが語った事、そのまま。

 ルール、である。

 類は友を呼ぶ。同じ様な人間達で群れる。これは、一般に認められる現象であると思う。しかし、これは逆を言えば、同じ様な人間でなければ、友になれない。集団に加えてもらえない。といった現実を指し示す事でもある。

 そして、もちろん、いじめを含めた、仲間内のルールを守る。という行為は、その人間達が同じになるという事を意味している。だから、ルールを破れば、排除されるのだ。

 異分子。

 これが、いじめが発生する一番始めの切っ掛けではないだろうか?

 そして、人間が群れる事を欲する動物である事も事実だ。

 寂しさ、孤独感。耐えられない。だから、ルールは破れなくなる。そしてだから、その反対に、同じ行動を執る、同じ姿になる、同じルールを守る事は、安心に繋がり、快感に繋がる。


 Yの発言 『スポーツみたいなモンだったんだよ』


 スポーツは、特に集団で行うスポーツは、この心理効果とよく似ている。同じユニフォーム。同じ行動。

 Yが、いじめをスポーツに例えたのもこれが原因かもしれない。

 また、体育系などの部活動で、いじめがよく発生しているという事も、はっきりと統計を取った訳ではないので確かな事は何も言えないが、よく耳にする事であるような気がする。

 そして、こう考えれば、いじめに関する二つのキーワード。“快感”と“ルール”を結びつけて考える事ができる。

 異分子を排除するという集団の心理作用によって、まずルールが作られる。ある特定の人物を、無視する。攻撃する。そして、これからが大きな問題なのだが、この行為は楽しいのだ。つまり、これが快感に結びつく。

 もちろん、この快感は、集団行動の快感だけではない。他にも、嗜虐の快感だとかいったモノなどにも結びついているのだろう。

 そして、自分達の間で生成されるルールは、得てして、自分達に都合が良いモノである場合がほとんどである。

 ちくる などと言って、教師や上の立場の人間に、自分達が行った悪事をばらす事を禁じているのは、その典型ではないだろうか。

 そして、だから“いじめ”は、自分達の間では、正しい事だ、として認識されている場合が多い。

 肯定された優越感。

 集団行動の快感。

 禁止されない虐待行為。

 さらに、

 集団に洗脳されている事に気づけず、自分達の行動を客観視する事を忘れる。いや、元々、客観視する能力がないのか。どちらでも良いが、それらは違った存在を受け入れる事ができないという性質を、助長させる。

 本来、人は、成長過程において、変化の受け入れ方を学習していくモノである。

 だから、子供のウチは、違った存在を恐れるという傾向が多々みられる(食べ物の好き嫌いが多いのはこの典型)が、大人になるにしたがって、やがて変化の受け入れ方を学習し、無闇に排除するという事はしなくなる。

 ところが、このルールに頼ってしまうと、その学習ができなくなる。変化を受け入れるのは、やらなければいけない事だが、本人達にとって辛い事でもある。だから、それを避けようとするのだが、それに都合の良い言い訳を“いじめ”という現象は与えてしまうのだ。

 まとめて考えてみると、こういう事になる。

 辛さから逃げる事ができ、また、自分達にとって楽しい事が、自分達によって作られたルールによって、肯定化されている。そして、それを破った者は制裁を受ける。

 これでは、

 いじめが中々解決できない問題である事は当たり前である。

 そして、辛い事があると、すぐ酒に逃げる人のように、この“いじめ”という現象を体験し、頼ってしまった集団。或いは、個人。は、すぐにいじめを行ってしまうのではないだろうか? つまり いじめ依存症 とでも呼ぶべき病に罹っているのだ。

 “いじめ”をやれば、楽しい。これを学習してしまっている。

 実際、Yは、こんな発言をしている。


 『君達は、以前にも“いじめ”をしていた事があるのかな?』


 Y 『ああ、あるよ。特に、Zとは昔からやってたな。まあ、相手に死なれたのは、これが初めてだけどね』


 Xに関しては、いじめっ子の経験は浅いらしいが、YとZは、どうやら小学校の頃からいじめを繰り返しているらしい。

 さて、

 いじめに関する、主だった心理の正体は、これで一応、すっきりとした形で説明できているような気がする。統計学的に観れば、たった一つの事件という、本当にわずかな標本調査を参考にしているだけなので、不安は残らないではないが、しかし、恐らくは、概略に関しては、ある程度の普遍性がある事と思う。

 だが、しかし、疑問が残らない訳でもない。

 本当に、彼らの心理には、それだけがあるのみなのだろうか?

 私には、少々の気になる点があった。

 私は、こんな質問を二人にしてみたのだ。


 『A君が死んだ時、どう思った?』


 X 『衝撃でしたよ。やっちゃったって、感じだった。そして、Zを憎みました。もちろん、僕も悪いんだけど』


 Xは、その時にはもう、面談を始めた当初よりも随分と落ち着いていて、しっかりとそう語る事ができていた。そして、彼に関しては、はっきりとこう明言した。


 『罪悪感は、感じていました』


 Aが死ぬ前から、という発言である。

 そして、これは、私の推論だが。Xは、そんな罪悪感から逃れる為に、無理矢理にZに罪を擦り付け様としているのではないだろうか。

 そして、Yだ。


 『正直、びっくりしたよ』


 一言、そう答えた。本当に、呆気らかんとしている、不自然な程に。

 そう、不自然な程に。

 まるで、その事を、現実の外に追いやっておきたがっているような印象を受けた。

 これは、もちろん印象であるから、しっかりとした判断基準にはならない。だが、もしかしたら、Yは罪悪感から逃れる為に、Aが自殺してしまったという事実を、何とか隔離しようとしているのかもしれない。

 いじめを行っている最中にだって、その自分達の行動を、客観視する事ができなくなっていたのだ。つまり、Aの事を、同じ人間だとして見れていなかった。自分自身の情動に当て嵌めて、Aのされている行為を認識する事ができないでいた。

 Aが自殺した今も、その続きのつもりでいるのかもしれない。

 その後、私はしつこくYを追求したのだが、Yは、終には怒り出してしまった。

 “怒り”とは、防衛本能である。

 明らかに、Yは自分の事を、防衛しようとしたのだ。罪悪感を感じる現実から、逃れようとして、防衛本能が働いたのかもしれない。

 そして、罪悪感の存在を語る重要要素しては、Zの存在も見捨てられない。

 これは、Yの、Zに関する発言の一つであるが、


 Y 『Zの奴は、そうだなあ。確かに、ちょっと危なかったかもしれない。Aの事を殴ってる最中はね。なんか、怒りながら殴ってたよ。俺もだから、やばいと思って何度かは止めたんだ。すこし、病的だったかもしれないな。でも、普段は良い奴なんだぜ。Xの事を昔はいじめていたのに、今はもういじめていないのだって、あいつが言い始めたんだ。もう、Xをいじめるのは止めようってね』


 ……この発言で、何か気にかかる事はないだろうか?

 いじめには、快感の心理作用が含まれるはずである。だが、Zは怒っているのだ。これはおかしい。そして、Yの発言からは、Zの優しい部分も垣間見る事ができる。

 優しさ…。

 Zは、優しかったのかもしれない。

 その根拠は、今はまだ語らない。だが、私は、これだけの情報を持って、最後のZとの面談に臨んだ。



 Zは静かだったが、暗い顔をしていた。

 私の事を、警戒しているようにも見える。

 私が、椅子に座ると、いきなり彼は、こんな事を言ってきた。


 Z 『俺の事を、悪く言う為に、来たんだろう?』


 私が、表情を崩さずに、


 『いいや。単に調査する為だよ』


 と、言うとZは、


 Z 『同じ事だよ』


 そう応えて、私を睨みつけてきた。


 『そうかな? どうして、そう思うんだい? 僕は、本名はもちろん明かさないし、君達が誰であるかも分からないようにするって条件で、この取材をしに来てるんだよ。悪く書いたところで、どうにもならないじゃないか』


 Z 『………』


 私の問いかけに対し、Zは押し黙って何も言ってこなかった。

 私は、取り敢えず、質問を開始した。


 『A君の事をいじめていたのは、どうしてなんだい? 気にくわなかったから? 嫌いだったのかな?』


 すると、Zはこう答えてきた。


 『もし、部屋にゴキブリがいたら、あんただって退治するだろう? それと同じだよ』


 『………』


 今度は、私が黙って彼の事を見つめた。そして、


 『それだけ?』


 そう尋ねてみた。

 Zは、少し慌てたような表情を見せ、


 『俺が悪いんじゃないよ。あいつが悪いんだ。いじめられる方が悪いんだ。気持ちが悪いのがいたら、誰だってそんな行動に出るだろう!』


 と、少しばかり必死になって、弁解をするようにそう言ってきた。

 明らかに、Yの見解とは違う。

 そして、これは、集団での“いじめ”の肯定化、それにZが依存してしまっている事を物語っている。また、変化を恐れる心理に抵抗せず、野放しにしてしまっているだろう事も、この発言から察せられた。


 『でも、A君の事を、別に気持ち悪く感じていなかった人だっていたみたいだよ。気持ち悪いってのは主観的な判断だろう。そんな判断で、A君をいじめる事が正当化される訳はないよ。もし、君の意見が正しいのなら、犬嫌いの人は、自分の所に入ってきた犬なら、いくらでも殺して良い事になる。しかも、学校は公共の場だよ。君の場所じゃない』


 私は、彼らに欠けている客観的な観点から、彼の主張に反論した。

 元々、自分達の正当化の為の、こじ付けの理屈である。論破するのは、容易い。Zは何も言えなくなった。それから、今度は別の事を言い始めた。逃げたのだ。

 私はそれを放っておいた。

 何故なら。

 極めて主観的な判断の、極めて主観的な理論展開。それは、自分の心理を他人に曝す行為でもあるからだ。

 “彼”が、分かる。


 『抵抗をしなかったのが、悪いんだよ。もっと、ガンッと殴りかかってくれば、俺達だって、こいつはこういう奴なんだって、認めてやる事ができたんだ。いじめだって、止める。ただ、ちぢこまって耐えてるだけだから、イライラしてくるんだ!この弱虫野郎って!』


 確かに、そういった情動も人にはある。極端に臆病な存在に対しストレスを感じる。どういった原因で、そういった情動が働くのかは分からないが、ある事は事実だろう。

 だが、

 Zの心理にあるのは、果たしてそれだけだろうか?

 私は、こんな質問をしてみた。


 『もし、仮に、だよ。もし仮に、君が誰かを殴ったとしよう。そして、その相手が苦しそうな表情をしたとしよう。それで、それが単に演技なだけだったら、君はその相手に対してどんな感情を覚えると思う?』


 すると、


 Z 『怒るよ、絶対に! そういう卑怯な奴、むかつくんだよ』


 Zはそう即答した。

 そして、そう言いながら怒っている。

 私は、それを聞くと、今度はこう問いかけた。


 『君は、A君に対して、罪悪感を感じているかい?』


 すると、Zは、少し顔をしかめつつ、


 Z 『感じてない』


 と答え、そして、


 Z 『あいつが、何にも抵抗しないのが悪いんだ。自殺するくらいなら、殴りかかって来いよ! 自殺する奴は、頭がおかしいんだ!その前に何かすれば良いだけの事だろう!』


 しつこく、激しく、そう言ってきた。

 ………どうやら、これで、彼の心理の一つは明らかになったようだ。

 私はそれを聞くと、淡とこう言い放った。


 『それは、おかしくないか?』


 その、私の発言を聞くと、Zは少し驚いた顔をした。私は続けて、


 『君は、A君の事を、ゴキブリと同じだって言ったね?』


 と、問いかけた。


 Z 『それは、例え話さ』


 Zは、戸惑うようにそう言い訳したが、私は更に追求した。


 『例え話でも関係ないよ。君は、ゴキブリが部屋に出て、退治しようとして、抵抗してきたら、それを止めるのかい? もう、退治しようとは思わなくなるのかい? 自殺してしまったなら、殴りかかって来いよ! って思うのかい?』


 Zは、怪訝そうな表情で、私を見つめて来た。

 まだ、自分の心理には、気付けていないようだ。

 私は、その怪訝そうな顔に向かって、こう問いかけた。


 『君は、A君に対して、本当に罪悪感を感じてはいなかったのか?』


 Z 『ない』


 『なら、どうして、そんなにも、君は、A君が抵抗してくる事を望んでいるんだい?』


 どういう事なのか、Zには分からないようだった。私は、溜め息をつくと、説明を始めた。


 『いいかい? 君はA君の事をいじめていた。これは認めるだろう? つまり、A君に危害を加えていた。君は加害者だ。加害者というのは負い目のある立場なんだ。つまり、劣者だ』


 Zの表情が変わった。


 『これを解消する為には、どうすれば良いと思う?』


 Zの顔は、明らかに強張っている。


 『相手が、抵抗をしてくる事は、一つの解消方法だ。相手が抵抗してくれば、それはお互い様、という事になる。少なくとも、君は、一方的な加害者ではなくなる訳だ』


 『もう一度、訊く』


 Zは俯いてしまった。

 私には、彼を責める気持ちは、それほどにはない。しかし、それでも、私はここでこの問いかけを、止める訳にはいかなかった。


 『君は、本当に、罪悪感を感じていなかったのか?』


 Zは黙っている。俯いたままなので、その表情も読み取れない。


 『君は、相手を殴って、相手が苦しそうな表情を見せたとして、それが演技だとしたら、怒ると言っていたね? それは何故だい? 自分が責められているような気持ちになるからじゃないのか? 相手が傷つく事によって、自分が罪悪感を感じるからだ。君は、この例え話を、A君と重ねていたのではないか?』


 Zは、くぐもった声を上げ始めた。


 Z 『う……、う…』


 声を殺して、泣いているのかもしれない。


 『君は、或いは、A君が演技でわざと苦しがっているように見せている。と、思った事があるかもしれない。でも、きっとそれは君の勘違いだね。人は、自分の信じたがる事柄を信じるモノだから。それが、演技だったら、君は少しは楽になれるんだ。君の願望が、そう見せていただけだよ』


 Zは、相変わらず、くぐもった声を上げている。


 『君は、A君を殴る度に、そして、A君が傷ついていく度に、罪悪感に苛まれていた。しかし、君の意識は、それに気付いていない。認めたくない事だろうから、無意識に抑え込もうとしていたのかもしれないね。そして、気付いていないというのが問題だ。怒りというのは、ストレスを与えてくる対象に対して、対抗する為の感情だ。君が罪悪感を感じていて、それがストレスになればなるほど、怒りは大きくなって、A君を殴るという行動になって現われる。そして、また、A君を殴れば、その事で罪悪感を感じ、殴る。悪循環さ』


 間を空けて、


 『君が、優しい人間であればあるほど、この悪循環は酷くなる……』


 私はしばし、Zをじっと見つめた。


 『無理矢理に抑え込んで、まだこれからもいじめを続けてしまったなら、君は狂ってしまうかもしれないよ』


 そして最後は、優しくそう言ってみた。


 Zはもう、明らかに泣いていた。

 顔を下にむけたままで、

 そして、


 Z 『僕は…。どうすれば良いんですか?』


 そう、やっと聞き取り難い声を発した。

 今まで、自分とほとんど対峙する事がなかったであろう人間が、初めて自分自身と向き合った瞬間だ。


 『A君に……、謝れば良いんじゃないのかな?』


 私がそう言うと、Zは泣き声のまま、嗚咽のような声で、


 Z 『…ごめん、…ごめん、……ごめんなさい、』


 と、Aに対しての謝辞の言葉を発した。もう、死んでしまっているAに対して。


 『うん』


 私は、それでも、


 『後の事は、それからだ……』


 そう応えてやった……。

 Zは相変わらずに、泣き続けている。


 これで、彼らの残告は、終りである。


 ………。

 或いは、Zの心理を、理解しない人もいるかもしれない。苦しかったならば、さっさといじめなど、止めてしまえば良かったではないか、と、そう思う人もいるかもしれない。

 だが、違うのだ。それは違う。だからこそ、だからこそZは、いじめを止める事ができなかったのだ。

 何故なら、それをしてしまう事は“いじめ”が悪い事である事を、認めてしまう事でもあるからだ。

 罪悪感から逃げているのであれば、むしろいじめはし続けなければならない。

 何故なら、それは悪い行為ではなく、楽しい事で、止める原因などないからだ。止めてしまってはおかしい。

 不自然になってしまう。

 もちろん、ここに、前述した、ルールや快感の心理作用が混ざっていて、いじめを発生させ継続させる原因になってしまっているという事は想像に難しくない。

 そして思う。

 果たして、こういった心理はZ特有のモノであるのだろうか?

 この罪悪感の存在と、自分達自身に対する言い訳が、いじめ問題を更に解決困難なモノにしているという推論は成り立たないのだろうか?

 集団全体に、この心理作用が働いている場合だって想定できる。

 もしそうならば、私は、憤りを感じずにはいられない………。



 さて、

 もう最後になるので、今回の調査の結果だけからだが、いじめ問題の解決策として考えられるモノを記しておきたいと思う。


 一つめは、いじめは、集団心理現象であるのだから、初めから、密接な仲間グループを作らせないようにする。という方法。

 これは、個人主義の徹底した導入などで、可能であるかもしれない。だが、個人社会になってしまったならなったで、新たな問題が発生する可能性も大きいので、あまり得策とはいえないかもしれない。

 二つめは、集団のルールを、コントロールし“いじめ”をしてはいけないというルールを定着させるという方法。

 これは、有能な教師など、集団グループを統括できる存在がいれば可能で、デメリットも少ないかもしれない。だが、現状を考えてみると、この様な優秀な存在はあまり期待できない。だから、そもそも優秀な人間を育てる教育システムから作らねばならず、今すぐに、という事は無理であろう。

 三つめは、変化を恐れる。という性質を緩和させてやる、という方法。

 これは、知識としても教え、同時に、変化を受け入れる体験をさせる事で、実行が可能であると考えられる。

 具体的に体験とは、例えば、福祉関係の職場で、障害者達と触れ合う体験をさせたり、或いは、もっと簡単に、嫌いな食べ物を好きにさせる、という訓練を行うといった事でも良いかも知れない。この方法は、いじめ問題の解決策として、現時点では、もっとも現実性があるモノだろう。



 無意識の存在を明らかにし、意識というモノが人の人格の一部でしかなく、自分の行動を、自らの意識で完全にコントロールできている訳ではない事を証明したのは、フロイトである。

 しかし、それが証明されてから、もう何十年という歳月が過ぎているのにも拘らず、人々は未だに、その本当の意味を、正確には理解できていない。まだ、自分の中心には自分自身がいると思っている。

 人の行動の責任は、どこまで追及できるモノなのかは、本質的には分からないのだ。

 罪の存在の有無は、ここでは詳しく語らない事にしよう。

 だが、自分自身の心でさえ、自分自身の行動にとっての環境であり、それをコントロールする為には深い自省が必要である事は確かだ。

 そして、そういった能力をつけさせる為の教育システムを、人間社会は持っていない。


 心理を、情動を、重要視する社会。


 私は、それを渇望する。


 私は、まだ闘っていこうと思う。

 登場した理論は、心理学などの知識を参考にしてはいますが、基本的に僕の持論です。し、随分と昔に書いたものなので、知識が増えた事もあって、今なら別の内容になると思います。例えば、専制体制ではいじめが起きたが、民主体制では起きなかったという、集団心理の実験の話とか。

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