第一話
関東圏内のi県。県南に位置する、隣の県と川を境に存在する田舎町、その名も『古井戸河市』。
近隣の町と比べると唯一都内への交通手段として線路が走っており、利用客がそこそこ訪れる、駅前だけ少し大手チェーン飲食店が並んでいるような、際立って目立つものは無い町。
4月1日、この日も朝から学生やら社会人やらで駅前が賑わっている。普段と変わらない光景に思えるが、学生の中にはピシッと真新しい服に身を包んでいる者達もいた。緊張を感じさせる、どことなく強張った表情から察するに、恐らくこれから始まる新しい生活に胸を高鳴らせているであろう様子が伺える。見知った顔を見つけると、お互いに駆け寄り、嬉しそうに戯れている。それもそのはず。今日は、地域でも有数の進学校と名高い『県立 古井戸河高等学校』の入学式の日でもあった。
井森さんの家の四つ子も、皆揃って晴れてこの高校への入学を迎えた。
駅から高校まで続く通学路の途中。
「…置いて、いかれたッ!」
清潔感溢れる群衆の中で、一際目立つ金髪で発芽米の様な寝癖を立たせた、下ろしたての漆黒のブレザーのボタンを掛け違えている、見るからにだらしのない格好の青年が、荒い息も絶え絶えに天に向かって叫んだ。小刻みにわなわなと震え上がる右手には、携帯を握り締めている。時刻は8時45分を示していた。
「なんだ、アイツ」
周囲の人間が彼から距離を置く。妙な視線に晒された彼はハッと急に我に帰ると、ダクダクと汗を流し始めた。シャツの裾が出ているズボンのポケットに、慌てて携帯を押し込んだ。
「しっ、失礼しました!」
誰に向かってか、一言謝ると、恥ずかしさからその場に居られなくなり、咄嗟に脇道に身を投げ、群衆を抜け出した。
(時間が無いッ!)
脇道には閑静な住宅街が拡がっている。周囲を見渡すも先程の様な人混みは無い。視線の先で白猫が一匹塀の上を通り過ぎて行くのみ。
「……仕方ない。アレ、使うか」
ホッと安堵すると、スクールバッグの持ち手を両肩から通し、リュックサックを背負うように体勢を取り直す。空いた両手で道傍の塀に触れる。すると、両掌が塀に吸い込まれる様に貼り付き始めた。続いて、右足の裏、左足の裏と塀に貼り付く。なんと、四つん這いになり、塀の壁ひっ付いたのである。
(……我ながらいつも思うけど、滑稽な姿だな)
カーブミラーに映った自分の姿を見つめながら、しみじみと思う。目線を空に変え、左右の手足を交互に前に出す。すると、器用に塀を垂直に這い登る。そのまま壁、屋根……道とは到底言い難い『道』を駆け始めた。人間ではおおよそ考えつかない重力を無視したかのようなその動きは、まるで「ヤモリ」である。
(こっちの方がやっぱり快適だな)
颯爽と走り抜けていたところ、何かに右足を取られ、姿勢が少し右によろめく。
塀の下で鈍い音が響いた。
「おっと、っと……」
慌てて重心を立て直す。地面に視線を向けると、茶色の植木鉢が見事に真っ二つに割れていた。
「また、井森のところの倅か!!」
すぐ傍で盆栽の手入れをしていたお爺さんの檄が飛ぶ。みるみる顔を茹で蛸の様に真っ赤に染めて、彼に向かって怒鳴り散らし始めた。
(やばい!佐藤さんの家の雷親父!!)
背後から聞こえてきた怒号に思わず左足が滑り、体勢が再度崩れそうになる。
「……おはようございまーす」
振り向きもせず、軽く挨拶をすると、また体勢を取り直し、逃げる様に一直線に塀の上を走り始めた。
「今日こそ生捕にしてッ!標本にした後ッ!!ホルマリン漬けにしてやるッ!!!」
枝切り挟を片手に振り回しながら喚き散らしている。
(あの人じゃ本当に殺され兼ねない!)
背筋に身の毛がよだつ感覚を憶えながら、そそくさと足早に後にした。前方に現れた一枚のトタン壁。
(ここを降りれば……)
両手両足でトタン壁を突き離すと、身体を捻らせ宙を舞い、体操選手の様に両脇を広げ、華麗に直立で地面へ降り立った。
「…っと、到着ッ!」
両腕を戻す次いでに深呼吸をする。辺り一面満開の桜が出迎えた。高校まで一直線の並木道に出たのである。しかし、周囲には同じ学生服を着た人間の姿が見当たらない。
(まずいッ!)
慌てて並行感覚を取り戻そうと、右足と左足を交互にあげてその場でジャンプする。いざ、走り始めようとした次の瞬間。前方の黄色い帽子を被った4人の園児達が、とある桜の木の下で上に向かって何か叫んでいた。男の子2人と女の子2人。
(なんか、幼い頃の俺達思い出すなぁ……)
園児達を横目に通りかかろうとしたその時、遥か頭上から「ミ゛ャーミ゛ャー」と甲高い鳴き声が聞こえた。
「猫ちゃん、降りといでー!」
彼も同じ方向に視線を向けると、先程見かけた白猫が鳴いていた。
(いつの間に)
自分よりも足が速いことに関心する。
「……アイツ、降りられなくなったのか」
やれやれと首を振りながら、園児達に歩み寄る。
「お兄ちゃん、あの猫ちゃん助けてあげられないかな?」
彼に気付いた園児達が猫を指差し、目線を送ってくる。
(『お兄ちゃん』て頼られるの良いな……)
少し感慨にふけった後、彼は園児達の背丈まで腰を落とし、助けを求めてきた女の子の帽子の上にポンと優しく右手を乗せる。
「兄ちゃんに任せとけ!」
屈伸する様に膝を立ち上げ、再び白猫に目を向ける。
「大分高い位置にいるな」
まじまじと地面から白猫の位置を確認する。目測にして約8〜10mはある。
(……よしっ)
両手を太い幹に付け、安定感を確かめると、両足で地面を蹴り上げ、自分より一回り大きい桜の木に抱き着いた。そのまま、両足を交互に出しながら、慎重に白猫向かってよじ登っていく。
「お兄ちゃん、木登り上手だね」
下で園児達が感心しながら、彼の姿を見上げる。みるみるうちに白猫が木の枝で包まっている場所まで辿り着いた。舌を鳴らして、白猫の注意を引きつけつつ、右手を差し伸べる。手の動きに引きずり込まれるように白猫が警戒しながらも歩み寄る。
「はい、捕まえた」
掌に猫の顎が乗っかったところで、腕を伸ばして白猫のお腹に回し、胸へと恐る恐る抱き寄せた。その姿を見ていた園児達は胸を撫で下ろす。
「後で近道教えろよ」
その言葉に返事をするかのように、「ニャーン」と撫で声をあげた。白猫が彼の顔を下から覗く。
「ン〝ミァーー!」
それまで大人しかった筈の白猫が、聞いたことも無いような絶叫を上げ、尻尾を逆立てる。彼の右頬を引っ掻いた。
「痛い!どうした、どうした!!」
腕の中で急に暴れ始めた白猫を、取り敢えず赤子をあやす様に少し揺すってみせる。
「お兄ちゃん、大丈夫!?」
なかなか降りて来ない事を心配した園児達が、彼に向かって大声で問いかける。
「平気、平気!」
慌てて平静を取り繕いながら園児達に答える。しかし、こうも暴れられては、抑え付けるのに精一杯で今の体勢では降り辛い。
「頼むから、良い子にしてろよ……」
白猫に言い聞かせる様に呟くと、なんと左手も木から離してしまい、両手を使って猫を胸に抱え込む。そのまま、木に直立不動で両足だけで立ってみせた。
人間木の枝の完成である。
「キャーー!!」
男の子達は目を丸くさせ、女の子達は両手で目を覆い、大きい悲鳴をあげる。白猫も何が起こっているのか分からず、声も出せないまま、彼の腕に爪を立てて必死にしがみ付く。同時に、金属がアスファルトに打ち付けられた鈍い音も響いた。
(これ、血の気が引く思いするから嫌だったのに……)
「……はぁ」
溜息をつくと、特に園児達の反応を気にも留めず、そのままくるっと180度身体を回転させて、地面を見下げてスタスタと一直線に木の幹を歩いて行く。園児達が目を大きく開けて彼の歩行に釘付けになる。何事もなかったかの様に地面に着地すると、口をあんぐり広げている子供達に歩み寄った。
「お届け物です」
彼が白猫を園児達に差し出した瞬間、園児達の手に渡る前に、白猫は慌てて彼の腕の中を飛び出した。そのまま一目散に何処かへ逃げる様に走り去ってしまった。取り残された園児達と彼。
(さて、困った)
あんな常人離れした姿を見せてしまったものだから、何と説明しようものか冷や汗をかきながら、手を顎に乗せ悩む。
「あっ、あれはね」
「忍者だよッ!!」
彼が喋りかけようとしたところを男の子の1人が間髪入れずに叫んだ。
「昨日テレビで見た!屋根の上走ってた!」
「水の上とかも走ってたよね!」
『忍者』という一言に、勝手に盛り上がり出す園児達。
(それだッ!)
誤魔化せるなら何でも良いやと、慌てて両手で印を結ぶポーズを取って見せる。
「にっ、ニンニンッ」
もはや、取ってつけた様なやっつけ動作。
「すげー!どうやってやるの?」
予想もしていなかった質問に、慌てふためく。園児達の羨望の眼差しが彼に突き刺さる。目を覆いたくなるような、眩しさに思わず後退りしてしまう。
「きっ、企業秘密です!」
苦し紛れの言葉が漏れる。
「えー!ずるい!」
文句を言う園児達の中、1人の女の子が携帯を彼に差し出す。
「お兄ちゃん、コレ落ちて来たよ」
「ありがとう」
(そうか、さっき直立した時にポケットから落ちたのか)
興奮している園児達を制しながら、女の子から携帯を受け取る。蜘蛛の巣状に罅が入ったスクリーン。
「また、携帯をお釈迦にしてしまった」
項垂れ、溜息混じりに呟く。そんな彼を女の子はまじまじと見つめ続けていた。
「……俺、顔に何か付いてる?」
頬を人差し指で掻きながら、女の子から目を逸らす。
「お兄ちゃんの瞳、猫ちゃんみたいだね」
柿の種の様に、縦長に伸びている瞳孔を不思議そうに眺めている。
(少し、能力を使い過ぎたか)
女の子に指摘されて、慌てて目を擦る。
「こっ、これはね」
「"猫の目時計"って、言うんでしょ!?」
彼の言葉を遮って、先程とは別の男の子が聞いてくる。
(忍者って、案外使えるな……)
「そっ、そうだ……」
「違うよー!」
男の子の言葉を鵜呑みにして、彼が肯定しようとした瞬間、女の子がすかさず否定する。
「"猫の目時計"は、猫ちゃんの目を見て時間がわかる事だって、テレビで言ってたよ!」
(忍者って、案外使えないな!)
園児達が言い争いを始める。やれやれと思いながら、園児達の会話のおかげで今更大事な事を忘れていた事に気が付いた。
(時間……!)
「やばいッ!今何時だッ!?」
先程受け取った携帯の時刻を慌てて見る。時刻は8時59分を示していた。
「後1分しか無いじゃないかッ!」
園児達を横目に、校舎目掛けて慌てて走り出す。それと同時に、ブブッと携帯が振動した。スクリーンが光り、メッセージが表示されている。
『千里、今ドコにいるの?』