第6話『虚実』
彼はその場にいる人数を指で数え上げ始めた。自分たちをどうやって始末するのか考えているのだろう、とセスは直感的に感じた。
「ふむ」
するとナイジェルが顎に手を触れ、僅かに悩むような素振りをする。もしかしたら見逃してくれるのではないか。そんな希望的観測も5人の中に一瞬だけ目覚めかけるが、所詮はあくまで素振り。単なるパフォーマンスだった。その証拠にナイジェルの次の行動は早く、
「それでは、一気に片付けさせてもらいましょう」
突然彼の体がふわりと宙に浮いた。
「な、ななななッ! 何だありゃあ!」
セスの背後からたまらず狼狽の声があがる。なにせ目の前で何の前触れもなく人が浮かび上がったのだ。普通の精神をもった人間ならば、その場で声をあげて驚かずにはいられなかっただろう。
そしてセスもまた4人と同じように驚いていた。流石に狼狽えこそしなかったものの、目を丸くはしていた。しかしそれには単純な驚愕というよりは、僅かな感嘆を含んだものでもあったのだった。
ナイジェルが使った魔法は単なる浮遊魔法であり、自分の身体をゆっくりと上空へと浮かべるものだ。このマギア自体はマギアとしては比較的序盤の方に習う初歩であり、魔道騎士を名乗るナイジェルが使えることには普通ならば何の驚きも生じないはずなのだ。だが時に、基本的なマギアもいうものは複雑なマギア以上に、その人個人の魔法術師としての能力の高さを物語ることもある。
というのも一般的な浮遊魔法は、最初に地面を蹴るなどして、ある程度の初速をつけて魔法を補助することが定石とされている。それは発動したばかりのマギアの制御をより安全に行うための一つの工夫だった。
例えば床の上で物を動かす時、動き出す瞬間には物を動かし続ける時よりも多くの力を必要とする。それと同じように、マギアも発動する時には、マギアを維持する時以上に魔力を消費するのだ。その時行われる魔力の放出は一般的に不安定になりやすいため、よほどの技量がない限り細かな制御は不可能だとされている。
そう、並みの人間ではほとんど不可能なマギア。この至難を、ナイジェルは何でもないことのように行ったのだ。ただふわりと、自分だけ世界の理から外れたように。ただただその場で軽く、浮き上がってみせた。
(この人の実力は、一介の騎士のそれを遥かに超えている……!)
今になってようやく、セスは屋敷の人間の余裕ぶりに合点がいった。これほどの護衛が要るなら、「盗品など彼に任せれば軽く取り戻せる」と高を括るに十分だろう。少なくとも、並みの盗人を捕らえることなど、ナイジェルほどの妙手をもってすれば容易いのだから。
浮き足立つセスたちに対し、ナイジェルは微笑を浮かべたままに右手をゆっくりと前に伸ばす。すると、バキンッ! という激しい破裂音が、けたたましく空気を切り裂いた。セスたちは咄嗟に耳を覆ってしまう。
「ぉおいッ!? ぁ、あれ見ろよ!」
ナイジェルの方を指差しながら、1人が声を裏返す。釣られるようにセスたちもおそるおそる顔をあげると、ナイジェルの手元には恐ろしく巨大な氷塊が一瞬のうちに出現していたのだった。
「畜生! あんな化け物がいるなんて聞いてねぇぞ!」
誰かが苦し紛れの言葉を口にする。しかし氷塊はまるで怯える者たちを嘲笑うかのような異音をたてながら、その大きさを一回り、二回りと増していくのだった。そして数秒後には、ナイジェルの背丈の倍くらいまで膨れ上がり、氷塊は彼らを威圧するように見下ろしていた。
「じょ、冗談だろ……」
彼らはナイジェルの放つ圧倒的な魔力にたじろぎながら、ちらりと既に氷漬けとなったランスの姿を見た。おそらくあの氷塊に擦りでもすれば、ランスのように全身が凍てつきーー死ぬ。
「嫌だぁ……死にたくない! 助けてくれぇ!」
「盗んだものは返す! 返すから! 頼む!」
セス以外の仲間はすでに諦めて命乞いを始めていた。目の前で仲間がすでに2人も死んでいるのだ。自分も殺されたくない、そう思ってしまうのは無様でもなく、人間の生存本能としてごく自然なことだった。
むしろ魔法を見つめながらぶつぶつと何か言葉を繰り返しているのセスの方がーー側から見れば、異常。
「あなたは無様に這い蹲らないのですか?」
ナイジェルはセスに問う。何やら面白おかしくてたまらないという様子であり、本当にこの現状を心から楽しんでいるようだった。
「セス、この作戦はもう失敗した! ここはプライドを捨ててでも、生きる可能性がある方を選ぶんだ!」
「だから俺にも土下座をしろって? ハッ…そんなこと何の意味もないさ」
仲間の言葉を、セスはバッサリと切り捨てる。
「いいか。この騎士は降伏に応じるような人間じゃない。下げられた頭は飄々としながら粉々に砕いてくる。そういうタイプだ」
「心外ですねぇ。私をなんだと思っているのですか」
「今までの行動を見てればわかるさ。わざと俺たちを泳がして、浮かれた姿を観察してたんだろう? お前のような魔道に狂った人間は嫌というほど見てきたさ」
セスは挑発するように告げた。そこで初めて、今までどこか戯けた態度をとり続けきたナイジェルの均衡が、崩れる。
「くくくっ……あはははは!! 盗人が人を狂人呼ばわりとは、これは滑稽だ!」
彼は腹を抱えて、身を大きくよじらせる。そこに先ほどまでの不気味な様子は一切なく、むしろ今までで一番人間らしいと感じる仕草だった。
「大正解ですよ。確かに私はあなたたちのような生きる価値の無いゴミを、正義の元に全力で踏み潰すのが…本当に好きで! 好きで! たまらないんです!」
ナイジェルの体から一気に魔力が吹き出す。
(来るか!?)
セスは額に汗を滲ませながら、身構えた。しかし絶大な力を持つマギアに対して、それはあまりにも無意味な行為である。ただの人間が何をしたところで、助かるはずがないのだから。
「そう、こんなふうにね!!!」
ナイジェルの手は勢いよく振り下ろされる。そこにはセスたちへの遠慮や命を奪うことへの葛藤など一切無く。今ここに無慈悲で一方的で暴力的な殺戮が始まろうとしていたのだ。
そう、まさにその瞬間だった。
「全員、口と鼻を塞げ!!」
セスが叫んだ。
そのあまりの剣幕に、彼らはみな反射的にセスの言葉へ従ってしまう。そして幸いにも、彼らが自らの反射とセスの言葉を疑い始める前に、彼らの体は強烈な冷気に包まれたのだった。
もちろんそれは、たまたま彼らにむかって冷たい風が吹いたわけではない。この極低温の風ーーもし万が一、少しでも身体の中に取り込んでいたならば、肺が一瞬で凍りついてしまっていたような風ーーは、他でもないナイジェルによって放たれたのだから。
「い、いきてる」
盗賊たちは自らの身体を抱きながら、ガタガタと震えていた。そこには眼前に迫った死の恐怖から逃れたという安心などあるはずもなく、彼らはもはやただひたすらに恐れ怯え、驚くだけの人形だった。
だがそんな彼ら以上に、マギアを放った方は驚愕していたのだが。
「全員、逃げろ」
セスの言葉を聞き、四人はようやく我に返ったのだろう。ハッと一度だけ瞬きをすると、口から悲鳴のようなものを上げた。
よろめきながらも、必死にバラバラな方向へと駆け出していく四人。対してセスは、依然手を振り下ろした時の格好のままでいるナイジェルをじっと睨み付けていた。
「ふふっ」
しばらくして、ナイジェルが再び笑い出した。
「クククッ!!! アッハハハハハッ!!!」
その笑い声からは、怒りとも喜びともつかない狂気が伝わってきた。噴水の音すらかき消してしまうような大音声に、セスは若干萎縮してしまう。実際のところ息継ぎも忘れて笑い続けるナイジェルの姿は、本当に気が狂ってしまったようにしか見えなかった。
「さっきは失礼なことを言ってすみませんでした!」
セスが頭を下げる。その時水を打ったように、ナイジェルの笑い声が止まった。
「盗んだ物を持っているのは俺と、さっき貴方が殺した二人だけです。だから他の皆は関係ないし、俺も盗んだものは全て返します。お願いです。ここは何とか見逃してください!」
セスは口調を正して、ナイジェルに懇願した。対するナイジェルは、冷たい目でセスの後頭部を見下ろしていた。
先ほどセスは自身の分析と機転によって、ナイジェルの攻撃を流すことに成功した。確かにそれは事実だが、しかし自分とナイジェルの間にある圧倒的な力の壁が解消されたわけではないのだ。少なくとも今の状態で正面から向き合えば、確実に殺されるのはセスの方である。
とはいえ、さっきの様子を見る限りこの騎士がセスやその他のことを見逃してくれる可能性はほぼないだろう。ナイジェルほどの騎士にとっては、ここでセスを瞬殺した上で逃げた面子を根絶やしにしてしまうことなど造作もないのだから。
しかしたとえ可能性が少なくても、セスとしては何とか彼に見逃してもらうことに賭けるしかなかったのだ。
せめて、彼らが逃げるための時間を稼ぐくらいはーーとセスが消極的な思考に逃げかけていると、ふと僅かな空気の流れを感じた。セスは奇妙に思って顔を上げ、思わず飛びのきそうになってしまう。なぜなら彼の目前には何の前触れもなく、ナイジェルが立っていたのだから。
(音も、気配も。まるでなかったーー)
背筋がゾッと凍てつく。ナイジェルの魔法の技量は既に高く評価していたが、彼はおそらくセスが思っていたよりもさらに凄まじい力を持っているのだろう。我ながら運がない、とセスは思った。
既に覚悟を決めかけていたセスだったが、対するナイジェルの態度は意外なものだった。
「もういいですよ。貴方に免じて、彼らは見逃してあげましょう」
なんと首を傾けながら、諦めたように破顔したのだ。
「本当か!?」
咄嗟にセスの声が上ずる。セスにとってナイジェルの言葉は願ってもいないことだった。
「あの魔法が見破られた時点で私の負けです。貴方には見事にしてやられましたよ。そもそも今から彼らを追いかけたところで、隠密に処分することは困難ですし? 下手を打って大事にしてしまっては元も子もありませんしねぇ」
確かに、ナイジェルの言うことには筋が通っていた。彼がここで下手に盗人を追えば、場合によっては民間人に騒ぎを聞きつけられる可能性もある。となればポルドー家での騒ぎは公に晒されてしまうだろう。勿論、ポルドー家の手の者によって殺害されたランスとキースのことも、明るみに出てしまうというわけだ。
この騒ぎを大きくしたくない。セスとナイジェルはその点で意見が一致していたのである。
「ただし、1つ条件があります。聞いてくださいますか?」
「勿論、他言はしない。他の奴らにもそう伝え」
「違いますよ」
ナイジェルはセスの言葉を氷のように冷たい声で遮った。すると次の瞬間、彼の全身から魔力と冷気が激流の如く吹き出して、その右手に集中する。
「見逃すのは貴方以外。それが条件です」
全てを蹂躙するような氷の竜巻が、セスの体を吹き飛ばした。