第2話『不幸は連鎖する』
少年が嗚咽を抑えながら懸命に伝えたのは、恐ろしい出来事とその結果だった。血の気が引く、とはまさにこのことである。セスは顔を真っ青にすると、少年をその場に置いて走り出していた。
段々と日が沈み、夜の帳を下ろしていく街の中を、セスはひたすらに駆ける。肺と心臓が圧迫され、今にも破裂しそうになるくらい、懸命に走った。
「ミスティ!!」
言われた場所に来てみると、ボロボロの服を着た子供たちがミスティの周りを囲んでいた。全員目元を真っ赤に腫らし、そして中心のミスティは青白い顔で苦しそうに目を閉じている。
「おいミスティ! 大丈夫か!」
問いかけてみても返事がない。肌を触ってみたが、日陰にある鉄のような温度だった。人としての暖かみがまるで手に伝わってこない。
「いつからこうなんだ?」
「えっとね、もうね。一時間くらいずっとこのままなの。それでね。皆でセスお兄ちゃんを探してね。なかなか見つからなくて。それで……」
「分かったよ。ありがとう」
たどたどしくも何とか説明をしようとする少女の頭を、セスは優しく撫でた。そしてすぐ近くの塀を見上げる。高さは三メートルくらいあるだろうか。おそらくあそこから落ちたのだろう、とセスは思った。
「よくミスティを動かさなかったな。偉いぞみんな」
普段からセスは彼らに"誰かが大ケガをした時はなるべく体を動かさないよう"言っていた。状態はかなり悪そうに見えたが、子供達がセスの教えを守った甲斐もあり、これならまだギリギリ助かるかもしれない。
「みんな、大丈夫だ。俺がすぐにお医者さんを呼んでくる。みんなはここで待っててくれ」
立て続けに色んなことが起こって、彼の頭の中は酷く混乱していた。だがそれでも彼は、子供たちの気持ちを少しでも楽にするために、あえて何でも無いような口調で言った。
「ミスティ助かる? また遊べる?」
「ああ、勿論。だから良い子で待っているんだぞ?」
セスの言葉に子供は皆頷く。少し不安も和らいだのだろう。ミスティに対して穏やかに話しかけながら、彼女を元気づけ始めた。
その様子を見て、セスは満足そうに笑った。だが子供達の前から立ち去ると、彼は一転深刻な表情を作るのだった。
事態は急を要する。これ以上は一刻たりとも無駄に出来ないだろう。
ミスティはまだ8歳と少しだ。まだあまりにも幼い少女のその命を、こんなところで失わせるわけにはいかない。
ミスティの両親は彼女が物心つく前に魔族に襲われて他界した。身寄りのなかった彼女は行き場を無くし、数年前からこのスラムで他の子供たちと共に生活している。
ミスティは優しい子だった。以前彼女が人から黒パンを貰った時のこと、ミスティは小さなパンをスラムの友達と分けあった。他の子ならひとりで全部食べてしまうところを、彼女はそうしなかった。理由は単純だった。彼女にとって仲間ととる食事が何より美味しいものだったからーー。
セスは薄暗い夜道を走りながら思い出す。去り際にミスティが僅かに笑う姿を。苦しくて堪らない中、セスに対する感謝を示そうとする姿を。もしかするとその笑顔が、もう見れなくなるかもしれない。
疲労が何だ。鉛のように重い足がなんだ。彼の頭にあるのはもはや一刻も早く医者を探そうという強い意志だけだ。そしてセスは思い付く限りの診療所に駆け込んだ。
だが医者たちは彼を相手にしなかった。セスの汚い身なりを見るなり、診療所の扉を固く閉ざしたのだ。それもそうだろう。スラムの子供一人を助けたとして、彼らにとってなんの得もないのだから。それならきちんと治療費を払ってくれる軽傷の患者を相手にした方が、ずっとマシというものである。
セスもそのことは分かっていた。だからこそセスは何件も病院を回ったのだ。しかしスラムの子供たちに対する世間の目は、彼が思う以上に冷たかった。たとえいくらかの同情があっても、結局のところそれは同情の域を出ないというわけである。
「お願いします! 子供が死にかけてるんです!」
「駄目だ。こちらも仕事なんでね」
もう何度目かの門前払い。セスはは投げ飛ばされるようにして、診療所を追い出された。自分の感情を抑えられなくなって、セスは思わず固く冷たい地面に拳を打ち付ける。
「クソッ! 何でなんだよ!」
金が無ければ死ぬしかないとでも言うのだろうか。諦めろというのだろうか。彼は現実の理不尽さと自分の無力さに対する怒りが、彼の手の甲に血を滲ませていた。するとその時、不意にポケットの中で金属音が鳴った。ジャックから貰った銀貨の音だった。
セスは再び扉の前に行き、鉄製の扉を叩き始めた。
「待ってください! お金ならあります、払います! どんなことをしてでも払いますから! どうかミスティの命を救ってください!」
痛みも指の感覚も段々となくなってきている。それでもセスは扉を叩くことを止めなかったし、扉の前から離れようともしなかった。周囲を歩く人の嘲笑など気にせず、セスは扉を叩き続けた。
するとしばらくして、中から先程の医者が怪訝そうな顔をして出てきたのだった。
「あんたさぁ。いい加減にしないとーー」
セスは物凄い勢いで男にすがり付いて、拒絶の言葉を遮る。
「残りの金は後で必ず払います! ですからどうかーーどうか!!」
セスは銀貨を袋ごと持った手で、男の手を力強く握りしめた。その手は血で真っ赤に染まっている。男は目を細めた。それから視線を彼の全身へと移していき、懇願するセスの姿がボロボロであることに気づく。医者は白髪混じりの頭を何度かかくと、観念したように頬を緩ませた。
「負けたよ。あんたの勝ちだ」
男はそう言って、部屋の奥に声をかける。すると間も無く中からその医者の部下であろう屈強な若者が二人、姿を現したのだった。
「さあ患者のところまで案内してくれ」
セスは泣きそうになりながら、深々と頭を下げた。
スラムに着いた頃には、あれからさらに1時間以上が経っていた。見たところ、ミスティの顔色はますます悪くなっている。
「こりゃあ酷い内出血だ。腹がバカみたいに腫れてやがる」
ミスティの服をめくりながら、医者は眉間に皺を寄せていた。おそらく思っていた以上に状態が芳しくなかったのだろう。
「すぐ運んでくれ。くれぐれも身体を揺らすんじゃないぞ」
隣の男たちはその言葉に頷くと、ミスティの体を慎重に持ち上げ、担架の上に載せた。
一方、子供達は仲間が見知らぬ男の手で運ばれていく様子を、不安そうな面持ちで眺めている。
「大丈夫だみんな。ミスティはすぐに良くなるさ」
彼はその場に居る全員にそう言い聞かせる。まだ到底安心できる状況には無いが、ここからさらに状況が悪化することも無いだろう、と考えていたからである。いや、そう思いたかった、と言うべきか。
だがひとまず嵐は過ぎ去ったことは確かだった。こうして少し肩の力が抜けると、徐々に自身の行動を振り返るだけの余裕ができてくるというものである。セスはジャックから貰ったお金を使ってしまった、事実というを思い出した。
ジャックは子供達の食費と言って、あのお金を渡してくれたのだ。彼には悪いことをしてしまった、とセスは思った。
(それでも……ミスティが生きていさせくれれば)
そのそして翌日、セスの耳には良い知らせと悪い知らせが同時に入ることになる。いい知らせの方は、なんとミスティが奇跡的に後遺症もなく、一命を取り留めたと言うことだった。それを聞いた時、彼を含めたスラムのメンバーはハイタッチをしたりお互いを抱きしめ合ったりしながら、その喜びを大いに分かち合った。しかし彼らの興奮は、同時にやってきた悪い知らせによって水を差されてしまったのだった。
それはミスティの治療にかかった医療費である。実際にその請求書を突きつけられた時、セスは頭を金槌で殴られたようなショックを受けた。具体的に言うと、セスが例の職場で昨日までに稼いできた全給料のほぼ倍。それは彼が思っていたよりも、ずっと現実味のない金額だった。
医者はミスティが退院するまでの間猶予してくれると言った。しかしそれもあと5日ほどの話だ。その時までにはどうにかして、お金をかき集めなければならない。
包帯でグルグルに巻かれた自分の右手を見ながら、セスは途方に暮れていた。処置をしてくれたのは、ミスティの治療に当たってくれた例の医者だった。手術が無事に終わったことを確認して、一度スラムへ帰ろうとするセスを呼び止め、「これには金を取らないから安心しろ」と無償で包帯を巻いてくれたのだ。
『若いのに大したもんだ』
セスの頭の中には医者のそんな台詞が残っていた。医者は、わざわざ身を磨り減らして子供を助けようとしたセスの正義感に、胸を打たれたのだと言った。だがセスは、自分を駆り立ててくる『モノ』の正体を知っている。これは正義感などという美辞麗句で飾れるものではない。
彼は歪だ。彼だけが自分の異常性を知っている。診療所を探す時も、絶えず贖罪や後悔といった、どうしようもなく自分本意な感情に追い立てられていたことを、彼だけが知っている。
右手の傷口が抉られたようにじくじくと痛みを増してくる。昔のことを思い出すと、彼は毎度こうして息が詰まる思いをする。いくら吐いても、喉の奥からは尽きることなく真っ黒な吐息が漏れ続ける。
(それに結果的にミスティは助かった。俺の奔走は無駄にはならなかった。彼女が死に、多額の借金だけが手元に残るような最悪の結末にならなかったんだ。それだけでも、万金の価値がある)
セスは自身に言い聞かせた。たとえ自分本意であっても、子供を救うことが出来たという事実には変わりないのだ。ただ地面を這いながら、自分の愚かさを嘆いたあの時とは違う。
そこまで考えて、セスは首を振った。今重要なのはそんな自己の正当化では無く、間近の危機をどう切り抜けるか。それだけだった。
このままでは子供たちと共に餓え死ぬのがオチである。死という未来はもう彼らの首元まで着実に迫っている。分かっている。なのに逃げ道がどこにもない。いくら考えても答えも光も見えてこない。もがけばもがくほど、状況はどんどん悪化していく。
今のセスの頭は苦悩と絶望で完全にオーバーフローしていた。だからこそ彼は自らの背後に迫り来る、二つの黒い影の存在に気がつかなかった。
獰猛な欲望の獣は、衰えた獲物に狙いを定め、歩み寄っていく。徐ろに、ひっそりと、それでいて着実にーー。