悪夢
等しく劈く蝉の絶叫は、
死人の肌によく似た色の雪に埋もれて、
ぶちまけられたあつい血のように鮮烈な楓の葉は、
梅の香りのする薫風に当たる度にその色を褪せていく。
実家の裏手を見下ろせる坂を上って、小松菜の青々とした畑を過ぎていくと、プレハブ2階建ての建物がある。葛の濁流に呑まれて喘いでいる様子である。建物の脇にある滑り台くらいの小さなショベルカーは体中に錆色の生傷を浮かべて、仰ぐばかりだ。先には底抜けに明るい空がある。吸い込まれそうな薄い青色だ。
プレハブのはす向かいには民家がある。屋根が黄土色で、肝臓を悪くした人の顔色とよく似ている。隣家の老翁の遺体を思い出す。語らぬから、何事もないと思い、気づかれぬまま蝕まれ、自己の愚かさを嘆く暇もなく死んだ。最後まで何かの所為にしたろう。
私の立っている道には夥しい数の、ピンク色の、てらてら光る紐のようなものがある。近くには茶色や白や黒の、毛皮が落ちている。緩い糸でつながっている。
あ――
向こうから来たトラックが、路の端に避けた私に水たまりの泥をかけて過ぎて行った。ピンクの紐も、違う色になった。ゴミ虫が這い寄っていく。私の服はぐちゃぐちゃだ。少し涙が出た。怖い。
民家の犬がけたたましく吠えた。四回吠えると、そこで横になった。近づくと、もう息をしていなかったし、目は真っ白だった。家の窓から無数のこけしが見下ろしていた。
「※※」
誰かが私の名前を呼んだから振り返った。プレハブに絡んだ葛には雪が積もっている。二階の窓から、誰かが手を振っている。見たことのない男の人だった。眉間にしわを寄せて、歯を食いしばって笑っている。落ち窪んだ眼窩の下の方で、得体のしれない蟲が蠢いている。
プレハブの駐車場へは黄色と黒で編まれたロープを潜れば入れる。ロープの所々には蛇が巻き付いていて、そうしながら舌を湿らせるのに余念がない。ロープの両端はプレハブを取り囲むフェンスに繋がっていた。ささくれたフェンスには乾いた蛙の死体が刺さっていて、大口を開けたアオダイショウがそこに覆いかぶさるようにして飛びついたかと思ったら、貫き出ていた針金に刺さって動かなくなった。気をとられて何かを踏んだから驚いて足元を見たら、鶏の卵が割れていた。黄身がどろりと、土を巻いて濁った。
一階の窓は全部、合板をはめられて、中が見えない。入口の硝子戸はジャラジャラとやかましい鎖と南京錠で封印されていた。奥には非常灯が怪物の充血した瞳のように、煌々と不気味に光っている。何度か瞬きをしたようにみえた。
ガラスに張り付いて中を見てみると、目の前には奥に長い八段式の靴箱がびっしり並べられていることがわかった。どの靴箱にも、靴は異なり一対だけしか入っていない。赤と青の上履きが片足ずつ、腐っていた。
「こんにちは」
覗きこんでいたガラスに人影が映った。
振り返ると、雪と泥で滅茶苦茶になった背後に、裸足の女の人が立っていた。彼女は高校の制服を着ている。優しげな笑顔である。
こんにちは
「入りたいの?」
はい
私が頷いてそう言うと、彼女も同じように頷いてから、プレハブの裏手に駆けて行って、少しすると戻ってきた。手には、折れたバットの柄が握られている。
「がんばろ!」
私の返事を待たずに、彼女は硝子戸にそのバットの柄を激しく打ち付け始めた。口を開けているから何か叫んでいるようにも見えたけど、彼女が暴れ狂う間、隣の道をプレハブと同じくらいの高さのトラックが列を為して走ってうるさかったから、なにも聞こえなかった。そのうちの一台が横転して、はす向かいの住宅の塀を崩壊させてから、あたりは急に静かになった。
「さあ、いこ!」
はっとして視線を戻すと、目の前の硝子戸は曖昧に破られていた。彼女が笑みを浮かべてこちらに手を伸ばしている。女子高生は、少し怪我をしたみたいで、手首から血を流している。暗闇の奥から流れる黴臭い澱みが、鉄に似た生臭さまで運んできている。怪物がげっぷを押し殺した後、舌なめずりをしたようだった。二の足を踏んだ。
「いかないの?」
困った顔をして、首を傾げる彼女。揺れて覗いた耳たぶには穴が開いていた。
いかない
首を振ると、女子高生は口角を下げて、
「嘘吐き」
と無表情に言うと、奥に吸い込まれていった。バットの柄だけが転がった。
また生臭いにおいがした。
蝉が啼いている。