一、恋をしよう ⑥
「あの、えー、蒼山さん? とお知り合いの方でしたか。いえ、何、ちょっと歌い方を教えてくれと頼まれまして、それで少しカラオケボックスに入っていたというだけの話です。疚しいことなんて何もないですよ、それでは」
「ほーん、って言って納得するとでも思ってんのか?」
ほーんとでも言って納得してくれ。完璧に説明したはずだ。
「ミリィが歌を教わりたいならよ、てめえみたいなオタク野郎に頭下げる必要なんてどこにもねえはずなんだよなあ。この俺がいるんだからよ」
まず自分に頼るであろう、という自信があるらしい。歌唱力にあるものなのか、人間関係におけるものなのか、どちらであるのかはわからないが、少なくともそれなりの間柄ではあるのだろう。
「中入るぞ。お前に教えてやるよ、格の違いって奴をな」
「僕またカラオケ行かなきゃいけないんですか?」
「そうだっつってんだろうが鬱陶しそうに確認挟むのやめろ!」
僕が先ほど出てきたカラオケ店に入っていくピアス男。
これに付き合うとなると非常に面倒臭い。今逃げたらバレなかったりしないだろうか。
すっと踵を返してみると、とんでもない勢いで走って追ってきて腕を掴まれる。そのままずるずると中へと引き摺られることと相成ってしまった。
「本当に鬱陶しい野郎だなてめえはよお……まあいいさ、教えてやるよ、格の違いって奴をよ」
先程と全く同じ台詞を吐くピアス男。自分なりにかっこいいのをと考えてきたのだろうか。
これ以上逆らうのも怖いのでとりあえずは従うことにしておこう。
感覚で理解させてやるか。
「これが……格の違いって奴なのかよ……」
そこには失意のうち灰色になり崩れ落ちるピアス男の姿があった。
「納得していただけたようで何よりです」
ちなみにこの男の歌は確かに蒼山よりはマシではあった。僕からすれば五十歩百歩といったところではあるが。
「ああ、ミリィがお前に頼るかもしれないという毛程の可能性は認めてやるよ。くそ、それにしたってよりにもよってなんでこんな淫乱軽薄野郎に……」
「淫乱軽薄って言葉、微塵も身に覚えがないんですが」
「とりあえずその人を喰ったような敬語をやめろ、苛立ってくる」
慇懃無礼、といった感じにでも捉えられてしまっていたのだろうか。なかなか難しいものだ。
「お前の噂、学校中に広まってるからな。人の大勢いる図書室で大声で告白したんだろ。俺はそういう勢いだけで生きてるような奴が一番嫌いなんだよ」
どの口が言っているのだろうか。
いや、待て、このピアス男が僕と同じ学校に通っていると示唆するような発言にも驚きだがそれ以上に僕の告白、いや僕としては告白のつもりでなどなかったのだが、あれが学校中に広まっているだと?
「……あれは告白しようとしてやったわけじゃないし、告白じゃないってことになったよ。そもそもそういう色恋沙汰、結構あるんじゃないの?僕のケースだけ拡散される理由がわからないんだけど」
「結構あるわけがねえだろ。十分過ぎるくらいにセンセーショナルな話題だろうよ」
どうやらあれは世の陽キャ共でもそうそうしないようなことであったらしい。
知らなかったそんなこと、なぜならそんな話をする同世代の友達が居なかったから。
客観的に見ても軽薄はともかく淫乱とまで言われる筋合いはないとは思うが。
「……そうなんだ。っていうか君、僕と同じ学校に通っているみたいな口振りだけどどうやって入ったの?やっぱり裏口?」
「やっぱり、じゃねえよ!歴としたスポーツ特待だ」
やはりというか、スポーツ推薦だったか。僕と同じ学校というのが事実であるならそうであろうとは考えていた。蒼山はあれでなかなか勉強が出来るようだったが、こいつに関してはそのあたり見た目通りらしいな。
僕らが通う学園には私立高校らしく大きく二種類の特待制度が用意されている。
一つはこいつのようなスポーツでそれなり以上の結果を残せそうな人間を連れてくるためのスポーツ特待制度、もう一つは学力面の補強のための学力特待制度。
前者についてはあまり詳しくないのだが、被スポーツ推薦者の中でも特に優秀な人間のみがその恩恵に預かることができるらしい。後者は更にA特待からD特待までの四つに分類されており、免除される金額に差が出てくる。
僕はA特待生であるため授業料のほか施設費なども含め全額免除だ。図書室の説明をするときに僕自身は学費を一銭も払っていないと述べたのはこういう理屈のためである。
更に一つ言うとこれらはクラス分けにも関連しており、僕達が所属するAクラスは全ての学力特待生と入学試験における成績上位者によって構成されている。つまるところ信じ難いことにあのヤンキー女蒼山のみならず包帯オレンジまでもがぼちぼちの進学校である我が学園の中でも選り抜きの才媛であったということだ。彼女らはそういう事情の上で尚更浮いているのだ。尤も蒼山については同じクラスであるらしいにもかかわらず今日まで存在を認識していなかったが。
尚、こういった措置がなされるのはA組及びスポーツ特待生が所属するS組のみであり、B組からI組までの振り分けにはそういった事情は加味されない、事になっている。実際のところどうなっているのかというのは僕には知る由もない。隣のクラスらしい銀縁女、糸森愛祇はB組所属ということになるが、その情報から彼女という人間の構成要素を知ることは難しいだろう。せいぜい僕の方が勉強が出来るということくらいか。
「スポーツね。何やってるの?やっぱりカバディ?」
「何がやっぱりなのかわからないが俺がやってるのはサッカーだ。うちにカバディ部はない」
「へえ。まあどうでもいいんだけどね。それで、蒼山さんとはどういう関係なの?」
正直そこは少し気になっている。
「どうでもいいなら聞くな。俺とミリィの関係か、それはとても一言では表現できないな。それを知るには俺とミリィの出会いから語らなければならないんだが」
「じゃあいいや」
「語らせろや!」
「冗談だよ、いや半分は本気だけど。まあその話にわざわざ聞くほどの価値があるかどうか判断するために、先に聞きたいことがあるんだよね」
そう。意図しないところで生じたこの男との関わりが僕にとっての利益になるかというのはある一点のみに懸かっている。
「好きなの?蒼山さんのこと」
「……まあな」
「へえ。へえー。なるほどねえー」
「あっおい、てめえ、これ絶対ミリィに言うなよ!」
「もちろんだよ」
そんな不粋な真似をするつもりは毛頭ない。
僕はこいつの感情、恋愛感情というやつを参考にしたいのだ。
まあ蒼山さんは僕のようなのが好みだそうなのでこいつに興味が向くことは多分ないだろうし、つまりこいつの恋が報われることはなさそうだけれど。
「じゃあ語ってくれないかな、彼女とのこと」
「お、おう。急に素直じゃねえか……まあいいけどよ。ミリィと初めて出会ったのは中学の時だった。2年でクラスが同じになってよ」
なるほど中学が同じだったのか。中学校というのはあらゆる性質の人間が混在する坩堝であり、偏差値が30くらい離れていそうなこいつと蒼山さんが同じ場所にいても何ら不思議ではない。
「しばらくはただたまに話したりするだけのクラスメイトって程度の関係だったが、いや勿論可愛いとは思っていたんだが俺は初恋を引きずってたのもあってあんまり新しい恋とか考えられなくてよ、まあそんな状況だったんだが、ある時俺が試合で酷いミスしちまってさ。滅茶苦茶に落ち込んで悩んで塞ぎ込んでたんだが、登校してすぐ教室で会ったミリィが『元気ないね、大丈夫? あんまり背負いこんだらダメだよ、君は結構真面目みたいだからね』って言ってくれてよ。勿論ミリィがこっちの事情なんて知ってるはずもなかったんだが、その言葉があまりにも俺の心にぶっ刺さってよ、その場で涙まで流しちまってな。その時思ったんだよ、こいつは俺の運命の相手だってな」
ちょっと長いしどうも話し方が鬱陶しいな。もっと簡潔に話せるだろ。
まあ要約すれば、落ち込んでるところを慰められて惚れたって話だろうか。
いまいち参考にはならなそうな話だ。僕は普段から鬱屈としてはいるが、その分目に見えて普段より気持ちが沈むことなんてことはそうそうない。
そして理解も難しい。慰められて惚れてしまうという理屈を、僕はいまいち受け入れられていない。
「蒼山さんが初恋じゃないんだね」
「おう。いや気にするとこそこか?」
大事なところだ。
「その初恋についても話してもらっていいかな?」
「……いいけどよ、正直そんなはっきり覚えてねえんだよなあ。小さい頃よく遊んでた女の子のことを気が付いたら好きになってたって感じでよ、ああそうだ、あの子は優しくて、それなのに他の女の子よりサバサバした感じがあって、一緒にサッカーとかもやってくれたし、そういうところがいいなって思ったんだったかな。軽口を叩き合えるくらいには仲が良かった」
「そんなものか」
「まあ、そんなもんだろ、初恋なんて」
僕が経験していないことに関して夢を奪うような発言は控えていただきたい。
「ただ、俺は会えなくなってからもずっと引きずってたわけだが……まあそのくらいだな。じゃあ次は俺に聞かせてもらおうか。なぜミリィが急に歌の練習なんてする気になったのか」
「好きな人とカラオケに行く時のため、らしいよ。君のことだといいね」
そもそも彼女は最初から練習を目的としていたわけではなく、想い人は僕のようなタイプであるそうなので、このピアス男である可能性はかなり希薄だが、まあ余計なことは言わなくてもいいだろう。
「好きな人と……だと? ……ミリィと一緒にカラオケ行くような仲の奴はそう多くはないはずだ!そうかミリィ、とうとう俺のこと……」
幸せそうで何よりである。
「しかし、今日は悪かったな。変な言い掛かりつけちまってよ。ミリィが男と二人でカラオケから出てきたからよ、いかがわしい事でもしてたんじゃねえかって考えてつい頭に血が上っちまってよお」
不健全な発想だ。カラオケはいかがわしい事をする場所ではない。
「まあなんだ、見た目あれだが、話してみりゃ結構いい奴じゃねえか、お前。連絡先交換しとこうぜ、お前がこれからもミリィと関わる可能性はあるわけだしよ」
どういう理屈だ。
どの辺りで僕に好意的な印象を抱いたのかもわからない。
なんやかんやでピアス男の連絡先まで手に入れてしまったが全く嬉しくない。まだオレンジ女の連絡先の方が欲しい。
ピアス男の表示名は葦葉蓮嘉。読めない。やたらと画数が多いのでテストの記名時など結構手間に感じていそうだ。
そういえば、オレンジ女の名前を結局聞いていなかった。今になってまた気になってきたな。
「君の名前、これなんて読むの?」
「アシバレンカ、だ。なかなか良い名前だろ」
「ふうん……」
レンカ。この名前、どこかで聞き覚えがあるような気がする。僕と関わりのある人間などそう多くはなく、以前に知り合っていたなら簡単に思い出せるはずなのだが、どうにもぼんやりとしたまま出てこない。
気のせいだろうか。
「良い名前だろ?」
「40点かな」
「……」
「あ、お代は勿論君が払っておいてね」
「セコい野郎だな……」
今日はずっと罵倒されている気がするな。自己認識が淫乱軽薄慇懃無礼隠キャオタクケチ眼鏡にアップデートされそうだ。
しかしながら、なぜだかは未だわからないのだが、この葦葉という男に対しては僕らしからぬ強気な態度を取れているように思う。
まあ元々僕が抱えているのは臆病な性格だとかではなくコミュニケーションに特化した欠陥であり、つまり相手が金髪ヤンキーだろうと深窓の令嬢だろうと等しく会話が難しくなるようなものなので、不良もどきが相手だからといって余計尻込むようなことはないのだが、葦葉に対しては相手を貶すような冗談さえ言うことが出来ている。軽口というのは非常に難しいもので、浅い関係の相手に口にした場合、一歩間違えれば不和を生み、二歩踏み外せば関係に二度と修復不可能になるまでの亀裂が入る。そういうものなのだ。そういう僕には到底扱えそうにない代物であるのに、この男を相手にすれば思考をほとんど介さずに自然と口から出てきてしまうし、それが雰囲気を壊すこともない。
僕と葦葉との関係が壊れることで被る被害がほとんどなく、なんならそれはメリットにさえなり得るがために僕が躊躇わないというのもあるのだろうが、それ以前に何かあるような感じがする。
まあいい。そのうち思い出すだろう。
葦葉にじゃあなと手を振られたが返さずにさっさと帰ることにした。
◯◯◯
「うぅ……うー……」
男の唸り声。
「みーちゃん……待って……待ってくれッ!」
男の叫び声。鳥の鳴き声。眩しい光。
暖かい布団。
覚醒。
声は俺のものだ。ここは俺の家で俺は俺の布団の中で、なぜか隣には妹がいる。
よりにもよって夢現でこんなことを言った時に限って。
「おにーちゃん……まだ初恋の人の事引き摺ってたのー? 女々しいなあ」
「うっせーぞお前に関係ねえだろ!っていうかなんで俺の部屋にいるんだよさっさと出て行きやがれ!」
「はいはーい。これ借りてくねー」
そう言うと妹はすぐに去った。俺の本棚から漫画本を何冊か持っていったようだった。
暫く見ていなかった夢。小学校時代の初恋の夢。
どうしてこのタイミングで再び出てきてしまったのだろう。折角忘れられていたのに。振り切れたと思っていたのに。
あのオタク野郎に話してしまったせいだろうか。
彼女はみーちゃんと呼ばれていた。
近所の大きな公園で遊んでいると、みーちゃんも別のところで遊んでいた。
自然と一緒に遊ぶようになった。自然とよく話すようになった。自然と公園に通う機会も増えて、自然と彼女に惹かれていった。
別れは不自然に唐突だった。昨日まで一緒遊んでいたはずなのに、その日からみーちゃんは姿を見せなくなった。次の日も、次の月も、次の年も。
「俺もう高校生だぜ……?勘弁してくれよ……」
本当の名前も知らない、もう会うことが出来ない相手に、未だに初恋と言う名の呪いで縛られている。
忘れたいはずなのに、忘れようとしても思い出してしまって、心に切り傷でもできているかのような痛みが走る。
もう一度、せめてもう一度逢えたなら。
きっと割り切れるのに。
◯◯◯
「あ、思い出した」
「ん?どした?」
思わず呟いてしまい、一緒に朝食を摂っていた姉に反応される。
「あー、いやさ、僕ちっちゃい頃よく女装させられてたよね。姉さんの趣味だったか母さんの趣味だったか忘れたけど」
「両方だぞ。あー、そんなこともあったなあ……っていうかお前結構中性的な顔立ちしてるしさ、今やっても結構似合うんじゃねえの? 私より可愛くなりそうな気がする」
両方かよ。
高校生男子が女装をするのはさすがにちょっと厳しいものがあるような気もしないでもないが、僕に限って言えば、よく言えば中性的な、悪く言えば女々しい顔立ちをしているため、女装をしてもあまり不自然にはならなそうだ。筋肉も然程ついておらず細身で体毛が薄く、身長も極端に高くはない。
「で、何で急に思い出したん?」
「何度も女装させられてると僕も面倒臭くなってきてさ、女装したまま遊びに行ったりしてたでしょ? その時に知り合った人と最近再会出来たんだよね。気付いたのは今だけど」
そう。
葦葉の初恋の相手。
それは僕だ。
道理で10年来の友人であるかのような気さくな会話が成り立つわけである。僕達は遥か昔に知り合っており、無意識下で僕はそれを察していたというわけだ。当時は今よりコミュニケーション能力もマシだった。
同性だから比較的趣味も話も合うしサバサバした態度になるのもまた当然だろう。葦葉の話通りだ。
そして充だからみーちゃん。みーちゃん呼びならそこから男だと分かることもなかっただろう。
「今も女装似合いそう、って言ったよね?母さんに言えば化粧とかやってくれるかなあ」
「なんでまた女装したいんだ?その再会した相手とやらの事詳しく話してみ?」
「そいつが女の子の格好した僕に惚れてたみたいなんだよね」
「いやいやいや超面白そうだなそれ、私は協力するぞ。母さんも絶対ノリノリで手伝ってくれると思う。ただし、事の次第だけはちゃんと報告すること!」
「任せてくれ」
葦葉への連絡手段は向こうから用意してくれている。
これはなかなか、いや、相当面白い事になりそうだ。