二、勉強をしよう ①
勉強。
この言葉自体に拒否反応を起こすような人間も決して少なくはないはずである。
しかしながら、このやたらと忌み嫌われる行為は普通の人生を歩む上では避けて通れないものでもあるのだ。
絵の天才でもなければ楽器も弾けず、何か一つのことに全てを捧げられるだけの情熱を持ち合わせてもいなければ人並外れた運動能力を有しているわけでもない、そんな僕には結局のところ、真面目に地道に勉強するという道以外残されていなかったのである。
ちなみに今現在僕達は具体的には何のために勉強をしているのかといえば、それは受験戦争を制するために他ならない。今の僕らにしてみれば、教養がどうだ叡智がどうだなんて話も、上手く使えばお金になるような知識でさえ二の次だ。本末転倒、という感じは少しするが、おおよその勤勉な学生はこのようであるはずである。
そういう理由もあってその名の示す通り勉学とはそれが高校生であっても学生の本分なのであるが、しかし世の中勤勉な人間ばかりであるはずもなく、一部例外を除いた大抵の学生はこれを程度の差こそあれ疎かにしているというのが実際のところだ。
そもそも普通に考えて十代後半なんていう人生で一番輝いていると言っても過言ではないような時期に勉強なんてとてもしていられないだろう。彼らは皆、恋に部活にバイトにと既にいっぱいいっぱいだ。僕は恋も部活もバイトもしていないが。
学生なんて肩書きであってもそれが皆勉学に励んでいるわけではないのである。
例えば、僕の隣に座っているオレンジ色の頭をした子のように。
「それじゃあ夕季さん、問題3の答えを口頭でどうぞ」
最近生徒を授業に参加させることに積極的である七峰ちゃんが燈華に問題を振る。ちなみに数学の授業は土曜日の演習も含めて週6回行われるので七峰ちゃんとは毎日顔を合わせることになる。まあそもそもこのクラスの担任でもあるのだが、担任として僕達に接する時間など高が知れている。
しかし、この生徒に負荷をかけていく感じ、恋人と破局したストレスをぶつけているだけじゃあないだろうな。だとしたらとんだとばっちりである。
「え、あの、すみません、わからないです」
これもそう難しい問題ではない。というか先程七峰ちゃんが若干酒焼けしたような声で説明していた部分だ。
授業の内容をほとんど理解できていないとすると、つまりこの子は週に五時間以上も無為に過ごしているのだろうか。
「そうですか……それじゃあ、轍君」
いい加減にしとけよお前。
僕は昨日わざわざ前に出て回答したはずだ。そこからの流れで燈華が指名されたはずなのに、急に反転してくるんじゃない。僕に恨みでもあるのだろうか。
「……√3」
「はい、正解。次の問題は────」
この問題についての解説が無いのは、解説するまでもない、取るに足らないものだからである。
燈華はそういった問題すら解くことが出来ない状態にあるのだ。
数学は比較的一夜漬け的な学習が難しい科目でもある。早いうちに対処しておかないと大変なことになるかもしれない。
こいつにそこまでしてやる義理があるのかと問われれば微妙なところではあるのだが、まあ乗りかかった船でもある。多少の面倒は見てやろう。
前に考えていた通り、勉強会を開くことにする。
先程まで読んでいた本を閉じ、携帯を取り出してから誘う相手について考える。
燈華は呼ぶとして、他に声をかけるとすれば糸森と蒼山だろうか。
あの二人を同じ空間に置いてみたいという好奇心がある。人の恋心をそのように扱うなど出歯亀を通り越して下衆の所業とさえ取られかねないが、まあ蒼山としては願ったりといった感じだろう。
そもそも彼女らに同級生から勉強を教わる必要があるのかどうかはわからない、というか多分ほとんどないのだろうが、特に蒼山はそういうのが嫌いな性格でもなさそうなので言えば付き合ってくれるのではないだろうか。糸森については未知数だが、友人として誘わないわけにはいかない。誘いたい。唾液……いや、この話はもういいか。
葦葉、という名前が一瞬浮かんだが、一体誰の名だったか忘れてしまったのであいつは呼ばなくていいだろう。
しかしこの短期間で僕の交友関係も随分広がったものだ。驚くべきことに家族以外に連絡先を持っている相手が四人も存在している。この調子でいけば友愛によって世界を征服することも夢ではないとかそういう勢いである。0から4に一週間で到達する増加率なのであれば、もう一週間後には75億を容易に越えるだろう。
今日から毎日勉強会を開きます、この僕に教えを乞う貴重な機会です、奮ってご参加くださいといった旨のメッセージを三人に送る。蒼山のものにのみ糸森にも誘いを入れたことを付け加えて。
更に言えば糸森へのメッセージは多少マイルドなものになっているかもしれない。燈華や蒼山と同様に扱ってしまうのは少々気が引ける……いや、人の足を思い切り踏み抜くような女ではあるのだが、あれはまあノーカウントでいいだろう。
五限が終わり、彼女らからの返信が来る。
三人とも乗り気であるようだ。まあこうなるだろうとは考えていたが、自分から働きかけるなんていう柄にもないことをしておいて三人ともから拒否されていたらちょっと泣いちゃっていたかもしれない。
隣に座る燈華がこちらを向く。
「勉強、教えてくれるんだ」
「君、ちょっとまずそうだったからね」
「うーん、確かに数学は、今のままだとちょっと厳しいかも」
実際のところはちょっとどころではない。
「まあでも私、文系に進むつもりだし」
「大学も私立?」
「え?いや、そこはまだ決めてないけど、多分国公立かな。うち、あんまり裕福じゃないんだ。ここに入ったのも、模試の結果が良くて、特待生になれる、って言われたからだし」
特待生だったのかよ。
模試の結果が良くて〜という部分が引っかかるかもしれないが、このあたりには高校入試にあたって確約制度というものがあり、つまり通知表と模試の結果のみでほとんど合格が決まるのである。入試で余程めちゃくちゃな点数を叩き出さない限りはそこから不合格になることはない。
特待生も同様一般入試の成績に拘らず完全に模試の結果のみを基準として選定されるので、燈華は入試を受ける前から特待生になれることが決まっていた、という話である。僕も同様だ。
以前話したように特待生にも段階があり、A特待はかなりシビアだが、Dであればそこまでの成績は要求されない。燈華がD特待であればその学力はそれなりに僕と開きがあるかもしれないが、それでも特待生全体で1クラスに満たない程度しか取らないわけで、そこまで難しいことを教わっているわけではない以上本来一ヶ月休んだ程度で躓くわけはないのである。となれば問題はその意識にあったのではないだろうか。
「……国公立を目指すなら数学は必要だよ」
「……本当?」
「本当」
これは半分嘘だ。
使うことはできる、という程度でしかない。志望大学あるいは学科によっては避けられない場合もあるが、逆に大学を選ばなければたとえ国公立志望であってもいくらでも逃げられる。
しかしながら、ある程度レベルの高い国立大学を受ける際には大抵どうしても必要になってくる。燈華ほど勉強ができ、かつ具体的な志望校が定まっていないのであれば、きっと勉強しておくべきである。後々どうにかする、といった真似がしにくい教科でもあるらしい。
であるならば、今から学んでおくべきなのだ。
「そ、そうなんだ……うう……嫌だ……」
そこそこ端整な顔が大きく歪むほどに、本気で嫌がっている。
燈華の数学嫌いは筋金入りであるらしい。
「中学の時は数学もちゃんと出来てたんでしょ?」
「そうだけど……もう二度とやらなくていいと思ってたのに……」
はたと気付く。
これはいかにも学生らしさに溢れた会話であり、いかにも青春といった雰囲気に満ちた他愛のない会話ではないだろうか。
勉強と青春というものは直接繋がらないと考えていたが、ただ友人のような間柄の人間と勉強のことについて話すことがここまでそれらしさに溢れていたとは。
僕は今感動している。思い返せば友人と勉強がどうのなんて会話をした記憶は一切ない。友人の少なさももちろんあるが、言ってしまえば中学以前はクラスメイトと勉強の話などしても仕方がないなという考えがあったような気もする。
学力の近い人間が集まる高校だからこそ生まれた会話であるのだろう。
燈華が困ったようにその白い首筋に手を添えて、頭を傾げながらこちらを見る。
「どうしたの?私、変なこと言った?」
「いや、感動していた」
「感動?」
「まあ、琴線は人それぞれというところだよ」
燈華は不可解そうに目を細めている。
表情を観察していると、尚のこと燈華の容姿を意識してしまう。
ここまで恵まれたものを貰っておきながら髪を異端と言っても過言でない鮮やかなオレンジに染め上げ挙句包帯まみれになってクラスで孤立するなどなかなか出来ることではない。
結局こいつが僕以外と談笑している場面をまだ一度も見ていない。
間の長い会話をしていると、六限の開始を告げる鐘が鳴った。
と、言っても今日の六限はLHRだ。授業ではない以上、誰も彼も気楽にしている。号令も心なしか適当だ。
担任でもある七峰ちゃんは五限に引き続きそのまま前に立っている。
「えー、今日は今度の校外学習についての諸々を決めてもらいます。校外学習、といっても内容的にはプチ修学旅行と言ったほうが相応しいくらいに気合が入っているんですけど」
初耳の行事だ。
大したものもないだろうと考えこの学校のことについてはあまり調べていなかったが、一年生の早いうちからそんな浮かれたイベントがあるとは予想外であった。
「まずは一緒に行動するグループを決めます。不安になったそこの君、安心してください。好きな人と組んでねなんて残酷なこと、私は言いませんから。くじ引きです。ほとんどランダムに決定されます。あんな辛い思いをするのは先生だけで十分です」
仲のいい相手のみと組めないことを知らされたからか、ブーイングが飛んでいる。
七峰ちゃんの過去に何があったのかは知らないが、その配慮は僕にとってさえありがた迷惑だ。クラスで唯一自然体で話せる相手である燈華と組めないのはかなり痛い。蒼山は、まあ元々僕とは組まないだろう。
新しい友人の開拓にはめちゃくちゃな量のエネルギーが必要とされるのだ。最悪旅行中一切会話しないことさえ予測される。
「静かに!」
七峰ちゃんの気合の入った怒号により教室は一瞬にして静まり返る。
七峰ちゃんが僕達の前でこうも声を荒げるのはおそらく初めてだ。余程嫌な思い出があるらしい。
「それではこれよりくじ引きの儀を敢行します。出席番号順に引きに来るように」
クラスが42人で、班の数が7。一班あたり6人が所属することになるようだ。
クラスの男女の数は完全に半々で、グループ内にも男女3人ずつということになるらしい。
となれば、僕が燈華と同じ班になる確率はシンプルに1/7だ。
1/7。決して有り得ない確率ではない。
まだ燈華と組めないと決まったわけではないのである。
僕は世の中大抵のことは努力と才能で決まると考えているのだが、こればかりは神に祈るしかないだろう。
グループの中に燈華さえいなかった場合僕のメンタルは大変なことになってしまうだろう。本当に頼むぞ神様。
強く念じると、不思議とどうにかなる気がしてきた。僕と燈華が出会ったのは運命であるとさえ感じてきたし、そうであるのなら同じ班になる程度のことは必然であると思えてきた。
きっと僕はなんだかんだ燈華と組めるのだろう。そういうふうにできている。
五分後。
轍の文字は聞いた覚えのない五つの名前と共に並んでいた。
思えば神に味方されたことなんてただの一度もなかった気がする。
運命なんて胡散臭いものが存在するはずもなかった。
「はい、じゃあこのメンバーで集まって、自己紹介をしてください!」
にこやかに七峰ちゃんが告げる。
末代まで呪ってしまいそうだ、というか七峰ちゃんで末代になるような呪いをかけてしまいたい気分だった。