一、恋をしよう ⑪
全ての物事には理屈が存在する。
有名な誰かがそんな事を言っていたはずだ。
僕も全くその通りであると考えている。
桶屋がその日普段より儲かったのはずっと前に風が吹いたためであるのだ。
然るに、僕が燈華の唾液に興奮していたことにも理由があるはずなのである。ただ単に雰囲気に飲まれたにしても、その雰囲気というものとそれが及ぼした作用とを具体的に分析出来るだろうし、そもそも僕のあの高揚には雰囲気などとは別の、もっと直接的な理屈があると思っている。
月曜六限、数学の授業中ではあるが、僕はスマートフォンでそれについて調べていた。
これは僕の生き物としての機能に関わることであり、一次不定方程式などよりよほど重要な事柄だ。
「はい、じゃあこの問題を……轍君、前に出て解いてください」
はい、じゃない。
急に生徒参加型の授業づくりを始めるな。
この教師は先週まではそんな指名など一切していなかったはずだ。
この数学教師は私立高校たるこの学校にしては珍しく、今年初めて教鞭を取るという若い女性であるので、試行錯誤しながら授業をしているのかもしれない。確か名前は七峰とかいったか。そう考えれば少し可愛らしいが、何もこのタイミングで変化球を投げないでほしい。普段なら別の事をしながらももう少しだけ話を聞いているのに。
「燈華、問題わかる?」
隣に座る燈華に小声で尋ねる。話せる関係になっておいて良かったと心から感じている。
「あの、私、数学元々苦手なのに、ずっと休んでたから、ついていけてなくて……」
この少女の頭の出来については評価していた部分があったのだが、授業についていけていなかったのか。まあ一ヶ月も休んでいればそうなるかもしれないが、普通授業進行度に合わせて入院中に勉強をしているものだと思う。
まあそれはそれとして、僕としては元々答えを教えてもらおうなんて考えで聞いたわけではない。
「いや、そうじゃなくて、問題番号」
「あっ、うん、56ページの練習5だよ」
それだけ聞ければ十分である。
黒板の方へと歩き、式を書いて戻る。
練習問題だけあって応用力を求められることもなく非常に簡単なものだった。前に出て解かせる意味はあったのだろうかとか、そういう程度のもの。周囲としても教師としても解けて当然であるという表情であり、何事も無かったかのように授業は進む。
今後こういうのは飛ばしてしまうべきだと新任女教師七峰ちゃんにアドバイスしておいたほうがいいだろうか。僕が指名される回数は少なければ少ないほどいい。
それで、以上を踏まえて問題になってくるのは、燈華の学力である。
この程度の問題がわからないというのは非常にまずい。特待生であるのかどうかは知らないが、そうであれば剥奪ものであるし、そうでないにしてもここが成績上位者を集めたクラスである以上何らかの措置を受ける可能性がある。
自力で何とかできそうでもあるが、最悪僕が手を貸すことになるかもしれない。人に教えるのはあまり得意ではないのだが。
「ずっとスマホいじってたのに、あっさり解いちゃうんだね」
考え事をしているところに燈華が耳打ちしてくる。
吐息が耳にかかり、こそばゆい。また変な気分になりそうである。
「……もしかして、分かってたのに教えなかった?」
「……ほんとにわからなかった」
可愛らしい意地悪でもされたのかと思ったが、嘘、という感じでもない。
そっちの方が問題である。
相当に声を抑えてはいるが授業中にいつまでも話していると咎められそうなので、端末上での会話に切り替える。
『中間考査結構近いけど、それまでに追いつけそう?』
『怪しい、かも』
『危なそうなら僕に言ってくれ、極力効率的に教えるから』
『! 勉強会!』
過去類を見ないテンションの文章が送られてきた。
勉強会というものに、期待か憧れか何かあるのだろうか。盛り上がっているところ悪いが、僕が教える側である以上決して楽しいものにはならないことを約束しよう。
『二人で会と言うのはちょっと厳しいかな』
『それもそうだね。とりあえず、今日の放課後に教えてくれない?』
早速か。
相当差し迫った学習状況であるらしい。
『今日は先約があるから、明日以降ね』
『先約……。もしかして、ミツルくんって、友達多い?』
『まさか』
節穴にも程がある。
まあ、燈華と比較すれば多いのかもしれない。葦葉をカウントするかどうかは置いておいて、糸森愛祇とは明確に友達であるという線引きが為されている。
そういえばあれ以降糸森からの連絡はないのだが、こちらから遊びにでも誘うべきなのだろうか。こういったコミュニケーションは経験がないのでさっぱりだ。
あるいは燈華の言うように勉強会でも開いてみるのも面白いかもしれない。テスト範囲に関して僕が教わる部分というのはないだろうが、数々の書物と一週間前の僕のフラストレーションの原因からして他人との交流というのはきっと人生を豊かにするはずだし、それに試験勉強以外の部分、例えば恋愛観や人付き合いなどにおける僕の知識、経験、理解というのは浅薄極まりない。勉強の息抜きにそういう話題を、というのも女子は好むようなイメージがある。わかりやすくwin-winの関係だ。
さて、少し話は飛ぶが、授業中に延々ネットサーフィンをしていた甲斐あって、僕が燈華の唾液を飲み込んで興奮していた理由というのは判明した。
理解した以上、少々恥ずかしい話ではあるが、あれは興奮、性的興奮であったと言い切ることにする。
あらゆる物事には理屈があり、それは恋であっても例外ではない、という話だ。
人はなぜ、キスをしたがり、キスによって興奮するのか。
考えたことはあるだろうか。
キスという行為は唇と唇を接触させ、あるいは舌と舌とを絡め合わせる行為を指す。今回はフレンチキスなどを除外し、特にディープキス、つまりまあ熱烈なものについて話すことにする。
人はどんな相手に恋をするのか?
これは簡単な問題ではなく、無数の要素が複雑怪奇に絡み合った非常に難解な問いだ。が、その要素一つ一つに着目すると、案外単純でロジカルな話だったりするらしい。
その要素の一つ、遺伝子型。
はじめに簡潔に結論を述べてしまえば、人間は自分とは異なる遺伝子型を持つ人間を好む傾向にあるのだ。中でもMHC型というものが重要になってくるのだが、今回の本質ではないので割愛する。
どこか国外の大学で行われたある実験を紹介しよう。
男女の学生各数十人に二日間同じシャツを着てもらい、その後異性のグループにその匂いを嗅いでもらうというものだ。当然合意の上行われるわけだが、少々退廃的な感じもする実験内容である。
被験者はそれぞれのシャツを嗅いだ後に性的興奮度を報告するのだが、それによって相手の遺伝子型が自分と異なるものであるほど興奮の度合いも高いという結果が出た。
つまり、人間は自分の遺伝子情報を伝えるフェロモンのようなものを発しており、それを嗅ぐことによって無意識下で遺伝子レベルでの相手との相性を判定しているというわけだ。
これは優秀な子孫を残すという観点から見れば非常に合理的な本能だ。
遺伝子型、そのうち特に免疫系の異なる相手との子供は、より強靭な免疫力を持って生まれてくることが期待されるからである。
キスの場合であってもこの理屈が適用される。
キスというものは、つまり唾液によって遺伝子情報を交換するために行われる、極めて実際的な行為なのである。
欲求と快感がそれに伴うのも当然だ。遺伝子情報を得るために欲求によって体をコントロールし、快感によって相性を体に教え込むという機能が僕らの脳に搭載されているのだ。
ここまで考えた上で、なぜ僕が燈華の唾液に興奮したのかという話にもう一度触れると。
僕と燈華の遺伝子、言い換えれば体の相性が良かったため、ということになる。
言葉にしてみるととてもいやらしい感じになる。
これは恋なのだろうか。
否。まだ恋ではないはずだ。
遺伝子的な相性がいいという、ただそれだけの話にすぎない。他にも相性の良い人間はいくらでもいるはずだ。ただ一人の運命の人、なんてロマンチックな話ではない。
本能的に惹かれ合う部分がある、というのは確かではあるが。
小声で呻いていると、燈華が心配そうにこちらを見てきた。
目を合わせられない。
合わせてしまえば、僕の中で何かが壊れてしまいそうな感じがした。
いや、しかし、僕は恋を求めている。
であるならば、きっと今、燈華の瞳を覗くべきなのだ。
燈華の方を向き、その瞳孔に焦点を合わせる。
あまり化粧が濃いわけでもないが、燈華の睫毛はやたらと長く、その橙に近い色をした目は人並みよりも大きい。
吸い込まれそうな瞳であると形容してしまって差し支えないだろう。実際どうであるのかは知らないが、僕には常に潤んでるように見えている。
端的に言って非常に魅力的である。目に限って言えばだが。
そのまま数秒すると、燈華の方が顔を赤くして目を背けた。
僕の方は思いの外なんともない。
唾液を飲み込んだ時と比べれば興奮は皆無であると言っても過言ではない程度だ。
結局恋には発展しなかった、ということだろう。
しかしながら、これは僕にとって大きな前進である。
自分から恋をしようとして一歩を踏み出したのだし、それに燈華の唾液には確かに興奮していたのだ。
相手が誰であれ、着実に、僕が恋に落ちる瞬間は近づいてきているだろう。
今度糸森の唾液も摂取してみたい、というのは少々変態的に過ぎるだろうか。
ダメ元でお願いしてみようかな。