4. 日常への帰還混乱
怖かった。其れを声に出す事は辛うじて堪えられたとはいえ、一切の恐怖を感じていないワケではない。寧ろ此処に夜涼が居なければ、震えた声はその言葉を発していただろう。
……尤も此処に夜涼が居なければ、あの2人に立ち向かう術は勿論、身を守る術さえない真音は、アスファルト同様、簡単に体を砕かれて物を言える状態でもなかっただろうが。
準達の言葉を思い出すに、明らかに夜涼に巻き込まれたのだろうが、助けられたのもまた事実である。此処は素直に礼を言うべきだろうか。
まだ先の光景による混乱から抜け出しきれないものの、何とか其れだけは考えると「夜涼」呼ぼうとした名前は、他ならぬ夜涼本人によって遮られた。
先程の冷たい表情は何処へやら。
真音に向き直った夜涼は明るい笑顔、今日1日だけですっかり見慣れてしまった表情を浮かべ、これまたすっかり聞き慣れてしまった明るく弾んだ声で。
「さあ、真音!邪魔者もいなくなった事だし、契約するっすよ!」
お馴染みの言葉を言い放った事によって。
其れで礼を言う気は完全に失せた。其れにしても。
「……いや、ちょっと待てって」
真音は額を抑え、片手は夜涼の前に言葉通り「待て」を示す形で差し出す。自然伏し目がちになってしまうものの、視界の端にはきょとんとした夜涼の顔が映り込んでいる。
まるで真音が困惑している意味が分からないと言わんばかりではあるが、其れはこっちの台詞だ。
会話内容自体は“普通”と言えなくても、夜涼は教室で真音を見付けて以来ずっと、契約を迫っていた。言わば夜涼にとっては“日常会話”の様な物なのだろう。しかし目の前でアスファルトが砕ける事といい、中学生程の2人組が当たり前の様に電線に立っている事といい。あそこまで明確に敵意を向けられる事といい。
全て日常とは言い難い。そんな、日常から遥かにかけ離れた事態に遭遇したからこそ、まだ真音の思考は半分以上混乱の中に沈んでいるのであって。
そんな、まるで何もなかったみたいに。普通の会話を交わす事なんて。
「目の前でアスファルトが砕けてんだぞ?それもガキ2人の手で。何でお前はそんな平然として」
言って真音は思い出す。
明らかにあの2人と夜涼は知り合い……と呼ぶには仲は険悪過ぎる様であったが、顔見知りと見える。夜涼にとってこんな事態、日常の1部に過ぎないのだろうか。
夜涼の言う契約とは、真音も此の世界に足を踏み入れろと、そういう事だろうか。
そんなのごめんだ。
夜涼の転校で齎された騒ぎだけでも辟易としているのに、此れ以上平穏を崩されたくはない。
きっぱり断ろうと真音は顔を上げて。
真音は息を呑んだ。
顔を上げた事で必然的に視界は先程より鮮明に夜涼を捉える。真音の言葉の意味が分からないとばかりに、きょとん顔のままの夜涼は真音の仮定が正しいと示している様で、平穏を守る為には近付いてはいけないと悟らせた。しかし、真音から言葉を奪ったのは、其処ではない。
確かに真音の眼前で砕けた筈のアスファルトは、其れが夢であったと言わんばかりに何時も通りの姿を見せていた。
夢。
そうであった方が納得出来る。夜涼に付き纏わられた事で幻覚でも見えてしまったのだろうと。
そう思えば夜涼が平然と、何事も無かった様に「契約するっす」と切り出した事も納得出来る。
深く追求せずに、夢で片付けてしまえば良かったのかもしれない。しかし真音の頭はまだ半分以上が混乱に支配されていた状態。そうした状況で此の光景を見れば、復活しつつあった思考も再び混乱側へと落とされ。
深く考えぬままに目にした光景と、其れに因る疑問を口にしてしまう。
「……なんで、アスファルトが戻って。だって、準とか維織とかいうヤツが、砕いた、筈……」
誰かに問おうとした呟きではなかった。思わず混乱の中、口から突いて出たと言った方が正確な、決して大きくない独り言である。
しかし其れは夜涼の耳にも届いており、今迄きょとんとしていた夜涼は、益々きょとん顔を深くするも、唐突に合点がいったとばかりに再び手を叩く。何時の間にか現れていた槍は、何時の間にか消えている。
「ああ!真音は戦い方が分からないっすもんね。此れが分からないのも道理っす。とは言え、こういうののお約束だとも思うっすけど、結界内の出来事は現実に反映されないんす。アイツ等は結界を張って攻撃してきた。だから現実のアスファルトは無事だったんすわ。尤も此れが人体にも有効かって言われると頷けないのが恐ろしいトコっすけどねぇ」
「結界……?其れに戦い方ってなんだよ?」
真音は当然の疑問を口にしただけである。勿論、結界という言葉自体はゲームや小説で見聞きしている。しかし其れは、其れも“内側で起きた事を現実世界に干渉させない”なんて代物は、あくまで創作物の中だけの話である筈だ。
夜涼が口にした「戦い方が分からない」という言葉にしても同じ。戦い方以前に夜涼達が何を“戦っているのか”さえ分からない。
確かな事は、分からないままに真音は其処に巻き込まれ、少なくとも準については真音の言い分など聞く耳持たず。真音を夜涼の相棒と判断し、倒そうとしているという事。
真音は殆ど何も分からずに巻き込まれた。だから、当然の疑問を口にしただけである。にも関わらず、夜涼は信じられないと言わんばかりの顔を見せ、周囲を注意深く見渡す。釣られる様に真音も同じ様に辺りを見たが誰も居ない。
其の事にか夜涼はほっと胸を撫で下ろすと、聞き慣れた明るい声とも、準達に投げた冷え切った声とも違う。周囲を警戒した様な抑えた声で切り出した。
「立ち話もなんだし、あまり聞かれたくもないから移動するっすよ」