2. 【急募】目の前でアスファルトが砕けた時の対処法
げっそりとした顔立ちで、真音は重い足を強引に動かしていた。
朝も通った、毎日通る登下校に使う道だと言うのに今は無駄に疲れる気がする。1歩を踏み出す度に足が埋まる沼の中でも歩いているような。延々と続く坂を登っているような。肩に掛かる鞄も朝と全く重さは変わっていない筈なのに、酷く重い気がした。
とは言え、その理由は真音自身よく分かっているのだ。
「こ、この、夜涼のヤツ……」
真音の仮説は正しかった。
教師の話も、夜涼に興味を持って話し掛ける女子の声も全て無視し、休み時間も授業も関係ないというような夜涼であったが、真音が授業中だと言えば少なくとも授業が終わる迄は夜涼も大人しくしていた。とは言えあくまで授業が終わる迄で、休み時間になってしまえば女子の猛アピールも無視して「契約しよう。契約」と真音に迫ってくる始末。
女子は女子でそんな夜涼を気にせず、「凍月くん、凍月くん」と黄色い声をあげるのだから、隣席の真音としてはたまったものじゃない。
今日だけで1週間、いや1か月分くらいは疲れた。放課後夜涼を撒けたのは幸運だった。これで放課後迄付き纏われれば、間違いなく疲労とストレスで今夜にも熱を出していただろう。
体力は今一つながら基本的な運動神経や瞬発力であれば引けを取らない己に、真音は初めて感謝した。
転校生という事は基本地理には疎い。であれば、スタートダッシュを決めてしまえば真音を追うのは不可能だろうから。
それにしても。
今日はこれで済んだが、これから先もこんな生活が続くのであれば耐えられないかもしれない。いっそ慣れてしまえば気にもならないのだろうが、こんな状況に慣れたくないと思う自分もいる。
何か対策を講じた方が良いだろう。ただ、今は疲労のあまり頭が回らないから、そう、家に帰って風呂に入って、一息ついてから……。
鞄も足も無駄に重い。
通い慣れた道のりも、無駄に長く感じられる。
それでも朝から今迄で漸く手に入れられた平穏を、今は少しでも満喫しようと今日だけで十何回目か分からない溜息を吐こうとして。
いや、溜息は吐いたのだ。それも今日1日の疲労と苛立ちを込めた様な、大きなものを。
にも拘わらずその溜息は、遥かに大きな音、ガッシャーンという、ガラスを割ったような、破砕音に掻き消された。
「なん、だ……?」
このへんにガラスなんてなかった筈。
疲れからか、そんなズレた事を考えながら真音はきょろきょろと周囲を見渡して、すぐに見渡した事を後悔した。
見渡さなければそれを、電線の上に平然と立つ2人組を見てしまう事なんてなかっただろうから。
足場として太くはない電線の上、まるで普通に地に足を着けていますと言わんばかりに平然と立っている2人組。見た目は中学生か高校生。どう見ても大人には見えない。どうやって登ったのか、いや、そもそも電線の上なんて子供が登って良い場所だっただろうか。
現実逃避も兼ねてそんな事を考えつつ、真音は結論を出す。関わったらいけない人種だ、と。
そうなれば目線を2人組から逸らし、平然と歩みを再開させるだけ。家に帰って、ワケの分からない2人組の事なんて忘れてしまえば良い。こちとら夜涼の事で手一杯なのだ。
しかし、そう上手くいかないのが人生であり、こうした状況で気付かれてしまうのがお約束である。
それは季節外れの転校生である夜涼が、ぶっ飛んだ人間であった様に。
「なあ、お前、凍月の相棒だろ」
「違います」
即答した。
しかしこれも夜涼の所為なのか。夜涼が原因なのか。ふつふつと内心の怒りが沸いてくる。人間疲れが度を越せば怒りに還元されるのかもしれない。
「準、違うって」
「ん、維織は素直ないい子だな。でも維織? 悪い事したヤツが“自分がやりました”って素直に言うと思うか?」
「うーん……。言う、かも?」
「みんながみんな、維織みてぇな性格なら世界は平和なんだけどな」
……帰って良いだろうか。
和気あいあいとでも言うように2人の会話を始めてしまった頭上の2人組を見上げつつ、真音は思う。
良いだろうと判断する。彼等の会話から探しているのは夜涼の相棒とやらだ。また夜涼の事で厄介事に巻き込まれたというのは苛立たしいが、夜涼の相棒じゃない真音には無関係の事。
そもそも平然と電線の上に立てるような人間に知り合いはいないし、知り合いたくもない。
自然止まってしまっていた足を再度動かそうとしたところで。
爆音。
目の前の地面が抉れた。
「……?」
事態が呑み込めず茫然とした真音を誰が責められるだろう。
ホラー映画にせよ、パニック物にせよ、「突っ立ってないで逃げろよ」と言えるのは安全圏にいる者にだけ許された特権である。巻き込まれれば大小の差こそあれ思考は止まるし、即座に行動なんて出来はしない。
そもそも目の前の地面が抉れたのだ。逃げようにも道はないし、では元来た道を戻るかと言われれば、人間の本能はあの光景を見て尚、歩き出そうとする程、向こう見ずには出来ていない。
「でもな、維織。世の中には嘘つきもいっぱいいるんだ。維織はオレの言葉以外疑う事を覚えた方が良いぜ」
「じゃあ、この人は凍月の相棒?」
「だろうな」
「じゃあ倒さないと、だね」
にこ、なんて。
勿論真音に対してではなく、準と呼ぶ相方に向かってだろうが可愛らしく笑いかけた少年の手にはいつの間にか大鎌……小説や映画で死神が持つソレが握られている。
なんだ。
なんだよ、これ!?
逃げなくてはと思う。思うが、どう逃げれば良いのだろう。目の前の地面は、アスファルトは、抉れている。軽々と、手で触れる事もなくアスファルトを抉ってしまう2人組相手にどう逃げれば良い!?
冷静な状態でも答えの出ない問いに、パニック状態で答えを見付ける事は難しい。考えれば考える程ドツボに嵌り、最悪の手を打つのが目に見えている。
じゃあ何が出来るのか。会話。無理だろう。片方にはまだ通じそうであるが、その頼みの片方も相方の言葉を最優先してしまっている。維織にとって準が黒だと言えば、黒なのだろう。
そこまで考えた真音に出来た事は何もしない事だった。とは言え、無抵抗である事を示し、「オレは凍月夜涼と何の関係もない」と訴えようとしたのではない。
何もしない事を選択したのではなく、ただ何も出来なかったのだ。
強いて言えば。
酷くゆっくりとした動きに見える、維織が大鎌を振り上げ、振り下ろす動作を。
間違いなく夜涼の所為だろうこの状況について、今は此処に居ない夜涼に文句を言う事くらいだった。「てめぇ、オレを巻き込みやがって」と、そんな風に。情けなくも内心で、だけ。
アスファルトを抉る程の衝撃が体を襲うのは、どれほどの痛みなのか。或いは痛みなんて感じる暇もなくお陀仏か。
それでも本能は差し迫った脅威に反射的に目を閉じて。
「何やってんすか、アンタ等」
しかし聞こえたのは地面を抉る音でも、自分の骨が砕ける音でもなく。
痛みが襲う事もなく。
あれだけ付き纏われた今日1日の中、真音が聞く事はなかった酷く冷え切った、夜涼の声だった。