妄想探偵裕美子
妄想探偵。巷の人々は私にそういう二つ名を付けた。些か安直なネーミングセンスである感じは否めないけど、間違ってはない。そう、だから名前の方は問題ない。問題なのは客が私に求めることだ。もちろん、探偵という仕事の中で大きい事件も小さい事件もあった。個人的な事件から国家を揺るがす陰謀まで、ありとあらゆる依頼を解決したことがある。大きい事件はいい。私はその事件を解決し、その見返りとしてさらに名を馳せ、どんどん有名探偵として上り詰めていく。しかし、小さな問題はどうだろう。それはつまり、超個人的で宣伝効果の薄いものだ。最近の依頼はそんなのばかりで、あまりに小さい依頼は断ろうかなぁ、とも考えている。
依頼主が事務所の電話をけたたましく鳴らしたのは、そんな小遣い稼ぎを大事にする精神と名探偵としてのプライドを大事にする精神が拮抗するまさに時だった。
『依頼だ。今すぐ郊外のストリームベイホテル111号室に向かへ。どんな事件かは行けば分かる。報酬金額はあんたが提示する金額の二倍を送る』
高圧的な物言いをする男性の電話回線に乗ったその声は、それだけ言ってすぐにガチャリと切れた。最初は悪戯電話のようにも思ったけど、私が提示する金額の二倍という言葉が頭の中でちらついて、すでにアルコールの入っていた私にカーキのトレンチコートを羽織らせ、車のエンジンを始動させた。
それがつい三十分前。指定されていたホテルの外装は寂れた感じのラブホテルであまり客入りが良さそうには見えない。構造はいわゆるモーテル式でワンガレージワンルーム。111号室には駐車されていなかったので、遠慮なくそこのガレージを使わせてもらう。手首を裏返すようにして時計を確認すると、時刻は今日になって十分経つか経たないかというところ。早く解決して、帰ってから晩酌の続きをしよう。
幅が狭く一段が高めの階段を上がって部屋に入ると、入り口のドアはオートロックで施錠される。思えばラブホテルは初なので勝手がよく分からない。元々こういう空間が何となく好きじゃないから、旦那に誘われても断っていた。入ってすぐの左手の壁に精算機が埋まっていて、右手に伸びる細い通路は数メートル先で左に折れ曲がっている。これは仕事、とアルコールが入った自分をしゃんとさせて通路を左に曲がる。部屋の内装に私のイメージは大きく裏切られた。ハートだらけのピンク部屋じゃない。綺麗で落ち着いた雰囲気の和モダンの部屋で、間接照明が絶妙な薄暗さを演出している。白い砂利に並べられた四角い飛び石を歩くと、両側が縁側っぽい造りになっていて、右側にはアメニティグッズが豊富に置かれた洗面所とガラス張りのお風呂、トイレらしき扉。左側にはぴっちりとシーツが張られた大きめの布団、向かい合って座れる小さめのイスとテーブル、テレビがある。でも、誰もいない。行けば分かる、なんて豪語してたけど、流石の私も起きていない事件を解決することはできない。
考えた挙句、私は数分そこで待つことにした。というか待たざるを得なくなった。この部屋は、一度部屋に入るとお金を精算機に入れなければ部屋のロックが解除されない仕組みで、本来ならすぐに依頼を完遂してぱっぱと帰るつもりだったから手ぶらで来てしまったのだ。つまりは閉じ込められたことになる。そういうわけだから、私はふかふかの大きな布団に寝転がって、大型テレビを茫然と見ながらザッピングする。途中でそれに飽きて、メニュー票を読んでいたら、ウェルカムドリンクは二杯までサービスだったから、テレビで違う味のサワーを注文してみる。待っていると、その二つが届く前に入り口のドアが開く音がした。
まずい。コートを玄関にあったコートラックに吊るしっぱなしだ。今の私は普段家で着ているピンクのパジャマ姿。咄嗟に考えて、洗面台の下の籠に入っていたガウンを掴み取って羽織る。
帯を締めつつ洗面台から顔を出すと、飛び石の上できょろきょろしている女性と目が合った。暖色系のツーピースを着たその女性はまだ初々しく見えるくらいに若く、長い黒髪や薄い化粧から清楚な印象を受ける。まるで初デートの待ち合わせ場所にやって来た彼女みたいだ。
「こんばんは。えっと、ご指名してくださったのはあなた?」
私は、綺麗な人だなぁ、と見惚れていたせいで一瞬だけ反応に遅れて、首を横に振った。どうやら彼女はデリバリーヘルスの方らしい。
「なら、あなたも呼ばれて?」
こちらの質問にも同じ反応。まあ、呼ばれたと言えば呼ばれたわけだから間違いじゃないけど、私は探偵として呼ばれたから彼女と同性でも同職ってわけじゃない。
「いえ、私立探偵をしている犬養裕美子と申します。以後お見知りおきを」
「初めまして。ゆきって言います。……えっと、探偵さんが来てるってことは何か起こっているんですか? もしかして、私をご指名した方に何かあったとか」
「いや、実を言うと私もよく状況が分かってなくて。一旦出ようとしたのですが何せ手持ちのお金が……」
「持ってらっしゃらない?」
ゆきさんに言われた途端、急に恥ずかしくなる。お金が無いなんて、まるで私が少ない収入で細々と商売をしている落ちこぼれ探偵みたいなマイナスイメージがついてしまう。
慌てて訂正しようとしたけど、ゆきさんは入り口の自動精算機の方に行ってしまった。ここはこのホテルに慣れている人の方がいいはずだから、私は黙って、ゆきさんがお金を投入する後ろ姿を眺めていた。私が男性だったら、女性に払わせるようなことをしたら情けないぞ、と戒めながら。
すぐに、ドアが解錠されたような鈍い金属音がした。ゆきさんがドアノブに手を掛ける。
「あれ……」
開かない。いくら押しても開かない。ゆきさんはお金を財布に戻して、ベッドの方に戻ると内線電話を耳に当てて電話を掛け始めた。でもすぐに受話器を戻して「繋がらない」と呟く。自分のスマホでこのホテルに掛けたがそれも繋がらないようだった。そういえば、オーダーしたウェルカムドリンクも来てない。この部屋は、今誰とも繋がれない状態にあるらしい。
万策尽きたとゆきさんは意気消沈気味。ベッドの上で項垂れるゆきさんを間接照明が作り出す薄暗い空間がさらに魅力的な人に見せている。私の脳がポジティブにその容姿を解釈しているのだ。もちろん、ゆきさんは普段の状態でも十二分に魅力的な方だと思うけど、見えにくいというアクセントがゆきさんを非の打ち所がないほどの美女に仕上げている。もし私が男だったら絶対にお金を払う。
「ダメでした。……あの、何か別の方法は思いつきますか? 一時を過ぎると宿泊料金になってしまって、お値段が吊り上がるんですけど……探偵さんなら何か思いつきませんか?」
そうだ。今こそ探偵の真骨頂を見せる時だ。こういう時に推理を光らせなくてどうする。それに、探偵が密室に閉じ込められて出られなくなったなんて恥さらしもいいとこだ。
私は腕時計を確認する。現在十二時五十二分。完遂までの手がかりは少なく、時間は更に少ない。
「心配しなくても大丈夫です。私は妄想探偵、あらゆることを完遂します」
ぽかんとした顔になったゆきさんは、若干以上に呆れているような表情になったけど、それは仕方ない。天才は理解されにくいものだ。妄想を使うのならそれは尚更。そんなのは日常茶飯事だから気にしない。ドアが開くころには、呆れ果てていた自分に後悔することになるはずだ。
さて、ここからは私の仕事だ。
「裕美子、起きてる?」
「もう寝るけど、まだ仕事?」
「そうそう。ちょっと付き合って、こういう場所は得意でしょ」
「得意って、人を遊び人みたいに言わないで。あなたが遊び人を望んでるだけでしょ」
「もしくはあなたが今の私の姿を望んでいるのかね」
「もう、その話はどっちでもいいっていう結論になったんだから蒸し返さないで。で、仕事っていうのは」
そっちが先に蒸し返したんじゃん、とは言わないでおく。本題に入ろうとする頃には、私の前からホテルの部屋は消え去っていて、明るい日の差す植物園にいた。逞しい木々が私たちを囲み、横の通路を一列に並んだペンギンの観光客が通り過ぎていく。私たちはハーブティーの入ったカップが置かれたテーブルを挟んで座っていた。
「今ラブホテルにいるんだけど、閉じ込められて出られなくなってる。清算してもドアは開かないし、フロントへの内線電話も繋がらない。スマホでもダメ。ジャミングが掛けられてるみたいで使えない。完全な密室状態。部屋にいるのは私と、ゆきさんっていうデリバリーヘルスの人だけ」
「ヒントそれだけ? それだけで私にそこから脱出する方法を考えてって? 冗談でしょ」
「いや、ほんと。職業柄なのか恨みを買いやすいから、そういう監禁系の嫌がらせもあるの」
頭を抱えて盛大にため息を吐くもう一人の私。項垂れちゃってる彼女を上目遣いで見ながらハーブティーを啜る。何度か唸って、眉間に皺を寄せたまま顔を上げた。
「まず怪しいのは、そのゆきさんって人。その人が何なのか分からない。ほんとにデリヘル?」
言われてみれば確かに。というか、怪しいとは私も思っていたけど、それはあまり考えないようにしていた。だって、ゆきさんは私への嫌がらせに加担しているのかそれとも本当にデリバリーヘルスの方なのかの二つに一つ。もし本当にデリバリーヘルスとして呼ばれたのなら、この二人しかいない密室で敵を作りたくない。疑って関係を不仲にするのは容易だけど、脱出の協力者となってくれるのなら信頼関係が必要だ。特にお金の面で。
「その顔、考えてること分かるから。あなただし。それで、ならどうするの? ドアを破壊して外へ出る?」
私の鋭い眼光が私に刺さって、私はペンギンの方へ目を泳がせながらカップを最大限に傾けて飲み干す。解決方法を丸投げしようとしてるのもきっと見透かされてる。
「言っておくけど、この密室は単なる悪戯なんかじゃない。挑戦状、いや、私たち妄想探偵への愚弄と言って差し支えない」
つまり、私はこう言いたいのだ。妄想なんてものは卑しく最低なことだ、と言われていると。このラブホテルはその体現で、この空間自体が妄想の虚しさ。ゆきさんで自分の欲望を思いのままに叶えられるというのが、妄想のことを表しているのだ。極めつけに、妄想で時間を浪費すればするほど無駄だと、吊り上がる料金システムで分かりやすくそれを示してくれている。ラブホテルという空間が私の妄想そのもので、監禁というこの状況が、私が妄想に囚われていることを迂遠に伝えている。敷衍のためだけにこんな大掛かりで回りくどいことをするなんて、私を閉じ込めた奴は暇人に違いない。小人閑居して不全を為すとはまさにこのことだ。
「たしかに。これは妄想探偵の沽券に関わる一大事。ちょっと考えてみるとしますか」
「それじゃ、もう行くから。いいところをほっぽってきちゃったんだから」
一口も手を付けてなかったハーブティーを一口で飲む。私はごくりと喉を鳴らして、立ち上がると足早に去っていった。いいところって、寝るってそういうことね。また若い男の子でも誘惑したに違いない。まあ、彼女の不埒な性観念をとやかく言うつもりはないけど。
さて、戻るか。席を立つ。剥離していく植物園を眺めながら、私は目を開けた。私は壁に寄り掛かっていて、ゆきさんはつまらなそうにテレビを見ている。
私はテレビとゆきさんの間を素通りして、洗面台で顔を濡らした。心地よい冷水をフェイスタオルで拭きながら考える。
妄想の中の私が言っていたことには同意だ。ゆきさんは実際怪しいと思う。そしてこの空間が私の妄想そのものを表しているんだったら、ドアを挟んだ外は現実という意味だ。私は現実と妄想の科学的な見解はまったく分からないけど、実感としてその二つの境界の線引きはできている。そしてそれを行き来するのは容易なことだ。だったらこの部屋から出るのも容易ということになる。このラブホテルという空間において、もっとも怪しいのはゆきさんじゃない。現実と妄想の境界線を定義する入り口のドアだ。
私は入り口まで行って、ドアを眺め納得する。
ゆきさんが押し開けようとしていたこのドアは内開き。押したら絶対に開かない。日本の建築物における玄関は一般的に外開きが多いけど、このホテルの入り口はガレージに場所を取られているせいで、階段が狭く上り下りがしにくいから、ドアが内開きになっているようだ。
ゆきさんを玄関に呼んで、その入れ違いでガウンを脱ぎ捨てコートを着る。ゆきさんに清算してもらって、私たちは部屋から脱出した。
「こんばんは、妄想探偵」
私の車のボンネット辺りで人の影が動く。辺りは暗く顔は見えない。
「もう少し早く出てくるだろうと予想していたが期待外れだったな。妄想探偵も所詮はその程度。妄想なんてくだらないもので時間を潰すクズだ」
声質や口調からして電話の男だと判断できる。人を見下すような物言いは電話の時と変わらない。
私はため息を吐いた。吐き出した部屋の匂いが夜に溶け切って、冷たい夜気で胸を膨らませる。今日は、家にトンプソンマシンガンを置いてきたのが悔やまれる。だから代わりに、護身用としてコートに忍ばせていたコルトガバメントの銃口を男の額にくっつけた。もちろん、おもちゃのやつを。
「二度とこんな悪戯してくるな。分かったらどっか行け。理解できてないようならここで殺してやる」
暗くても、この至近距離なら流石に何を向けられているのか気づいたらしく、男は身震いする間も惜しいかのように逃げ出した。ゆきさんもそれを追うようにしてどこかへ消えてしまった。
妄想をくだらないものだと思ったことはない。それは私が妄想探偵だからというわけじゃなくて、もし私が妄想探偵でなかったとしても確実に妄想はしていたはずだ。妄想は多くの場合、客観的に見て無意味な行為のように思われる。妄想探偵として依頼が入る今でも、私が妄想をすることで事件を解決するのにケチをつけてくる奴も少なからずいる。でもそれは気にしないと決めている。さっきの手の込んだ揶揄だっていちいち気にしていられない。妄想は探偵という仕事の為に利用しているのではなく、妄想そのものが私の生き様なのだ。他人が私をどう言おうと、どう見ようと、私はこの妄想と共に生きる。他人に私の行く道を踏み荒らさせはしない。
私はキーで車のロックを解除して乗り込む。窓を開けて、ダッシュボードに入っているシガレットケースから煙草っぽい見た目のラムネを一本口に咥えて車を出す。
早く帰って飲み直そう。今日は、妄想を夢に昇華できるくらいの酔い方ができる口当たりのいいお酒が飲みたい。
読んでくださりありがとうございます。