幼馴染に勝てない
玄関から入る、足取りは軽い。鼻歌が混じりそうなほどに。
「こんにちはー。おばちゃーん、いちこいる?」
「あらかなちゃん。壱子なら部屋にいるはずよ」
「わかった、ありがとう!」
生まれたときから行き来している家だ。自分の家ではないが勝手は知っている。むしろ自分の家よりも詳しいのではないかと時たま思うことだってあるのだ。迷うことなく軽やかに階段を上り、階段から左へ向かい、二番目のドアの前に立つ。かわいらしい花や小動物が描かれているプレートには、小さなアルファベットの形を象った木製ブロックが「ICHIKO」の順に並んでいる。壱子と奏太が小学生の頃に一緒になって作ったものだ。壱子が今もなお使い続けてくれていることに、思わず表情が緩む。
持っていたプリントには、数学の問題が載っている。どうしても解けない問題があり、聞きに来たのだ。奏太のテストの順位は学年でも真ん中より少し上程度のものだが、勉強は嫌いではない。それに毎度好成績を収めている幼馴染と、会話ができるというのもうれしい。高校に入ってからは、話す時間もめっきり減ってしまった。それでも幼馴染とはいえ男女の差がある二人が、生まれてからここまで関係を続けてきたのも珍しいだろう。
軽めにノックを二回。部屋の中からは、聞き心地の良い「誰?」という声がする。
「いちこー。俺だよ、奏太だよ。ちょっと数学でわからないとこあってさ、教えてくんない?」
「なんだ、かなか。いいよ、入っても」
ふっ、と安心したような息がドア越しに壱子からこぼれた。許可をもらった奏太は、よっしゃ、と心の中でガッツポーズをしながらも、平静を装ってドアを開ける。
「失礼しま……」
すぐさま、その平静は崩れるのだが。
「悪いね、すぐ終わるからちょっと待っててくれ」
「なっ、えっ、ちょ、」
ドアを開けると、幼馴染がいた。申し訳なさそうに笑う表情は、かわいらしい。肩より少しだけ短い髪が、さらりと揺れる。その下には、水色のレースを控えめにあしらった白い清潔感のある下着と、大きくはないが美しい形の胸があった。腰は細いわけではないがしっかりとくびれており、その下には余分な脂肪のない細りとした太ももがある。幼馴染は着替え中だった。それも、身に着けているのは下着のみ。
「きっ、きゃああああああああああああ!!」
閑静な住宅街にそぐわない、悲鳴が響く。叫んだのは、下着姿の壱子ではなく、奏太の方であった。
*
「いちこ!!俺は、男です!」
「…何を今更。知ってるよ、そんなこと」
「知ってるならなんで着替え中に男の俺を入れたのかなぁ!?俺男!いちこは女!」
「別に減るものでもないし。部屋の外で待ってもらうのも申し訳ないだろう?」
「ぜんっぜん苦にならないから部屋の外で待たせてくれる!?」
はぁはぁと肩で息をしながら怒涛の勢いで突っ込んでいく奏太に、しれっと何事もなかったかのようにふるまう壱子。もちろんすでに壱子はゆったりとしたパーカーと短パンの部屋着に着替えている。奏太の耳は、いまだ少し赤い。
「水着も下着も変わらないじゃない、水着見た、くらいに思っとけば?騒ぐことでもないでしょ?」
「違う、そうじゃない。」
昔から壱子はこうだ。変なところで男前というか、さっぱりしているというか。さらに自分には頓着しない上に、他の女子にはとても優しく、そのへんの男より紳士的だ。この性格と、中性的な顔立ちから、壱子は女子からの人気がすさまじい。
奏太は顔のつくりだけなら所謂イケメンと呼ばれる部類ではあるものの、この上ないヘタレである。幼馴染が好きなくせに告白はおろか、自分の恋心に気付いた時点から壱子の顔を見ながら話すことができなくなってしまった上に、話す頻度も自分から減らしてしまう程度にはヘタレだ。話す機会が減ったのは、奏太が自分の気持ちを隠すのが下手すぎて、速攻で周りのクラスメイトに恋心が知られてしまったからである。その結果、にやにやとした表情で冷やかしてくるクラスメイトの前では羞恥心が勝り、話すことがほとんどなくなってしまったのだ。その上幼馴染がこうも男前だと、その顔のつくりの影も薄く、びっくりするほどモテない。壱子に恋心を抱いていることが周知の事実であることも、奏太がモテないことに拍車をかけていた。
そんな評価の奏太だからか、この前など「お前ごときが壱子さんに近づいてんじゃねーよ」と校舎裏に連れていかれ、素晴らしい威力の壁ドンとともに吐き捨てられたのだ。女子の集団に。自称壱子親衛隊の会員の皆様らしい。男女の立場が逆じゃないのかと思いつつ、その時は恐ろしくて何も言えなかった。なんせ壁にひびが入るほどの勢いだったのだ。いろんな意味で怖くて教師にも報告していないため、いまだひびが入ったままである。なお、そのひびが原因で、校舎裏が不良のたまり場になっているという噂になっていることを奏太は知らない。
「嫁入り前の娘さんがそんな意識の低さじゃダメだろ!?」
「かなは父さんみたいだなー」
「話をそらさないっ!大体、危機感ってものがなさすぎんだよいちこは!幼馴染とはいえ俺は健全な男なの!」
「…別にかなに見られたところで。見慣れてるだろうし」
「違う、そうじゃない。」
短時間に二度目のセリフである。たしかに壱子と奏太は付き合いがそれこそ生まれたときから続いており、アルバムを見れば二人でお風呂に入っていたり、裸んぼうでプールに入っていたりとなぜか幼少期の全裸の写真が多い。しかしそういうことではない。二人はもう高校三年生。あとひと月もすれば、奏太も無事十八歳を迎え、結婚ができる年齢となる。幼少期と比べてはいけない。はぁ、と精神的な疲れを伴ったため息が無意識にこぼれた。が、壱子の何気ない一言が奏太のため息すらも奪う。
「それに…どうせかなが嫁にもらってくれるんだろ?なら問題ないさ」
さらりと何事もなかったかのように落とされた一つの爆弾。爆弾というには少々威力が強すぎたように思うその言葉に、ぴきりと固まる。
「な、な…」
わなわなと震えながら絞り出した声は、言葉にならなかった。頬や耳が徐々に熱を持つのを自覚した。
「周りが気付いているのに、私が気付いてないわけないだろうが。むしろもらってもらわないと困るんだけどなぁ」
「いっ、いつから…!?」
やっと絞り出した言葉は、情けないことに震えていた。すでに顔どころか首やその下すらも熱を持っている。
「ん~…だいぶ前、としか。私もかな以外の嫁になるつもりはなかったしな」
衝撃的な事実にぐらりと体が揺れる。沸騰という言葉がふさわしいほどに、熱い。顔から湯気が出ていないか心配だ。
「でも、だって、俺、ヘタレだし、いいとこないし、あの、その…」
「かなのいいところなんて、かなより知ってるよ。いつからの付き合いだと思ってんの?」
カラカラと笑う壱子の言葉に、くらくらする。決してかなうことがないと思っていた恋心だった。なんせ、女子に人気なのは有名だったが、男子にだってそれなりに人気はあったのだ。自分が持っているのは幼馴染だというカードだけ。かなわないなら幼馴染として仲良く過ごすのでもいいかな、と半ばあきらめかけていたのだ。ヘタレゆえに。
「大体、私を女の子扱いするのなんて、かなくらいだろう?優しくて、いつも私のためを思ってくれている、かなのことが好きだ。結婚しよう」
色々と順番をすっ飛ばしているが、男前すぎる発言の前に、奏太は速攻で「不束者ですがよろしくお願いします」と答えるしかなかったのだった。
本来の目的であった数学の課題プリントは、その後次の日の授業開始直前まで忘れ去られ、奏太が無事課題忘れのペナルティを食らったあと、壱子の部屋で発見され、持ち主のもとへ返ったのだった。
なお、一ヵ月後の奏太の誕生日に壱子と奏太の両親から婚姻届がプレゼントされたことは、余談である。