橋の下で拾われてきた子供と異世界転生
「お前は本当はうちの子じゃない。近くの川の橋の下で拾ってきたんだ」
そんな事を言われた経験のある人は少なくないのではないだろうか?
もちろん実際に拾われてきた子供だという訳ではなく、子供に対するある種のジョーク、または「あのまま私たち(両親)が拾ってこなければ、お前は死んでいたかもしれないんだから、いい子にしなくちゃいけないよ」と言う戒めを含んだ言葉なのだと思われる。
これはアジア周辺で広く一般的に使われるジョークらしいのだが、私はちょっと引っかかる。
なぜ「橋の下」なのか。
別にヨーロッパみたいにキャベツから生まれた赤ちゃんを拾ったでも良いはずだ。
うちの親のように「お前は百均で買ってきたから出来が悪い」でもいい。(いや、良くない:反語)
それが何故か日本全国津々浦々、何処に行っても大概は「橋の下」で拾われているようなのだ。
橋の下とはちょっと違うが、川で拾われた子供と言うと「桃太郎」がある。
これは有名な話だけ有って色々と研究されているのだが、この上流から大きな桃が……って言うのはどうやら貴種流離譚の一形態であり、まぁ有り体に言えば厨二病的な「庶民に育てられてるけど本当はすっごい貴い血筋(または、すごい能力を持つ英雄)」と言う設定を簡単に付加できる設定な訳だ。
さて、それを踏まえて、なろう的にこの問題を考える時、「橋の下」と言うのはどういう意味を持つのか。
橋の下。
それは人々の住む普通の世界(此の世)である橋の上と、太古から異世界であると信じられている水の中の世界(彼の世)の中間にある、謂わば異世界の入り口を表現していると思われる。
異世界のチート能力を持った子供、つまり異世界転生者。
それが「橋の下で拾われてきた子供」の正体である。(断言)
親としても、自分の子供が何の才能もないただの子供と言うよりは、チート持ちの転生者であったほうがまだ夢があるという心の一つの現われなのかもしれない。
たとえ転生前が童貞キモオタニートであろうとも。
スサノオ神話から脈々と続くこの川に捨てられた貴い子供。
これを子供に話して聴かせるということはつまり「お前は私たちが育てているけれど、本当は高貴な血筋(または、すごい能力の持ち主)なのだから、ちょっと頑張れば勉強も運動も出来るよ、頑張れ」と言うエールでもあるのだ。
そういう意味では「百均で買われてきた子供」には、何の期待も感じられないのだが、これはどうしたものか……。
――閑話休題。
ということで。
「お前は本当はうちの子じゃない。近くの川の橋の下で拾ってきたんだ」
この言葉は、子供を虐待するような言葉ではない。
親の期待といい子に育って欲しいという願いが込められた、優しい言葉なのではないだろうか。
百均で買われてきた私は、そう思うのだ。