冠那ノ都へ
冠那。香古の帝都であるそこは、凛のいた村とは比べものにならないほど賑やかで、物の行き来が盛んであった。先が見えないほどの人の多さと、客を呼び込もうと声を上げる店主。道を挟んで左右にある店には、凛が見たこともないような物が並んでいた。飴玉のように透明で美しいかんざしや、春の花々のように色とりどりな染布。食欲をそそる香ばしい匂いと、漂う甘い香の匂いが混ざる。
「すごい……」
雲一つない晴天。うららかな春の陽気が凛を包む中、凛は視線をどこに定めたらよいのか迷いながらつぶやいた。
凛は冠那にいた。村から約一月、とうとう冠那に行きついた。そうして初めての帝都、冠那で目にしたものは、自分の想像が及ばないほどの喧騒と誘惑の都だった。
凛は被っている三度笠を手で押し上げ、視界を良くし辺りを見回す。もの珍しそうに人々が行き交う道で立ち止まり観察する。そんな凛を人々は器用に避け、日常を送る。
「多いな」
凛の横で立つコトノハが、自分の体を通っていく人々を見て言った。しばらくは凛と並ぶように立っていたコトノハだったが、人々が鬱陶しくなったのか宙に浮き、凛を見下ろした。
「コトノハって本当に誰にも見えないし誰にも触れられないんだね」
一度コトノハに目をやってから、凛は前へと進みだす。
コトノハが人の目に認められない存在だとは信じていないわけではなかったが、目の当たりにするとやはり不思議だ。
凛は羽織った黒い引廻し合羽を蝙蝠の羽根のように風になびかせ前進する。
「まずは手紙の差出人を探さないと」
凛は懐にしまい込んでいた手紙を出し、紐を解いて中を見る。
「差出人は多喜っていう人みたい」
凛は名前を確認すると手紙をしまい、左右を眺める。
「どうやって探す」
コトノハの言葉に耳を傾けながら、凛は一つの店に視点を定めた。
「聞く」
凛はそう言うと視線の先にある店の方へと一直線に進んでいく。慣れない道を歩き、何度も人にぶつかりながら目的の場所を目指す。凛が進み足を止めた店は、香ばしく焼かれた動物の肉が置かれている店だった。紐につるされた肉の光沢が口の中で広がる甘さとうまみを想像させた。
「すみません。お尋ねしたいことがあるのですが」
凛は店の前に立つなり、笑顔一つ浮かべぬ顔で店主に声をかけた。
「ああ? なんだお前さん。旅の者かい」
返事をしたのはたすきで袖を縛り上げ、固く強そうな筋肉を露出させた、強面の店主だ。男は髭が伸びる頬についている傷を掻くと、凛の方を見下ろしてきた。
「はい。お尋ねしたいことが――」
「だったら俺の店の肉を買っていきな」
店主は凛の話を聞く間もなくそう条件を出してきた。店主は立派な剛腕を組むと、笠に隠れる凛の目を覗いて言った。
「買ってくれりゃあ話を聞いてやる。俺の店の肉はうめぇぞ。俺が今日の朝狩ってきた肉だ。一つ二仁だ」
男は歯を揃えて笑った。
凛は少し考え込むと、腰にぶら下げていた茶色袋に手をかける。
「凛。何もこの男に聞くことはない。他をあたろう」
左隣に降りたったコトノハに、凛は一度視線を流してから小さな声で言った。
「いいの。丁度お腹もすいていたし」
「だからこの店を選んだのか」
「……」
凛は無言でコトノハを睨むと、麻袋の中から銀のお金〝仁〟を二粒取り出した。
「じゃあこれで肉を一つ――」
凛がお金の入った袋を左手に持ち、右手に握った二仁を店主の方に差し出すと同時に、一人の子どもが凛にぶつかってきた。その子どもは凛の方に強く体重をかけてきたと思うと、凛が左手に持っていた麻袋を奪い取る。
「!」
凛は尻餅をつき倒れる。すぐに子どもが走り去っていく方を見たが、人が多すぎてその子の事を見つけ出すことが出来ない。凛が立ち上がり子どもが逃げていった方に向かって走り出すと、宙に浮いていたコトノハが指をさした。
「あそこにいるぞ」
凛はコトノハが指さす方を確認すると、そちらに向かって足を進めた。人の多さに慣れていない凛は上手く人を避けながら進むことが出来ない。そのせいで足の速さには自信があるのに一向に子どもの姿が見えなかった。
「凛。だいぶ距離が開いたぞ」
「わかってる!」
凛は何とかこの人の多い道を抜け出そうと脇道を探すが、その道すらも見当たらなかった。凛が捕られた麻袋の中には凛の旅の資金が全て入っている。あれがなければ十分にお腹を満たすこともできないし、宿に泊まることもできない。コトノハはどこにお金を盗んだ子どもがいるかは教えてくれるが、捕まえることは出来ない。凛が何としてでも子どもを捕らえなければならないのだ。
必死に人をかき分け進んでいると、笠の上から誰かが手を置く重みを感じた。
「待ってな少年。俺が行く」
男の声がしたと思うと、凛の横を誰かが通り過ぎていく。
急に現れたその人物は、被った笠を片手で押さえ、松葉色の小袖をなびかせ走っていった。凛はその後姿を見送りながら目を丸くする。
「何?」
風のように通り過ぎていった人物に呆気にとられながらも、凛は走り続ける。先ほどの言葉は凛に向けての言葉だったようだが、意味がわからなかった。とにかく今は自分であの子どもを捕まえることだけを考えなければいけない。
「凛。先ほどの男、どうやらあの童を捕らえたようだ」
「え」
あまりの速さに凛は驚きを隠せなかった。
凛からの距離だと子どもとだいぶ差があっただろうに、こんなにも速く追いついてしまうなんてあり得ない。
「別の人じゃないの」
信じられず疑いにかかると、コトノハは首を振って言った。
「確かに先ほどの男だ」
どんな根拠かはわからないが、コトノハは確固たる自信を持った口調でそう言った。凛はそんなコトノハの言葉を聞きながらも、未だに疑念を捨て去ることは出来なかった。
とにかく前に進んでいこうと凛が前進していると、宙に浮いて偵察をしていたコトノハがゆっくりと凛の元に降り立つ。
「コトノハ?」
コトノハの名を呼び彼の方に視線を向けると、凛は勢いよく前方の何かにぶつかる。
「おっ、と」
ふらつき転びそうになったところを、誰かが凛の腕を掴んで引っ張り上げた。引き寄せられる強い力に助けられ、凛は地に足をつける。目の前を見ると、こちらに向かって微笑むやけに秀麗な人物が凛の腕をとって立っていた。健康的な肌の色と、ゆるく下で結ばれた茶色の髪。凛々しい目元には自信と力がみなぎっていた。
「少年が探していたのはこの子かな?」
男の赤みがかった茶の瞳に希少さを覚え見惚れていると、その男が暴れる子どもの首根っこを掴んで、凛の目の前に盗人を働いた子どもを差し出してきた。
「あ!」
その子ども――男の子の手には、しっかりと凛のお金が入った麻袋が握られていた。凛はそれを確認すると、すぐさま男の子の手から袋を取り上げた。
「ああ! 俺の金!」
「これはあなたのじゃない!」
恨めしそうに見てくる男の子の言葉を一蹴すると、凛は釣った黒い瞳を男の子の目に合わせる。
「あなた私のお金を盗んで何をしようとしてたの。ちゃんと答えて」
凛が圧力をかけると、男の子は口を閉ざし凛から目を背ける。子どもの扱いに慣れていない凛は、とにかく男の子の口から何か聞き出そうと躍起になった。
「そこまで」
「ぶっ」
凛の顔に、大きな手のひらが当てられる。いきなりの事だったので、受け入れの体制が取れず、鼻を強打してしまう。
「な、なにを――」
「ここは俺に任せるといい。少年」
男の子を掴んだままの男が悪戯っぽく笑う。
先ほどから男は凛のことを少年と呼んでいるのだが、どうやら凛のことを男だと勘違いしているようだ。しかし凛は別段そのことに触れることはなく、鼻を押さえて男を睨みつけた。
「さて、坊主。あんたはどうして金を盗んだ」
男は凛の反応を無視し、優し気な笑顔を男の子に向け柔らかい口調で聞く。男の子はこいつなら何を言っても大丈夫だと思ったのか、威勢よく男にくってかかった。
「そんなの決まってるだろ! 子ども一人生きていくには非道なこともしなきゃいけねぇんだ!」
そう言ってじたばたと暴れ出す。しかし男は簡単に男の子を解放することはせずに、わざとらしい唸りと共に首を傾げた。
「んー。おかしいな。あんたは孤児じゃないはずだ」
男の言葉に、男の子がぴたりと動きを止めた。それから男の目を疑い深くのぞき込み、そらす。
「何適当なこと言ってるんだよ」
男の子のその一言で、凛は男が言っていることが的中していることを悟った。男の子の動作と声音が、明らかに先ほどとは違い、控えめでしどろもどろだったからだ。しかしどうして男がそのこと知っているのかを考えることは出来なかった。
「あんたのその服、汚れもほつれも一つもない。それに綺麗な草履も履いておかしくないか? 一人で生きてきたあんたがこんな小奇麗に身なりを整えられるか? 本来なら食っていくだけで必死なはずなのに、身なりになぞ気を配る余裕なんてないだろ?」
男はその子を自分の目線の高さまで上げて瞳を合わせると微笑んだ。先ほどと変わらない優し気な笑みなはずだったが、男の頭の回転の速さと弁の立ち具合を見てしまうと、どうもただの笑みには見えなかった。
「こ、これは……これも盗んだんだい!」
男の子が声を荒げて反発する。しかしそれは誰が見ても嘘だとわかる発言で、目の当てようもない。凛は必死に否定する男の子に対して憐れむ情が生まれるが、すぐにそれは間違いだと思い直し芽生えた気持ちを払拭する。自分のお金を盗もうとした者に、同情なんてすることはない。
「そうか坊主。それならこうしよう」
男は双眼が隠れるほど笠を深く被ると、端にある店にと歩き出した。
凛もその後に続き男の動向を伺う。男の子は何が起こるのか不安らしく、男に首根っこを掴まれながらもそわそわと目を泳がせた。
「文さん。ちょっと訪ねたいんだがいいか」
男は人の良さそうな笑みを口元に浮かべて店の前に立つと、ふくよかな中年女性に話しかけた。どうやらそこは女性が肌につける飾り物を売っている店らしく、やけに輝きがまぶしく色鮮やかだった。雨の雫をそのまま手に取り形にしたような耳飾りや、翡翠の色が神秘的な首飾り。どれも凛が身につけたことがないような物ばかりだった。
「ああ、あんた。久しぶりだね」
文と呼ばれた女性は、男の方に目を向けて明るい笑顔を浮かべた。それから他の客の相手を数秒してから男の方へと近寄ってきた。
「どうしたんだい。やっと女に贈り物をする気になったかい」
冗談交じりの口調で文は男に声をかける。すると男も冗談口調で文に言葉を返した。
「はは、じゃあ文さんのために首飾りでも買おうかな」
男は笑うと「それで……」と話を切り替えた。
「文さん。この坊主の事知ってるか?」
男は右手に掴んでいた男の子を引き上げて文の方に突き出した。されるがままの男の子は、ばつの悪そうな顔をして俯いた。
「あら。鶴乃屋のとこの子じゃないかい。この子がどうかしたのかい?」
文が男の子の顔を覗き込んで瞬きをした。男は口元に薄い笑みを浮かべてから口早に言った。
「そんなに大したことじゃない。ありがとう文さん」
そう言って男は凛に目配せすると、文に背を向けて店を後にした。凛も慌てて男のあとを追いかけるが、後ろから文が男を呼び止める声がして一度振り向く。けれど男はその声が聞こえているはずなのに一度も振り向くことはなかった。
「あそこの店の文さんは情報通で、聞けばなんでも答えてくれる。しかし裏を返せばどんな些細な情報も貪欲に聞き取ろうとする人だ。あの場にいたら根掘り葉掘り聞かれてしばらくは離してくれなかっただろうな」
男は歩く速度を緩めて凛が隣に並び立つのを待つとそう言った。どうやら男は文という女性の性質を良くわかっているらしく、丁度良い頃合いで引き上げたようだった。
「あんたもいらないことまで聞かれるのはごめんだろう?」
男は男の子のほうをみて笑った。男の子は結んだ唇を山にさせるとそっぽを向く。
「ねぇ。あなたこの子どうするつもり?」
凛はこの子どもにお灸を据えようと思っていたのだが、男が段取り良く話を進めていくのでそれどころではなくなってしまった。せめて被害者本人である凛に入る余地があるように、男に声をかける。
「どうってそりゃあ、鶴乃屋に行くつもりでいる」
男は笠を深く被っていて見えなかった赤茶の瞳をのぞかせた。薄く細められた瞳には迷いの念がなかった。
その男の言葉にいち早く反応したのは凛ではなく、男の手で捕らえられている子どもだった。
「なっ! お前何考えてるんだ! 非常識だぞ!」
「非常識? あんたに言われたくないね、小さな盗人さん」
男は楽しそうに口角を上げて笑うと、進む先にある分かれ道を右に曲がった。男の子はひたすら言葉で男を攻め立て手足をばたつかせていた。ここまで進んでくると売買系の店は少なくなってくるらしく、行きかう人の数が減ってくる。
凛は奇妙なことになったと思いながらも男の後についていく。時々後をついてくるコトノハと目で会話をして、足を進める。
「そうだ。あなたにお礼を言い忘れてた。その子、捕まえてくれてありがとう」
凛は早瀬のように流れていく中で忘れていたことを思い出す。男がこの子どもを捕まえていなかったら、凛の全財産は手元から無くなっていた。
「その言葉、やっと聞けた。もう聞けないもんかと思ってたよ」
男の横顔を見ると、変わらず口元には笑みが浮かんでいた。
「えっと、ごめんなさい」
「冗談」
男が凛の方を向いて首を倒す。掴めない男だ。
「少年は旅人だろう? 旅の装いをしているのもそうだが、言動でそうわかる。どこから来た?」
男は手元で暴れる男の子を無視して凛に話しかけてくる。凛は一度男の子に目を向けてから口を開いた。
「西の方から来た。私がいたのは名もない小さな村」
凛は首元に触れる自分の髪の毛先を触る。一月も経ったが、未だに短い髪は慣れなかった。動くたび首に触れる髪の毛先に違和感を覚えてしまう。
「西の方からきたのか。あっちは自然が豊かなんだろう?」
確かに男の言う通りだった。
帝都に入ってから、太陽を遮る木々たちの葉があまり見当たらない。整備された帝都は、賑やかな人々と様々な店が立ち並び木々に意識を向ける暇もない。ただ、ここに来る途中で見た川のほとりにたたずんでいる一本の桜の木は覚えていた。芽吹く前の淡い白の蕾が、ぷっくらと膨らみ、可愛らしかった。あの蕾が咲くころになれば、なお美しく見るものを惹きつける桜になるのだろう。
凛は男の話に頷きながらも見てきたものを思い返していた。本当に、自分のいた村とは大分違う。
「ほら少年。ついたぞ」
いつの間にか目的地に着いたらしく、男が足を止めて凛に言った。
男が顎で指す方を向くと、鶴乃屋と書かれた看板が掲げられた宿があった。竹の門が出迎えるその先には、こじんまりとした平屋の家がある。細い木が密集して作り上げられた軒からは、木の落ち着く香りが漂ってくるような気がした。
「さて坊主。心の準備はいいか?」
男は一度男の子に目をよこしてからすぐに鶴乃屋の敷地内へと足を踏み入れた。凛も習って男の後をついていきながらそれとなく辺りを見渡す。
男はすだれが垂れた玄関に立つと、声を張る。
「女将はいるか」
男がそういうと、奥の方からよく通る女の声とこちらに近づく足音が聞こえた。男はそれを確認すると笠を深く被る動作を見せる。凛はそれを何となく見やってから、妙に静かになった男の子の方に視線を移した。完璧にまずいという顔をしている。顔が真っ青だった。
「はいはい。お客様かしら?」
下駄をはく音と共に、すだれが押し上げられた。中からは髪をすべて団子状に結い上げた明るそうな女性が顔を覗かせた。
「すまない。客ではないんだ」
男はそういうと、すっかりおとなしくなった男の子を女性の前に差し出した。
「この坊主がここにいる者の金を盗もうとしたんだが、理由を話してはくれなくてね。町の者に聞いたらここの子だという」
男の口調は柔らかく、責めるような感じは抱かせない。それでなのか、とてもすんなりと男の言葉が耳に入る。女性も凛と同じように感じたらしく、しばらく呆けたように目をぱちくりとさせていたが、男が差し出してきた子を見て顔を険しくさせた。
「申し訳ない! それはうちの子です! 家からいなくなったと思えば……。なんてことしたの源太!」
女性は男の子、源太の頭を思いっきりはたくと、再度こちらに頭を下げた。
男は人のいい笑みで対応し、源太を自分の手から離した。
「お詫びと言っては何ですが、どうぞお二方とも今晩はここにお泊りになっていってください。もちろんお代はいただきません」
女性が凛と男にしっかりと目を合わせてそう言ってきた。
凛は思いもしなかった展開に動揺し、すぐに返事を出来なかった。それを察したのか、男は凛の代わりをするかのように口を開いた。
「それはいい。少年、あんたは泊まっていくと良い。俺はこの件には無関係だから遠慮しておく」
「あなたもどうか泊まっていってくださいな。この子がご迷惑をかけましたでしょう」
「そんなことはない。それに俺はもう宿をとってある」
男が凛に向けて言った言葉をすくい上げ、女将はどうにかお詫びをしようと食い下がる。しかし男は軽やかな笑顔を向けて女性の気遣いを気遣いで返した。女性は申し訳ないという顔をしながら男を見、頭を下げた。
「ではそちらの方はどうかお泊りになっていってください」
女性は少し口元に笑みを見せて言ったが、やはり自分の子がしたことが気になるようで完璧な笑顔ではなかった。凛はこれ以上女性の気を滅入らせまいと言葉を探す。
「そうする。ありがとう」
相手に安心を持ってもらえるように、慣れない微笑みを浮かべる。すると女性は少し安心したのか、先ほどよりも柔らかい笑顔を向けてくれた。
「ではどうぞ中へ。それとも今日はこれから行くところがおありで?」
「あ、はい」
「そうですか。ではまたこちらにおいでください。そうしましたらご案内しますので」
女性は言葉の後にお辞儀をすると、微動だにしない人形のような源太を引きずり宿の中へと入っていった。あの様子では、きっちりとお叱りを受けることだろう。凛が何か言うよりも、母からの言葉が一番身に染みるはずだ。どうやら凛の出番は完全になくなってしまったようだ。
「良かったな、少年。最悪の状況から一転、今夜の宿はお代なしだ」
男は笑みを浮かべて笠越しに頭をぐりぐりと撫でてくる。まるで彼の弟にでもなったような気分だった。
「ありがとう。全部あなたのおかげ」
凛は男を見上げて礼を述べる。この人がいなかったら、どうなっていたことだろうか。
「いやいや。偶然さ」
そう言って男は笑う。
凛はもしかしたら、男はここまで狙って今まで行動していたのではないかと疑った。表では楽天的な面を見せているが、思慮深い男のような気がしたのだ。
「私は凛。あなた名前は?」
名を名乗り、相手の名前を尋ねてみた。恩人の名前くらい、知っておいてもいいだろう。
「ああ、俺か……俺は朝戯」
なぜか男は一瞬考える素振りを見せてからそう言った。しかし凛には些細なことでしかなく、深く追及することはしなかった。
「ありがとう。朝戯。ついでに聞きたいことがある」
凛は朝戯をしっかりと見据えると、質問をした。
「多喜という人を知っている?」
朝戯の表情が今までと変わった。笑みが消え、強張った顔になる。でもそれは一瞬のことで、すぐに張り付いたような笑顔を見せてきた。
「ああ。知っている。ここらでは有名な人だ」
「本当!」
やっと情報を掴んだことで、凛の気が浮上する。思わず出てしまった大声に口を押え、凛は朝戯を見やった。
「随分と嬉しそうだな。だがあの人は人前に出ることはまずないぞ。彼女の姿を見たいがための好奇心からならやめておけ」
多喜という人物は、どうやら女性のようだった。
凛は朝戯の言葉に頭を振ると、手で押さえていた口を開いた。
「多喜さんから依頼があった。そのために彼女のところに行きたいの」
凛の言葉に、朝戯は驚いた表情を見せた。
何をそんなに驚くことがあるのかと訝しんでいると、朝戯は一つ息をついてから凛の目をまっすぐと見てきた。
「あんた、退治屋なのか?」
朝戯の言葉に、心臓が跳ねる。
なぜ、そうだと思ったのだろうか。依頼があったといっても、依頼という言葉から連想できる職は様々だ。代筆の執筆依頼かもしれないし、護衛の依頼だってある。なぜ退治屋という一点をついてきたのか。
凛は頷くか迷った。どこに行っても、退治屋の扱いは変わらない。深く根付いた人々の恐怖心と猜疑心は払拭できない。
「凛」
肩に手が置かれる。振り返ると、コトノハが立っていた。どことなく、心配するような気配があった。彼の髪に隠れた顔からは何も読み取れないが、そんな気がした。
凛はゆっくりと息を吸い、朝戯の瞳を見た。誠十郎が誇りだと言った退治屋を、自分自身が否定することは出来ない。
「私は退治屋」
声を振り絞る。少し、声が震えたが、誠十郎の誇りをごまかしたりはしなかった。
朝戯はしばらく凛を凝視する。凛は次にどんな言葉が飛んでくるのか怖かったが、しっかりと朝戯の目を見ていた。
緊張の面持ちで朝戯を見ていると、彼は急に笑い出した。
「すまない少年。まさかこんな子どもが退治屋をしているなんて、思いもしなかった」
笑う朝戯に、凛は拍子抜けしてしまう。緊張感が一気に吹き飛び、張り詰めたような空気もない。それとも、朝戯は退治屋のことを馬鹿にしているのだろうか。
凛はなぜ朝戯が笑っているのかわからず、いまいちどんな反応をしていいのかがわからなかった。呆然と立ちつくす凛を見て、朝戯は笑いの余韻を残したまま言った。
「多喜の屋敷はモノノ怪の情報が各地から集まる。退治屋にとっての情報屋ってとこかな。彼女の屋敷には退治屋以外滅多に近づかないんだ」
朝戯は笑いを落ち着かせるように一度咳ばらいをした。
彼はどうやら退治屋を恐れてはいないようだった。蔑むような視線を寄こしたりもしない。そんな人がいることが、凛には驚きだった。凛が生まれ育ったあの小さな村には、退治屋と聞いて態度が変わらない人などいなかったのだ。
凛は少しの疑念と希望を併せ持ちながら朝戯の赤茶の瞳を覗いた。朝戯は、それに気づくと目を細めて微笑んだ。凛はとっさに目をそらし、早鳴る心臓に気付かれないよう口を開いた。
「屋敷に人が近づきたがらないのは、やっぱり退治屋がいるから?」
退治屋に関わりを持ちたくないというのが、やはり人々の心の内だろう。だから手紙で依頼を寄こし、直接の接点はもたない。
「それもあるが、大きな理由はもっと別のところにある」
凛は朝戯に視線を戻す。退治屋が訪れるからという理由以外に、もっと大きな理由など凛には見当がつかなかった。恐怖に勝るものなど他に何があるのか。
「彼女は香祇帝の妾だ」
凛は息を飲んだ。
香祇帝。香古の帝であり、最高権力者だ。皆一様に、憧憬と畏怖の念を抱く存在だ。その香祇帝の妾であるという多喜に近づかないのは必然ともいえる。香祇帝のものに近づくのも恐れ多いし、何か粗相をしたとなると、香祇帝が何をしてくるかわからない。
「行くのが怖くなったか?」
男が笑みを浮かべて聞いてきた。からかっているようにも見えたが、凛の次の答えを待っているようにも見えた。
「……そんなこと、ない!」
凛はお腹に力を入れてそう言った。依頼人が香祇帝の妾だろうが誰だろうが関係ないのだ。凛はただ、依頼を聞き、遂行するだけ。
「そうか。じゃあ、親切ついでに彼女の屋敷まで案内しよう」
朝戯は一度凛に笑みを向けると、きびすを返して鶴乃屋の敷地内を抜け出した。凛はそんな朝戯についていき、声を上げる。
「ありがとう」
凛の感謝に朝戯はひらひらと手を振る。
「よかった。これで多喜さんの居場所を探し回らなくて済む」
凛は横にいるコトノハに目を向けて言う。コトノハは朝戯の背を静かに見つめていたが、その姿はどこか違う所を見ているような気もした。
「コトノハ?」
凛がコトノハに声をかけると、コトノハはゆっくりと凛の方を向き、長い黒髪を揺らした。