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言ノ葉へ  作者: 鈴鹿まもり
2/6

毒牙ノ夜へ


 夕暮れに、鳥が鳴いた。

 木々に囲まれた集落で、歌を歌いながら家へと戻りゆく子どもの声が響く。民家からは煙が立ち上り、お腹のすく優しい香りが漂ってくる。

 春と呼ぶにはまだ早く肌寒い季節だが、村を照らす夕日の色が温かさを分け与えてくれているようだった。

 そんな中、一人の少女が何にも興味を向けずにただ一点を見据えてまっすぐと道を歩いていた。ひざ下を巻き脚絆で縛り上げた動きやすい裁着袴(たっつけばかま)をはいているせいか、一見少年のようにも見える。釣った凛々しい目元もそれを助長させている要因だろう。一本に高く結い上げた黒髪を揺らしながら大根畑の横を通り、民家に一度も目を向けることなくその場を通り過ぎる。夕暮れ時なので、人々はほとんど家の中に入ってしまったのだろう。もう子どもの楽しげな声は聞こえないし、見える人影もない。

 その少女、凛が進む先はだんだんと民家から離れ、木々の死角で人目につかないような場所へと奥まっていく。ついには辺りを見回しても寒さの中でたたずむ裸の木々しか見えなくなった。それでも凛はまだ幼さを残す顔を引き締めて自然の中へと進んでいく。

 歩み続けるその先に、小さな四角い木箱が現れる。凛はそれを確認すると、木箱に近づき迷うことなくしゃがみ込みふたを開けた。

 中には筒状に巻かれた紙と、中心が丸くくり抜かれた四角い銅のお金が一つ入っていた。

 凛は気の強そうな釣り目の瞳をその二つに向けてからため息をつき、荒っぽく紙と銅のお金〝一甲〟を手に取ると、木箱を閉めてもと来た道を戻っていく。

 木々を抜けると夕日の光が目に染みた。

 また同じように大根畑と民家を後にしようとすると、一つの民家からすだれを押し上げ着物の裾をたくし上げた子どもが勢いよく飛び出してきた。

「うわぁ!」

 子どもは凛にぶつかり、声を上げてその場に尻餅をつく。凛の方はぶつかられてもびくともせず、目線を下に向けて自らの目に子どもをとらえた。

「……平気?」

 凛はその場にとどまり子どもを気遣うような言葉をかけるが、膝をついたりそれ以上距離を縮めたりすることはなかった。

 子どもはぽかんと口を開けたまま凛を見上げて何も言わない。一向に身動き一つしない子どもにしびれを切らせた凛がその場を立ち去ろうとすると、子どもが出てきた平屋の中から女性が出てきて顔を青くさせた。

「何をしているの! こっちへおいで!」

 女は声を高く上げ子どもの腕を引っ張り上げた。そうして半ば引きずるようにして子どもを家の中へと入れる。

「退治屋の娘……気味が悪い」

 小さな女の声がその場に残った。

 凛は言葉を耳にして黒い瞳を険しくさせるが拳を握り再び歩き始める。

 村を抜けて、木々が立ち並ぶ山の中へと足を進ませる。行きよりも早く荒く足を踏み鳴らし木々の間をぬっていく。

 そうして歩いていくと木々の隙間の先に小屋が見える。その小屋が見えると、凛は一層早く歩みを進め、手に持った紙を握りしめる。

 小屋に着くなり凛は大仰に木の引き戸を鳴らし開け、その先で胡坐をかきながら囲炉裏の火を面倒みる皺の深い男を睨みつけた。

「ほら! 今日の依頼!」

 凛は手に持った筒状の紙を荒っぽく祖父である誠十郎に投げつけた。続けて同じように一甲を自分の手から放つ。そのどちらも誠十郎は動揺することなく受け取り、優し気な笑みを見せた。

「ありがとう。凛」

 誠十郎はそう言って筒状の手紙をくくっていた紐を解き、内容を確かめ始める。凛はそれを見ながら、自分のうちから溢れそうになる感情に怒りを覚え、言葉を放った。

「まさかその依頼を受けるっていうの!? 依頼の代金がたったの一甲だよ! ご飯一杯食べられやしない! そんな風に誠十郎が安く引き受けるから退治屋なんてそんな程度で雇える存在だって見下されるんだ!」

 強く強く、凛は拳を握りしめる。理不尽な眼差しや言葉を自らに向けられる日々には耐えられない。ため込んだすべてを、吐き出してしまわないと気が済まなくなる。

「お金でものをはかってはいけないよ。この村を守れるのは退治屋である私だけだ」

 手紙に目を向けながら、穏やかな口調で誠十郎は語る。その余裕があるともとれる口調に、凛はさらに苛立つ。自分の気持ちなど、誠十郎は考えもしないのだろうと凛はいつも思う。          

 自分の測りだけで物事を正当化してそれを押し付けてくるような物言いをする誠十郎に、怒りの矛先がすべて向いた。

「退治屋なんてろくな仕事じゃない! 村の人たちが言ってた! モノノ怪を殺すと災いが降りかかるって! だから私の父さんや母さんは死んだんだって!」

 誠十郎の目の動きがぴたりと止まる。

 凛はその誠十郎の変化に気付かず、感情のままに言葉を口にした。

「退治屋なんて汚れ仕事だ! 父さんと母さんは誠十郎が殺したんだ!」

 言ってやったと、凛は思う。

 今までずっと思ってきたことを、ついに言ってやったのだ。まるで退治屋が誇りあるもののように言う誠十郎が、ずっと気にくわなかった。村の人々から嫌悪される誇りなんて、誇りとは言わない。ただの自己満足に過ぎない。この最悪の状況から目をそらして現実逃避をしているだけだ。

 固い意思を見せつけるように鋭く誠十郎を睨みつけると、彼は手紙を丸めて(むしろ)の上にそれを置き、凛の方に向き直った。

「言いたいことはそれだけかい」

 誠十郎の黒く塗りつぶされた瞳が、凛の眼を見据えた。ただそれだけ、ほんのそれだけのことなのに、凛は口を開けなくなる。恐怖とは違うが、それはなにか本質的なところを見抜き叱咤されているような感覚だ。

「言葉を発する時は考えなさい。その言葉は、お前の元に戻ってくる。陽の言葉を言えば陽が、陰の言葉を言えば陰が、お前の所に返ってくる。言霊を侮ってはいけない。放った言葉は全て、消えないのだから」

 誠十郎の言葉は、凛には理解できなかった。そんなものは、古い言い伝えのようなもので今じゃ誰も信じはしない。けれど誠十郎はそれがあたかも本当のように真剣な面持ちで言葉を紡ぐ。理解はできないことだったが、どこからかこみ上げる恐ろしさが凛の体を通り抜けた。

 囲炉裏の中で燃える火が、パチパチとなった。温かさを伝える火の側にあっても、わけもわからぬ悪寒から凛は抜け出せなかった。

「……誠十郎がそうやって、目に見えないことばかりに捕らわれるからっ!!」

 喉の奥に熱いものがこみ上げた。それは怒りなのか、悲しみなのか、凛自身もわからなかった。でも確かにわかることは、誠十郎を認めることが出来ないということ。感情の波にさらされ言い詰まった言葉は、凛の口から音を出さずにしまわれた。

 凛は誠十郎に背を向けて開けっ放しの引き戸から外へと駆け出す。

 夕日の色が、闇の色に侵食されかけている光景。まるで暗いものに飲み込まれそうになる凛の感情に反応している様だ。静かなその場に凛の駆ける足音だけが鳴り響く。夜はもう近い。

 ひたすらに走る凛の足は、自然と村の方へと向いていた。それは、凛の中にある、村への憧れからくるものなのかもしれなかった。十六の少女は、今の今まで村人からひどい言葉を聞かされながら過ごしてきた。同じ年ごろの娘と話すこともなく、ただ一人の家族である誠十郎としか接してこなかったのだ。人の輪の中に入ることに憧れを持つのは不思議ではない。

 どんなに耳をふさぎたくなるような言葉を聞き続けても憧憬の念をかき消すことがなかったのは、希望が凛の中にあったからだ。それを誰も、誠十郎でさえ拾い上げてくれない。

「……っ」

 凛は駆け出した足を止めた。

 どんなに叫んでも吐き出しようのない思いが、とぐろを巻いて胸中に沈み込む。その度に苛立ちと恨みがこみ上げどうしようもなく空しくなった。

 村へ行っても歓迎なんてされないことはわかりきっている。そう思うと途端に足が重くなり、動けなくなる。帰る方向を見失ってしまった。

 夜の冷たい風が凛の頬を強くたたいた。見上げれば枝の隙間から満月の光が涙の粒を落としているように見えた。それはただ一つの道しるべのはずなのに、悲しく地に降り注ぐばかりで声を上げない。

 光の粒を辿るように足元に目線を下げると、自分の足が見えた。土のついた草鞋が、とてもみすぼらしく感じる。

「凛」

 後ろから名前を呼ぶ声がした。けれど凛は振り向かなかった。その声の主には今一番会いたくない。

「来ないで!」

 抑えようのない怒りが爆発する。凛の声に反応したかのように風はぴたりとやみ、木々たちも静かになる。同じように近づく足音もやんだ。

「誠十郎の言葉なんて聞きたくない……!」

 拳を強く握りしめると、細い痛みが走った。

 退治屋のことも、言葉のことも、もう何も聞きたくない。退治屋を大事にする誠十郎の考えもわかろうとは思えない。

 凛は誠十郎が嫌いだが、退治屋はもっと嫌いだ。凛の今までの人生を狂わせてきたのは全て退治屋のせいだ。どんなに考えても、その答えは変わらない。

「退治屋なんてなくなればいい……!」

 喉の奥で叫ぶ前の声が唸った。それは紛れもなく凛の言葉だ。

 後ろで感じ取れる誠十郎の気配がゆらめいた。しばらく言葉はなかったが、決意したような、重くゆっくりとした声がその後に聞こえた。

「あの悲しい生き物を放ってはおけない」

「悲しい……生き物?」

 凛は耳を疑った。誠十郎は何に対して悲しいと言っているのか。頭の片隅で誠十郎の言葉が何を指すのか気づいてはいたが、それでもすべてを飲み込むことが出来なかった。認めてしまえば迫りくるのは絶望だ。けれど誠十郎の沈黙は否応なしにそれを認めさせようとする。むごいなんてものではない。

「……モノノ怪のどこが悲しい生き物だ!」

 凛が振り向いた先に誠十郎の姿が見えた。距離があり、いつの間にか訪れた夜の暗闇の中では、相手の表情はうかがえない。

「誠十郎は何もわかってない! どうしてあんな化け物なんかを優先する! どうして気が付かないの! いつもいつもいつも、どうして……」

 刹那、黒い影が目の前を覆った。それが何なのか、いきなりのことで確認できない。

「凛!」

 誠十郎の焦る声が聞こえた。

 迫りくる何かに凛の頭の中は真っ白になる。

 体が後ろに倒れる。体に重いものがのしかかると同時に、赤が見えた。暗闇の中でやけに鮮明に広がる赤だ。

「え……」

 辺り一面の闇が、再び訪れる。何も見えない暗闇だ。でもその黒はとても温かかった。

「誠十郎!」

 庇うように凛の上に誠十郎が覆いかぶさっていた。声を押し殺し、何かにたえている。そんな中でも、凛を力強く腕の中に収めて離さなかった。

「誠十郎、血が」

 誠十郎の背に手を回すと、見えなくてもわかるような大量の血が流れだしているのを感じた。生温かいその感触は初めて触れるものだった。

 動揺が、突如として押し寄せてきた。

 一体この一瞬で何が起こったのか。得体も知れない恐怖が凛の胸中に巣食い、混乱を誘う。

「そう、慌てるな……」

 いつもと変わらない、誠十郎の声が凛の耳朶に響いた。

誠十郎は深く息を吐くとゆっくりと凛から離れ、後ろに振り向いた。そして木々の隙間を縫って濃くなる暗闇をじっと睨めつけた。

「おいでなさった。モノノ怪だ」

 闇の中で怪しく光る双眼が揺らめいた。

 誠十郎は立ち上がり、帯にさした護身用の短刀を引き抜いた。

「誠十郎、やめて、死んじゃう」

 誠十郎の背中には、肩から腰に掛けて獣が爪を立てたような跡がくっきりと濃く広がっていた。その傷からとめどなく溢れる血が流れだし、誠十郎の小袖を真っ赤に染め上げている。いつ倒れてもおかしくない。

「凛。お前は逃げなさい」

 誠十郎が駆け出すと、暗闇に紛れていたモノノ怪が姿を現した。

 痩せ細った四肢に、泥をかぶったような黒い毛。鋭い牙をむき出しにし、大きな耳を立てている。姿形は狼によく似ているが、大きさはその倍以上ある。

 そんな闇の化け物――――モノノ怪が、赤い目をらんらんとぎらつかせて誠十郎に突進してくる。誠十郎の体よりも大きいモノノ怪に対し、彼が持っている武器は刃渡り三十センチに満たない護身用の短刀のみ。分が悪いのは目に見えている。いつもモノノ怪を退治するときに使っている刀は、今誠十郎の腰にはささっていない。

「っ!」

 凛の中で最悪の状況が目に浮かび、震えが走る。

 けれどそんな考えに浸っている余裕はなかった。誠十郎と対峙するモノノ怪は、叫びとは言えない頭の痛くなるような金切り声を上げる。鼓膜が破れそうになるほどの音だ。耳鳴りがやまない。誠十郎もその声を聞き体をふらつかせるが、体勢を立て直さぬまま目の前の敵に向かって短刀を振り落とした。

 モノノ怪の脳天に刃が刺さる。モノノ怪は咆哮を上げ、頭を振った。突き刺した短刀を握りしめたままの誠十郎は、されるがままに宙で体を激しく左右させられる。いくら頭を振っても離れぬ誠十郎に負けたのか、モノノ怪は一度ぴたりと動きを止めて頭を下に向けた。そしてそのまま走り出すと、目の前にあった木に激突した。

「ぐっ……」

 誠十郎の体が木の幹にたたきつけられる。その拍子に短刀から手を離してしまった誠十郎は、からくり人形のように力なく地面に落ちる。

「誠十郎!」

 モノノ怪は、一度誠十郎から距離をとり、もう一度先ほどと同じようなことをしようとしていた。

 凛は震える自分の腕を掻き抱き強く指に力を入れてから、近くに落ちている石や木の枝をひたすら手に取りモノノ怪に向けて投げつけた。

「このっ、化け物め!」

 無意味な行動であったとしても、モノノ怪の気が少しでも誠十郎から外れればいい。そう思ってひたすらに石や木の枝を投げつける。うまく立てず座り込んだままの状態だが、なりふり構っていられない。

「っ! 馬鹿なことを……!」

 誠十郎のか細い声が凛の耳に届いた。

 それと同時にモノノ怪が凛の方に向き、その毒々しい赤い瞳を光らせた。

「っ!」

 すぐに標的がこちらに向いたのだと、凛にはわかった。けれど今、立とうとしても上手く力が入らない。

 一気に心臓の音が跳ね上がった。戦慄が体を支配し、まともに首を動かすこともできない。

 駆け出したモノノ怪の足音と、赤黒い口腔が迫る。

 目の前に死が訪れたと悟ったその瞬間、誠十郎の背中が凛の視線の先に立ちはだかった。

「うう!」

 モノノ怪が牙を立てたのは誠十郎の右腕だ。誠十郎は右腕を食われながらも痛みに耐えて左腕をモノノ怪の首に回して動きを止めた。

「足手まといだ! さっさと行かねぇか!」

 初めて聞く誠十郎の荒い言葉に肩がびくつく。

 しかし驚いている暇はない。

 誠十郎がモノノ怪を捕らえて身動きを許していないが、そう長くはもたないだろう。それに凛が後ろにいるこの状況では、誠十郎も好きなようには動けない。これでは誠十郎の言った通り、足手まといだ。

 凛は拳を作ると自分の足を殴りつけた。思うように動かない足を叱咤し、立ち上がろうとする。

「……っ」

 ふらつきながらも足を地面につけ、誠十郎を背にして一歩前へ進む。倒れそうになった時は木に体重を預けながら足を動かした。

 背後でまた耳をつんざくモノノ怪の声が聞こえた。

 振り向くと、誠十郎がモノノ怪の頭から短刀を引き抜き左目に刃を突き立てていた。モノノ怪の体から血は出ない。代わりに灰のような粒が舞う。

誠十郎とモノノ怪の闘いが激化していく。誠十郎は、はじめに受けた背中の傷からの出血が酷い。

「早くしないと……!」

 凛は前を向き、村の方へと走り出した。

 今の自分の力では到底あのモノノ怪に太刀打ちできない。援助すらもままならないだろう。

「うっ」

 足がもつれ、凛の体は地面に叩きつけられる。体中に痛みが走った。

 けれど痛みを無視し、凛はすぐさま立ち上がり駆け出した。

 木々の密集が減り、畑と家が見えた。家の中から漏れ出る光はどこの家からも見えないが、そんなことは関係ない。

「誰か!」

 頼りない月光の下、凛は叫ぶ。

 目にとまった家の扉を叩き、強く懇願する。

「お願い誰か助けて! 誠十郎が死んでしまう!」

 必死な凛の呼び掛けにも関わらず、誰からも返事がなく、もちろん家の中から誰かが出てくることもなかった。

「お願い! 誰か!」

 隣の家隣の家と、扉を叩いて叫ぶがどこもやはり反応がなかった。そしてついには辛辣な男の声が家の中から響いた。

「音を立てるな! モノノ怪が来ちまう!」

 凛は扉を叩く手を止める。

 その声は拒絶だった。凛の声に応えようという気なんて毛ほどもない冷たい言葉。誠十郎が命を落とそうが落とすまいがどちらでもいいのだ。

 凛の腕は力なく落ちる。

 いったい自分は何にすがろうとしていたのかわからなくなる。こんなにも人は残酷で救いようがない。凛の中で憧れと理想が崩れ落ちる音がした。

 唇を噛みしめ息を止める。目をつぶると、全ての希望が消えた。信じられるのは、自分だけなのだ。

 凛は瞼を上げ、家の前に立て掛けてあった桑をとると、来た道を駆けて戻り出す。

 ひやりと頬をかすめる風がやけに鬱陶しく感じる。

 森の中に入ると、前方から人影が見えた。凛はその人影が誠十郎かと期待したが、すぐにそうではないとわかった。

 暗闇の中こちらに歩いてくるのは、蓬髪の長い黒髪をもち、袂や裾が火にあぶられたかのようにボロボロに裂けた小袖を着た若い男だ。肩に掛かっている打掛も、小袖と同じようにほつれていた。

「ねぇ!」

 森から出てきた男に、凛は掴みかかる勢いで近寄った。近くで見ると、男の顔は前髪で隠れていて、瞳すら覗くことができなかった。

「モノノ怪を見た!? あなたそこから来たの!?」

 村のものではないし、怪しい男だが聞かずにはいられない。もしかすると、この破れた服はモノノ怪にやられたものかもしれないのだ。もう全てが終わっている可能性がある。

 焦る凛の思いは語らなくても溢れ出す。それに圧倒させられたのか、男が驚いたように体を固くさせた。

「どうなの!?」

 凛が怒鳴りつけると、男は金縛りが解けたかのように体の力を緩め、口を開いた。

「……モノノ怪は見た」

 男の言葉に凛の中で希望の光が見える。もしかしたら、誠十郎はあのモノノ怪に打ち勝ったのかもしれない。この人が、手助けしてくれたのかもしれないと。

「人は、人はいた!?」

 祈るように言葉を紡ぐ。

 どうか無事でいてほしいと願った。凛が誠十郎に対して、初めて抱いた感情だ。

「……」

 凛の必死の問いかけにもかかわらず、男は口を開かなかった。

 背中に悪寒が走る。口の中の水分が奪われ、喉が張り付く。

 凛は男から離れて全速力で誠十郎とモノノ怪が戦っていた場へと向かった。自分の悪い考えが当たらないように祈り、重い足を前へ出す。じわじわと食らいついてくる焦燥感が凛の首を絞めた。

「!」

 闇の中に黒い塊が見えた。それが何かわかる前に凛は口を押えた。

 誠十郎が、うつ伏せになって倒れている。

 凛は持っていた鍬を投げ捨て誠十郎に駆け寄ると膝をついた。声を上げて誠十郎の名前を呼び、体を揺さぶるが何の反応もない。瞼を閉じる誠十郎の顔は、青白く生気がなかった。当たり前にあったはずの温もりも感じられない。

「何、これ。嫌だ。誠十郎」

 凛は誠十郎の手を取り額に当てた。自分の熱を分け与えるかのように強く手を握りしめる。これは祈りだ。

「お願い、誠十郎。起きて」

 誠十郎の血が凛の手や額につく。その血すらも氷のように冷たく魂が存在しない。

「もう死んでいる」

 男の声が後ろから聞こえた。聞いたことのある声。先ほどいた、あの不気味な男の声だ。

「っ」

 男が言った受け入れたくない事実が耳の中でこだまする。凛は無意識に唇を噛んだ。鉄の味が口の中に広がり、嫌なにおいが鼻孔を通った。

「あなた……モノノ怪と戦ったんだよね?」

 瞳を閉じ、暗闇の中で男に問いかける。男の小袖はボロボロだった。戦闘の際にそうなったのかもしれない。もし凛の問いかけに頷いたのなら、男は誠十郎の最期を見ているはずだ。

 凛は瞼をあげると、誠十郎の近くに転がっている短刀を見つけた。手に取りむきだしの刀身を見ると、自分の顔が鈍く映りこんでいた。

「……」

 沈黙が続く。口を開かない男に、凛はある思いを抱いた。

そしてそれが確信になる前に、男が言った。

「私は何もしていない」

 凛は短刀の柄を力強く握り、立ち上がった。男との間合いを一瞬にして詰めると、男の胸倉を掴み、短刀の刃を彼の首元に押し当てた。

「見捨てたのか!」

 男の襟を掴んだ手が震える。体中の血が沸騰したかのように熱い。目の前の相手も良くは見えなかった。

 男はモノノ怪を見たと言っていた。そして人がいたかと尋ねると、妙な無言を貫いた。男は誠十郎がモノノ怪と戦うあの場にいたのだ。それなのに助けもしなかった。

「っ!」

 髪に隠れて見えない男の瞳を睨みつける。目から感情の色を読み取れないのが、さらに凛の感情を逆なでした。

「許すなんて絶対しない! あなたが殺したも同然だ!」

 凛は力任せに男を突き飛ばすと、背を向けた。

「どこかに行って!」

 もう男の顔など二度と見たくなかった。

 顔を見ればすぐにでも殺してしまいそうだ。不条理なこの世界のなかでも、凛は人を殺めることはしたくはなかったのだ。

 喉の奥に詰まったように重く溜まる感情がどうしようもなく胸の奥を焼く。自分の胸に爪を突き立てそれを取り出したいほどに凛の中では抱えきれないものだ。

 男の気配は消えることがなかった。ただ静かに、山の空気と紛れ込む。

 凛は夜空を見上げ、満月を仰いだ。

「……渇く」

 喉が渇く。血が渇く。感情の全てが渇いていく。

 そのせいか、凛の瞳からは涙なんて一粒も零れ落ちなかった。


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