はる
生まれてから二十二年にもなるが、国立病院の中に入るのはこれが初めてだった。
僕自身が特別何かの病気だというわけではない。ここに来たのは、ある人に会うためだ。僕からしてみれば、身近ではあったけど、実際は完全な初対面だ。普段は感情が表には出ない僕でも、今は少し緊張している風に、両親には見えるかもしれない。
ジュースのおごりをねだる五十過ぎの父を尻目に、僕は母に先導される形で病院内を進む。休日の国立病院は意外なほどに誰もいなかった。吹き抜けが二階にまで及ぶエントランスや病室に至る廊下まで、看護婦や患者はおろか、お見舞いに来る人ともすれ違わないので、まるで自分たちだけがVIPとして招待されているかのような気分になる。
そして、巨大な病棟の一角にあるエレベーターに乗り込み、四階まで進む。エレベーターを出てすぐにある十字路の廊下を歩き、ナースステーションにたどり着く。
「あの、面会なんですけど。大丈夫でしょうか」
母が、ナースステーションに常駐している若い女性の看護師に声をかける。事情を察したのか、看護師は手際よく受付簿を取り出した。代表者の名前を書いてください、という言葉を受け、母が自分の名前を手早く書いていく。
手続きを進めている間、僕はナースステーションに置かれていた小さな紙を手に取った。そこには『面会時間は午後二時から午後六時まで』『面会はご主人、ご両親、十五歳以上の親戚の方等の近親者に限る』などの文言が数行に渡り書き連ねられている。静かに目で追って読み進める。一通り読み終えたところで、看護師があちらでお待ちください、と言ってナースステーションの奥へと引っ込んでいった。
僕は、父や母とともに看護師が指し示した箇所へと移動する。そこはナースステーションのすぐ脇にある廊下であり、右手にはカーテンとガラス越しにナースステーション、さらにそこから直接続く六畳ほどの小さな待合室があり、左手には病室の引き戸が数メートル間隔で配置されていた。
そこに移動してから程なく、姉とお義兄さん――姉の夫である――が僕たちのところへゆっくりと歩いてきた。およそ一ヶ月ぶりに対面する彼女は、患者衣を着ているからか、一回り痩せている風にも見える。父と母は、そんな姉へ矢継ぎ早に言葉をかけていく。よく頑張ったね。おめでとう。僕も、お義兄さんと姉に一言だけ、おめでとうと口にする。正直なところ、僕自身これ以上はどう口にすべきか悩んだが、口下手な僕にはこれが精いっぱいだった。
数分ほど話したところで、待合室のカーテンが開き、『彼女』の姿がガラス越しに映る。父と母は、すぐさまガラス越しに顔を近づけていった。僕と姉、お義兄さんは少し遠目に彼女を見やる。
彼女は、頭のてっぺんから顔、指の先まで全身を真っ赤に染めながら小さなベッドの上で静かに寝息を立てていた。薄手の毛布に小さな身体を包めたその姿が、僕には生まれたての小動物のように見えた。
「はるちゃん、はるちゃん。おばあちゃんだよー」
母が彼女――『はる』に向かって小さな声で呼びかける。姉とお義兄さんが結婚して一年目にして授かった命を前に、母の表情は今までにないほど緩んでおり、父も母に負けじとはるの名前を呼ぶ。
『はる』――女の子が生まれた時は、この名前にすると姉が言っていたのを思い返しながら、僕ははるの表情をじっと見つめていた。
「見ろよ、ほら。はるの顔、俺の手と同じ大きさだ」
父がそう言って、僕の前に自身の左手を持ってきた。僕は、父の手とはるの顔を交互に見つめる。確かに、言われてみればそんな風に見えなくもない。あんたより一回り小さいぐらいかねぇ――母が、僕をちらと見てそう呟く。そう言われた僕は、予定より一月早く生まれた当時の自分の写真を頭の中で引っ張り出してみるが、よく分からなかった。いかんせん、赤ちゃんの顔はほとんど同じに見えるのだから仕方がない。
「母さん、ほら、はるとのツーショット写真撮って」
上半身を直角に曲げ、はると同じように寝ているかのような体勢で父が母に懇願する。母は、鞄からスマートフォンを取り出し、父とはるの二人を撮影する。シャッターを切ったときの父の顔は、幼い少年が悪知恵を働かせているかのごとき笑顔だった。
続いて、母もまたはるとのツーショット写真を撮影する。その後、僕もはるとのツーショット写真を撮らないかと言われたが、父のようにお揃いの姿で撮られるのが恥ずかしかった僕はすぐさま拒否した。
そんな僕たちのやり取りをよそに、はるはずっと両の瞼を閉じたまま眠り続けていた。はるの枕元には姉の名前と『0:23』という文字が書かれたカードが置かれている。昨夜未明に生まれてから既に十二時間以上が経過しているが、彼女の髪の毛はまだにわかに濡れており、あたかもつい先刻生まれてきたかのようにも見えた。
姉のおなかの中でおよそ十月を過ごした彼女は、これから長い人生を歩み始める。嬉しいことも辛いことも知らないままのはるの寝顔は、どことなく美しく感じられた。そう思ったとき、はるの口角がほんの一瞬だけ、にこりと上に吊り上がった。
「あっ、笑った。はるちゃんが笑った」
僕と一緒にはるの寝顔を見つめていた母が、嬉しそうに姉とお義兄さんへと話しかける。えっ、と姉が声をかけるが、時既に遅し。はるの表情は元の寝顔に戻っており、深い深い夢の中へと浸っていた。
「あたしがまだ見ていなかったはるちゃんの笑顔を……!」
姉が半ば驚いたように口にしたのを聞いて、僕は何だか少し嬉しい気持ちになった。
――きっとこの子は、とっても楽しく幸せな夢を見ていくのだろう。今も、これからも。
はるへ
きみが大きくなって、この作品を読んでいる頃は、きっといろいろな経験、思いを抱えていると思う。
それは嬉しいことか、悲しいことか。楽しいことか、辛いことか。今この作品を書いているときの僕には分からないけれど、これだけははっきりと言える。
はるは、お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、僕や親戚皆から望まれて生まれてきたということ。
今、はるは家族や友達、親しい人たち皆から、必要とされているということ。
どんなときでも、はるは一人ぼっちじゃないということ。
はるがいてくれて本当に良かったと、心から思ってくれる人がいるということ。
だからこれからも、胸を張って、前を向いて、生きてください。
あと、僕のことは叔父さんではなく、『お兄さん』って呼んでね。
きみのお兄さん――天神大河より