精神崩壊、変化の刻
体の痛みもそれなりに引いて、歩ける程度の運動能力を取り戻した僕は、警察の人に事件の時の話そうとした。でもそのことを話そうとするたび頭が痛んで口が動かなくなってしまう。
「清水美与子さんと家で何をしていた?」
僕にその名前から思い出せることはなかった。警察の人も察したのか、それからはあまり尋問をしなくなった。
「記憶が戻ったら、教えてくれ」
それだけ言い残し、警察の人は病院から出て行った。何の協力も出来なくてごめんなさい、と僕は言おうとしたが、ちゃんと喋れなかった。
「は、い」
思うように言えないもどかしさと、病院で独り身の寂しさが連動して心をブルーにしていく。
社会の役に立てぬ自分を邪魔だと思うようになった。名前以外の記憶をなくし病院で看護されているなんて、すごくみっともない気がする。
「だ、れか…ころしてください」
ネガティブの度が過ぎて言うことも洒落にならなくなった頃、どこかから声を聞いた。
「そんなこと言わないで、あなたは大切な人」
声の主は病室内にいない。1人部屋なので他に病人がいるわけでもない。
「こっち、こっち」
声のする方を向き、僕は仰天する。
「おどろいた?」
窓の外に、女の子が立っているのだ。ベランダなどはないし、当然足場もない。しかもここは6階で落ちたら死ぬぐらいの高さである。
「ゆうれい?」
僕は知ってた言葉をとりあえず使ってみた。
「うん!なんでわかるの?」
実際のところこんなフレンドリーな幽霊はなかなかいない。
「おとこ、の、かん、かな」
怖がらずに僕は話しかける。幽霊は誰かの面影を感じさせるので、話しやすかった。
「すごいね、男の子は」
悲しそうな顔をした幽霊は、こっちへ近づいてくる。寂しさのオーラがムンムン漂ってきた。
「ひと、りなの?」
「うん、一人だよ」
「ど、うし、て、ひとり、なの?」
「彼氏を探してる最中だからね、この病院にいるはずなんだけど…」
彼氏は6階にはいなかったらしい。どうやって上下の階を行き来しているのだろう。
「がんばれ」
幽霊がふっと消える。見つかればいいなと願うが、それは恐らく叶わない。
僕には、全てがわかった。そう、記憶が戻り始めたのだ。
「清水さん」を見た時に、脳内が機能を取り戻した。口も自由に動かせるようになった。
彼女を忘れるほど、僕はやわじゃない。
「急がなきゃ…」
人探しをする幽霊へ、自分の姿を見せに行こう。清水さんに、喜んでもらおう。
白い布団を放り投げ、スリッパをきっちり履いてから廊下へ出る。
深夜2時、腕時計が静かに時を刻んでいる。
むやみやたらに走らず、僕は抜き足差し足で各階の病室を見回っていく。
「遊真くん、何してるの?」
声がするとドキッとしたが、看護婦さんだった。
「寝れなくて…歩き回ってました」
「すぐ自分の部屋に戻ってね」
仕事が忙しいらしく怒られたりはしなかった。それを好機と考えて僕は探索を再開する。
15分ほど経ち、ついに姿を見つけた。
諦めて自分の部屋に戻る、その時。自分の部屋を覗き込むと、僕のベッドの横に女の子が立っていた。
まさしく、清水さん。
「清水さっ…!」
手を伸ばしたが、もうその先に清水さんはいなかった。
「どうした?」
向かい側のベッドで寝ている男の人が心配して声をかけてくれたが、僕は「なんでもありません」と無愛想な返事を返し、寝た。
ぐっすりと、違う世界に吸い込まれていくようだった。
「…はっ!」
起きると、広大な野原に立っていた。見る限り周りは大草原。足元の花には綺麗な蝶が蜜を吸いながら羽をひらひらさせている。
「夢?」
「そう、夢よ」
声が聞こえて振り向くと、女の人が立っていた。20代くらいだった。
「遊真くん、久しぶりね」
「会ったことありましたっけ…?」
自分の名前が知られていることに違和感も感じない。感じるのは、僅かな親近感だった。
誰だかなんてわからないが、会ったことがある。遠い、昔に。
「大きくなったね…」
「え?」
それだけ言って女の人は消えた。そして夢の世界が崩れ落ちていく。
崩れるとき、無数の光が僕に集まった。
光は僕を包み込み、天高くへ連れて行く。
その先には、僕の経験した場面が幾つも浮かんでいた。
光が僕から離れ、空に浮かぶ記憶を持ってくる。僕の頭に、数え切れないほどの情報、知識、実体験が流れ込む。
一つ、違うものが混じっていた気がした。
パンクしそうな頭が痛み、バランスを崩した。
僕は地面に激突しそうなもうあと数メートルというところで、夢から覚めた。
「あっ、?」
記憶が、全て戻った。事件の時の悲しい記憶も、告白された時の嬉しい記憶も。
「美与子…」
感情が複雑に混じり合って、整理がつかなくなる。
僕は疲れて、朝10時に二度寝した。看護婦さんの起きてくださいコールがまったく聞こえないほど、ぐっすり寝ていた。
また、夢を見てしまった。
退院して間もなく、僕は警察官に全て打ち明けた。
「記憶は戻った?」
「はい、戻りました。僕は清水美与子さんと自分の家の居間で話してました」
何一つ、間違った情報じゃない。
「その時、父親が帰ってきて、僕を蹴ってから清水さんのところへ歩いて行きました。血の付いたバットを持って」
全て、正しい記憶。
「僕は止めようとして、とっさに手袋を取って父親を後ろから殴り、手袋をつけた状態でバットを奪い取りました。そして…そして…バットで父親を殺そうとしたら、間違えて清水さんを殴ってしまいました…」
自分がおかしいことに気づく。今まで見たのは父親が清水さんを殺そうとした光景だったはず。違うじゃないか、僕は父親を殺そうとなんてしてないし、清水さんを殺した覚えはない!清水さんを殺したのは、父親だ…
「僕が、間違えて殺しました」
事件当時のことを必死に思い出すと、確かに僕は清水さんをバットで殴ってしまっていた。
嘘だ…僕はやってない…
自分の記憶を信じられなくなったが、言ってしまったからにはもうどうしようもない。
「すまない、君が悪くないのは知っているが…逮捕だ」
硬い手錠をはめられて、直ちにパトカーへ乗せられる。連れて行かれた先は、裁判所だった。
「被告人宮戸遊真は、有罪である!」
心が崩れ落ちるのを感じたが、もう戻れない。
さよなら。僕は死刑になります。今まで、ありがとう。
最期の言葉を残し、僕は死んだ。
「うあああああっ!」
気がつくと、僕は家のベッドで寝ていた。
病院にいたはずなのに、ワープしている。そんな非現実なこと信じていなかったが、今回はそれを信じるしかなかった。
「体が、大きくなってる…」