恨みと救いの手
更新は不定期になります。
この世界では、誰かが必ず嘘をついている。
それを見抜けるものは、そう簡単に見つかるものではない。だからこそ、「偽り」の概念が消えずにこの後も有り続けるのだろう。
僕が生まれた。7年前、故郷のとある病院にて。
「産まれましたよ、お母さん!終わりましたよ!」
母親は苦しんで僕を産んだ。百年に一度とない、ひどく不幸な出産だった。
産む直前まで母親は血を吐き続け、顔は青白く、体は痙攣しガクガク震えていたらしい。
その姿を見ていた父親は涙腺を枯らしていた。
「これ、だけ…わたしの子に…わたして…」
父親が渡されたのは血にまみれた手紙だったらしい。
母親は手紙を渡して動かなくなった。最後の力を使い、次の瞬間に子供を産んだ。
医者の声なんて、死んだ母親には届かなかった。
「侑香ぁ…お前が死ぬなら…こんな息子はいらないよ…」
本音をこぼした父親は、医者にひどく怒られたらしい。
そう、この話は全て医者に訊いたもの。父親は話どころか返事も返してくれない。
幼稚園児の頃、父親はやけに優しかった。僕はそれを本物の優しさと捉え、甘えられるだけ甘えた。
卒園式、父親は欠席した。欠席の理由は「インフルエンザ」。家に帰ると、インフルエンザのはずの父親はピンピンしながら筋トレをしていた。
「お父さん、インフルエンザじゃないの…?」僕は少し苛立ちながら聞いた。
「当たり前だろ?クソ息子の卒園式なんて誰が行くかよ」
優しかった父親の口調とは正反対で、明らかに恨みを込めた言葉が返ってくる。
僕はその時どうしたか覚えていない。だが、その時から僕への虐待が始まったのは覚えている。
春休み。普通の6歳児なら小学校への期待を膨らませている頃だが、僕の家は違った。
父親はパチンコ屋で半日を過ごし、帰ってくるとテレビの前で横になって必ずこう言う。
「酒買ってこい」、と。
最初は抵抗していた。でも抵抗すればするほど、自分の顔の傷が増えてくのに気づき止めた。酒を飲めば飲むほどおかしくなっていく父親の現状も知っていた。
結局何も変わらず春休みは進み、入学式の日。
幼稚園の年長の時に優しい父親が買ってくれたランドセルを背負って、僕は小学校に向かった。
大きないびきをかきながら、テレビの前で全裸の父親を尻目に。
玄関のドアを開けると、外は春の陽気。
桜に覆われた遊歩道は美しく彩られている。
その景色の中に羽をなくした鳥の死体があることは、誰も知らない。
小学校は未知の世界。新たな友達と出会い、新たな先生と出会う。
出会いが、たくさんある場所。大人から言えば、「出会い系サイト」のようなものだった。
「授業を始めます」
幼稚園の頃は聞かなかった言葉。やはり世界が違うのだ。周りの子供達は静かに教科書を読み始める。
ノートさえ開いていないのは、自分一人だけだった。誰一人、騒ごうとしない。
隣の机を覗き込むと、その席の女子は教科書を見てると思いきや、ずっと何かを落書きしていた。
男と女が、戯れる絵。小学生だとは思えないほどのクオリティ。どこで覚えたかなんてわからないが、まるでもう「やったことある」みたいな感じだった。
その絵を見ているうちに、いつの間にか授業は終わっていた。
「授業を終わります」
特に何も勉強しなかった、無駄な45分だった。
その授業が何個も続いた1学期、2学期。夏休みを通り過ぎ、冬休みも通り過ぎ、また春がやってくる。
春への準備、入学式への準備などで忙しい3学期が始まる。相変わらず、父親は食って飲んで寝るだけ。そんな父親に自分も呆れたのか、いつしか挨拶の一つもなくなっていた。
友達を家に連れてきたことは、1度もない。汚くて腐った家に招き入れることは、自分から拒否していた。
「今度宮戸くんの家行っていい?」
「ごめん、明日は無理なんだ」
そんな僕は「ノリ悪いやつ」という認識をされていた。
あれもこれも、家族のせい。さっさと死んだ母親も、酒しか飲まない父親も、僕は大嫌いだ。
家に友達を連れてきたら、間違いなく次の日から家について色々と馬鹿にされるだけだと知っている。父親はそんなこと何も知らないで毎日グースカ寝ているだけ。昔の父の面影はどこへ行ったんだ。探せるなら、過去にでも戻りたい。
くだらないことを考えた、とある1日だった。
3学期も終わりに差し掛かった頃、僕の人生を変える出来事が起こった。
「宮戸くん…好き」
夕方の教室で、ある女の子から話しかけられた。それが愛の告白だなんて知らなかった当時は、「そうなの?」とてきとうな返事をしていた。「そう、だから…」女の子は俯いて続きを言う。
「付き合ってください」
小学1年生で付き合うのはとても珍しいことである、そうわかったのは小学2年生になってから。
「べつにいいけど」
付き合うこと自体を知らなかった僕にはただの友達関係だと思えた。だがそれはもちろん違う。あっちは本気だった。
「じゃあ明日…わたしの家の前に来て」
女の子、清水美与子さんは走り去っていった。好きになられた実感なんてわかなかった。
今なら、素直に喜んでいるのだろう。
その日は、夜遅くまで寝付けなかった。
呼ばれた場所に行く。清水さんの家は学校のすぐ近く。たくさんの友達に声をかけられながら、僕は少しハイテンションで向かった。
「来てくれたんだね、ありがとう」
客の出迎えは、本人がしてくれた。
「宮戸くんは昨日から私の彼氏だよ?」
彼氏、という言葉を初めて聞いた。小学生でその言葉を使うタイミングもなかなかないが、僕の小学校は他の小学校より少し文明が進んでいたようだ。
「え、じゃあ清水さんはなんて呼べばいいの?」純粋に知らない言葉を教えてもらった。
「彼女、よ」
「わかった、彼女、僕を家に入れてよ」
「りょうかい!」
嬉しそうに言う清水さんを見ると、心が落ち着く。タバコと酒の臭いで溢れかえる家から出てきた僕としては、心療内科の診察を受けるよりいいかもしれない。
「なんかタバコっぽい臭いしない?」
僕の体から出ていた臭いを察知されて驚く。
「外でタバコ吸ってる人がいるんじゃない?」
僕は慌てて曖昧にさせた。気付かれてしまったらどうなるかなんてわかりきっている。
その後を思えば、一つや二つの嘘など軽いものなのだ。
「だよね、やっぱタバコ臭いよね」
心のドキドキが止まらぬまま、僕は彼女の家に踏み込んだ。
ところどころの部屋から匂うのは消臭力のいい匂い。廊下までピカピカに掃除してあって、居心地がとても良い。同居したいほど。
「じゃあ何する?」
「普通にあそぼーよ」
「わかった」
僕は居心地のいい家で半日を過ごしたのだった。
「楽しかったよ、また呼んでね」
僕は最後にそう言い残して、自分の家に帰った。
「ただいま」
上機嫌だったからか、最近おざなりになっていた挨拶を久々にした。
勿論のこと返事は返ってこない。父親の定位置であるテレビの前を見ると、そこには誰もいない。
「父さん?」
父さんと呼ぶのも久しぶりすぎて、少し口元が震えた。だがどこを探しても、父は見つからない。さてどこへ行ってしまったかと探していると一枚の置き手紙を見つけた。
「少しの間旅行に行ってきます。留守番をお願いします。父」
苛立ちが限界に達した。酒やタバコで思い切り家計を苦しめてきたのに、旅行なんて。ふざけるな。
僕は父親のケータイに電話をかけたが、応答はなかった。というか、父親のケータイは電源が切られていた。
「あのクソ親父…!」
帰ってきたら、殺してやる。殺して、僕は楽に生きていくんだ。
心に、決めた。
来る日も来る日も、父親は帰ってこなかった。僕は常に包丁を持ち歩くほど心が憎悪に満ちていた。
「今日は修了式だね、もう1年生が終わっちゃうんだね」
その憎悪の念を払ってくれるのが清水さん。彼女という存在の大きさを、この時に知った。
その時知らなかったのは、「彼女を失くした時」の寂しさ、それだけだった。
「今日は宮戸くんの家に行きたいんだけど…いい?」いきなりだった。
くそ汚い家だったが、父親がいないと考えればまだいい方だと思った。
「いいよ、じゃあ放課後校門の前で待ち合わせね」僕は彼女と一緒にいたい、その一心だった。
修了式が終わって、みんなが帰る頃、僕は1人で清水さんを待っていた。
女の子の群れから清水さんを見つけた時の喜びは、何にも変えられないものだったであろう。
「やっと宮戸くんの家に行けるんだ、楽しみ〜!」
そんなにいい家じゃないですよ、と突っ込みたくなる。
こんな幸せな暮らしが、いつまでも続いてほしい。その純粋な男の子の願いを、この世界が認めてくれるはずはなかった。