書庫でこんな本を見つけました。(えっちなのはいけないと思います)
トリチェに案内された王城フィアナリスの書庫は、それは立派なものだった。学校の教室4つ分ほどのスペースに、古今東西、ありとあらゆる書物が所狭しと並んでいる。
もともと、フィアーナ王国の興りは、隣国にして歴史的な敵国であるラミス帝国の貴族であった初代国王ナリスが、圧政に苦しむ民衆を率いて打ち立てた反乱勢力らしい。
ナリスは文武と人心統率に秀でた英雄で、彼以来、フィアーナ王国では文武両道を旨とする気風が根付いているという。コキュやトリチェが幼少より剣を嗜んでいるのも、王城の蔵書が立派なのも、その辺に理由があるのだろう。
ぼくがこの世界に来てから、そろそろ一月になるのだけれど、思えば日々のどたばたや雑務、訓練に追われて、これまで一人ゆっくりと思索に耽るという時間をとることはできなかった。
こうして机の前に座って本を広げてみると、急に自分がごく普通の高校生に戻ったような気がして、色々なことを考えてしまう。
そもそも、ぼくは生きているのだろうか……。元の世界のぼくの身体はどうなってしまったのだろう……。
一つ、自分の中で今の状況を合理的(?)に説明できる理屈がある。それは寒々しいほどの現実感でぼくを苛んでくる。すなわち、ぼくは『異界』に紛れ込んだのでもなんでもなくて、単に事故の結果植物人間か何かになって、目覚めることのない眠りについているのではないかというものだ。
ここは単にぼくの夢、ないし妄想の中なのではないのか……。もしそうだとしたら、ぼくの両親はいつまでぼくを生かし続けてくれるのだろうか……その結果両親は、どれだけの経済的負担を強いられるのだろうか……。ぼくはこの先何十年間も、生と死の狭間を彷徨うのだろうか……。
恐ろしい想像を振り払うかのように頭を振って、ぼくは目の前に置いた本に目を移した。まずはこの国のことをもっと知りたいと思って読み始めた『フィアーナ王国年代記』だ。
今更だけれど、一応確認しておくと、この国で使われている言葉は、日本語でも英語でもない。勿論、ぼくにはこの二つの言葉の知識しかないから、この国の言葉がぼくの知らない異国の言葉である可能性は否定できないのだけれど。
そして、この国で用いられている文字も、標準的な英語のアルファベットとは違う。共通点は多いのだけれど、僕の知識の中にあるどのアルファベット(せいぜい、英語の他はギリシア語か何かの一部の文字くらいなのだけれど)とも異なることは確かだった。
それなのに、不可解なことに、ぼくはこの未知の言語を母国語のように使いこなすことができるのだ。もしこれがぼくの想像の世界なのだとしたら、大した想像力ではないか。
ひょっとしたら、本当は元の世界こそがぼくの妄想で、この世界こそが現実なのかもしれない……。日々ぼくの五感を刺激するあの華やかな少女達の姿態、その声、その香り、時折触れる肌の柔らかさ暖かさ、傷口を舐めた時に口に広がる血の味……。それらは、どちらの世界が真実で、どちらが虚構なのか、ぼくを混乱させるのだ。
***
「だめ、そこは……汚いっ」
「ふふっ、リシェの大切なところをフォークで串刺しにしてやろう……」
「そ、そんなぁ、お馬さんでそんなところせめちゃ、わたしの女の子がぁ……」
「女の子、じゃわからぬよ……ちゃんと言わねば……」
「あぁっ、そんなっ……言います、言いますから……女王さまぁ……」
真昼間から三文芝居を演じているのは、言うまでもなく、リシェとカミナだ。
「……何やってんの?」
ぼくは読みかけの本を閉じて、思いっきりじと目で、二人に向かって言う。これは質問ではなく、単なるやめろという意思表示だったのだけれど……。
「見て解らぬか? チェスに決まっておろう」
カミナは文字通りの意味にとってあっさりと答えた。もちろんわざとなのだろうけれど。
書庫の中をあれこれ物色していると、元の世界でも馴染みのある本が目に付いた。そう、チェスの定石本だ。元の世界ではパソコンに標準インストールされているチェスゲームで遊んでいたこともあって、ぼくはチェスがそんなに嫌いじゃない。
定石本をペラペラとめくってみると、どうやらこの世界でも、チェスのルールは変わらないらしい。そのことをみんなに話したところ、にわかに騎士団内で空き時間のチェスが流行ってしまったのだ。
ルールを知らなかったキルシュを例外として、5人の実力にそれほどの差はなかった。カミナに「未来の軍師殿のお手並み拝見」と言われたときには負けまいと気負ったものだけれど、今は気楽な空き時間の楽しみの一つだったりする。
チェスのプレイスタイルには、みんなの個性が出て面白い。
コキュは序盤から苛烈な攻めを好む。トリチェは自陣をしっかりと固めて自分からは動かない。
カミナは攻守のバランスがよく、サクリファイス(大駒を犠牲にして攻撃の機会を得る戦術)を好む。リシェはその時の思いつき、きまぐれで駒を動かす(それでも皆と互角なのは勘がよいのだろうと思う)。
ちなみに、ぼくはというと、駒同士の等価交換を基本とした面白みのない戦い方をしてしまう。
無粋を承知で先ほどのリシェとカミナの会話を解説すると……。汚い、は勿論卑怯の意味。自陣の弱点を突かれて相手を卑怯呼ばわりしただけのこと。大切なところとリシェの陣の弱点は同義。
「フォーク」というのは、将棋で言うところの「王手飛車取り」のように、まるで複数の食べ物をフォークで一度に突き刺すように、相手の複数の駒を取れる位置に自分の駒を置くこと。
「お馬さん」はナイト、「女の子」は当然紅一点にして最強の駒「クイーン」で、女王さまも同義。
要するに、カミナがナイトでリシェのキングとクイーンをフォークにした、というそれだけのお話だったりする(リシェにとっては、一番よくてもナイトと引き換えにクイーンを取られることになるから、戦局は絶望的となるのだけれど)。
「……あの、お二人とも、そのような嬌声を上げられては、その、恥ずかしいですわ……」
トリチェも、軽く頬を染めながら控えめに抗議する。
「トリチェ……。我らとてこのようなはしたない真似は本意にあらねど、これも、アリス殿のためなのだ……」
「アリス様の?」
「然様。女性の媚態は殿方の本能をくすぐるもの。時にはこうして男の性を思い出させねば、アリス殿は我らと共に歩むよりも、寧ろ殿方の体液に塗れる道を選ぶことになるやも知れぬ……」
いや、神妙そうな顔でよくもまあそんな戯言を……。ぼくが唖然としていると……。
「そ、それは、困りますわね……」
何故か、夢見るような、惚けた表情で顔を真っ赤に染めるトリチェ。全然困ってなさそうだ……。
「まぁ、ラディム騎士団辺りで優しく飼って貰えるなら、その方がアリス殿のためやも知れぬが……」
意地の悪い笑みを浮べ言うカミナ。
「あそこは美形揃いだからねぇ」
そっくりの笑みを浮べてリシェも賛同する。
「どうする、トリチェ、アリス殿が首輪を付けられてあられもない姿でシリウス殿やディーン殿の身体を舐めさせられたら……」
「あざといなぁ、カミナたん。でも、あたしは、手錠プラス目隠しで、だれを舐めているかわからないっていうのも捨てがたいと思うなっ」
はうっ
カミナとリシェの具体的な描写に、トリチェが鼻血を吹いて卒倒した。
「えっと、人を妄想のネタにするのはやめて欲しいんだけど……」
涙目で訴えるぼくに、
「アリス殿とて、夜毎我らを妄想の種にするであろ? 意趣返しと言っておこう」
カミナはぼくの頭を覗けるのだろうか……。ずばり真実を言い当てられて口ごもったぼくを前に、カミナとリシェは延々とラディム騎士団とやらとぼくの「カップリング」に興じて、ぼくをげんなりさせたのだった。