忘るる 間ぞなき
「川辺梓……さん?」
受付で応対してくれた初老の男性は、怪訝な表情を皺の刻まれた睚に浮かべたまま、本心を探ろうとでもするかのように、露骨にわたしを見つめてきた。
「は、はい。これはわたしの免許証です。それからこれは卒業証書です。一応持ってきました」
バッグの中を焦って物色する。男性の前にそれらの持参物をずらずらと並べて、手に取ってもらうのを緊張して待っていた。
「お、おい。何もそんなことしなくても……」
そう言いながらも男性は老眼鏡をかけ直し、わたしと免許証の写真を見比べる。
「確かにあなたは川辺梓さんだ。間違いないようだね」
白髪混じりの優しげな男性は、卒業証書と免許証をわたしに返してくれると、
「ーーそれで、広川先生を訪ねて来られたのかい?」
と、こちらを窺いながら質問してきた。
「……は、はい」
先生の名前を聞いただけで、わたしの胸はおかしなくらいドクドクと震え出した。
広川貴仁ーー
その懐かしい名前を久しぶりに目にしたのは、朝刊で配達された新聞上でだった。
毎年載る公立高校職員の移動を知らせる記事に、日課のように目を走らせていて、ようやくこの春見つけたのだ。
先生がわたしの母校からとうとう転勤された。その事実を知ったのは、卒業してから二年目の春のことだった。
会いたいーーと思った。単純に。わたしにとっては忘れられない、たった一人の先生。
だが、小さな勇気がなかなか出てこない。
先生にとってわたしは、当時も大勢いた生徒の一人でしかない。あれから二年も経つのだから、きっと記憶にすら残ってないだろう。卒業前の数ヵ月、ほんの少し共に過ごした生徒など覚えていなくても当たり前だから。
それにわたしは先生の授業を受けたこともなかった。先生はわたしの学年を教えてはいなかったからだ。
本来なら、喩え同じ学校へ通う生徒と教師だったとしても、互いの存在に気がつくことなどなかったのかもしれない。
だが、わたしは先生に出会ってしまった。
わたしと先生が知り合うことが出来たのは、小さな偶然がきっかけだった。
「ちょっと待ってね、職員室に確認を取るから」
男性は窓口を離れ、電話をかけに部屋の奥へと入って行く。
わたしは免許証など窓口で広げていたものを、急いでバッグの中へ仕舞った。
事務室がある正面玄関横の廊下を、生徒達が数人連れ立って通り過ぎた。皆こちらに気がつくと、ニヤニヤと笑いながらからかうような視線を向けてくる。
気まずい。
すれ違う生徒達は男の子ばかり。女であるわたしが物珍しいのか、じっと見てくる子だっていた。
ここはわたしが卒業した高校ではない。この学校で出会う生徒は、必然的に男子生徒ばかりになってしまう。
先生の新任地は女子生徒は数えるほどしかいない、ほとんど男子高と言える工業高校だった。
そんな場所へ足を踏み入れることが出来ているなど、自分の行動力に今さら驚く。先生の名前を目にした一ヵ月前のあの躊躇は、いったい何だったんだろうか。
凄いな、自分。やれば出来るんじゃない。心の中で自分の思いの強さに圧倒される。
そうだ、わたしはこんなにも、先生に会いたかったんだーー。
「川辺さん」
事務の男性が戻って来た。
「残念だけど……」
男性は申し訳なさそうに伏し目がちになる。
「広川先生は職員室にはおられんようだ。校内にいるのは確かなようだが、所在が分からんみたいで……ね。着任されたばかりだから部活動などもまだタッチされてないみたいだし、誰も彼が今どこにいるか知らないんだよ」
わたしは思わず声が漏れそうになった。
「そういった訳で申し訳ないんだが、今日は……」
男性が断りの言葉を口にしてくる。
わたしは周囲に視線を走らせた。
今は放課後の時間帯だ。職員室が苦手な二年前の先生は、大抵自分の城に引き込もってこの時間を過ごしていた。わたしはそこへ、しょっちゅうお邪魔してたから記憶違いなんかではない。
先生は今も、あそこにいるのではないだろうか。
「あの……、わたし、先生の居場所に心当たりがあります。そこへ直接訪ねて行っては駄目ですか?」
思いきって男性に尋ねる。
このまま帰るなんて嫌だった。せっかく勇気を振り絞ってここまで来たのに、先生にも会えずにすごすごと帰るなんて。
「えっ? う〜ん」
いきなりの提案に度肝を抜かれた男性は、しばらくどうしようかと悩んでいたけれど、結局わたしの熱意に根負けしてくれたらしい。
近くの引き出しに仕舞ってあったノートと名札を持ち出してくると、目の前に差し出してきた。
「それじゃ、この外来者名簿に名前と理由、訪問先を記入して。それからこの外来者証を首から下げてくれるかな。ああそう……、それでいい」
わたしは名札を身につけ名簿に名前を書き込みながら、男性に尋ねた。
「あのそれで……、この学校では視聴覚室はどちらにあるんですか?」
見知らぬ校内を、受付で借りたスリッパで歩いて行く。男子生徒の多い学校内では、わたしはやはり異邦人そのものだ。
それでなくてもわたしは学校が苦手だった。
理由はいじめだ。
高校三年生に進級してすぐくらいから、それは突然始まった。きっかけは何だったのか、覚えていないぐらい些細なことだった筈だ。
最初は数人から無視をされる程度だったが、段々クラス中に広がり、やがては男子を除くクラスの女子全員から暴言や嘲りを受けるようになっていた。
私物を無くされたりイタズラをされたりなんて日常茶飯事で、味方のいない学校は地獄のようなものでしかなかった。自分でもよく通っていたと思う。もう三年生だから、あと一年で卒業だからと、それだけで行っていたようなものだ。だけどそれも、我慢の限界だった。
先生に出会ったのはちょうどそんな頃。
あの日ーー、
どしゃ降りの雨が降ったあの日、傘を隠され下駄箱で立ち往生をしていたわたしを、クラスの女子が「入れてあげる」と言って取り囲むように外へと引っ張って行った。
しばらく一緒に歩いたあと、彼女達は当たり前のように傘を取り上げきて、びしょびしょに濡れていくわたしを笑いながら囃し立てて見ていた。
その時、プチッと何かが切れたのかもしれない。必死で堪えていたものが、こぼれ落ちて行くような脱力感を感じていた。
わたしは泣きながら学校へと舞い戻った。彼女達と同じ道を歩いて帰る気力は、どこにもなかった。
学校へ戻ったわたしは、以前から錠が時々外れていることがありよく忍び込んでいた視聴覚室に逃げ込み、濡れた体を振るわせながら一人で泣いていた。
暗い部屋の中には、陰鬱な雨の音しか聞こえなくて世界に一人きりみたいだった。
何のために学校へ来なければならないのか。誰からも嫌われている、いなくてもいい人間なのに。
そんなことを考えながら、このまま消えてなくなってしまいたい。そう思えたくらい、絶望感で震えていた。
その時、視聴覚室の扉がいきなり開いて、部屋に光が差し込んだのだ。
そう感じたのはあくまでも気のせいでしかなく……、だって雨で薄暗い日だったから明るい光などなかったことぐらい、いくらわたしでも分かっている。
でもわたしにとっては光そのもの。
それが広川先生だった。
先生は濡れ鼠のわたしを見た時、お化けか何かと勘違いをしたらしい。
腰を抜かしたようにその場に立ち竦み、怯えたような声を出して驚いていた。
その時の先生の顔が、あまりにもテンプレ通りの真っ青な顔だったので、わたしは死にたくなるほどの悲しさに見舞われていた筈なのに、おかしくなって噴き出してしまったのだ。
あれからわたしは、毎日放課後には先生を訪ねて視聴覚室に行った。
迷惑そうにわたしを遠ざけようとする先生に気がつかない振りをして、図々しく部屋の中に居座った。先生は困ったような顔をしながらも、最後にはいつも優しく受け入れてくれていた。
そうは言っても、ただ側で自分の仕事をしながら、わたしの話を聞いてくれるだけなんだけど。だけど、淡々と過ごす静かなその一時が、わたしの足をいつも支えてくれていたのは事実。学校へ行こうという気にさせてくれる唯一のものだった。
先生は職員室が苦手らしく、視聴覚室に逃げて来ているらしかった。わたしと先生、お互いに対人関係でつまづいた者同士、相手の気持ちが何となく分かりあえたんじゃないかと今では思っている。
先生の顔は、春にあった新任式で知っていたけど名前は覚えていなかった。初めてその名前を記憶の中に留めることが出来た時、どんなに嬉しくて心が震えたことだろう。
いつの間にか先生は、わたしにとって、特別な人となっていた。
卒業式の前日、初めて先生を名前で呼んだ。
胸がドキドキして溢れ出てくる涙が凄くて、きちんとお礼を言えたのか自信がない。
これでさよならかと思うと、淋しくてせつなくてどうにかなりそうだった。
でもーー
先生はわたしのことを、「川辺梓さん」と名前で呼びかけてくれたのだ。
それがどんなに嬉しかったか分かるだろうか。
どんなにどんなに、幸せを感じたか分かってもらえるだろうか。
人のいない廊下のその先に、わたしの目指す教室があった。この学校でも先生のいる城は、視聴覚室ならいいのだけど。
春の風が心地よく吹いてきて、窓から廊下を抜けてその部屋へと入っていく。
わたしは開いた窓から室内を覗き見た。
女子高生だったあの頃と同じように。
部屋の中には人の姿が見えた。
窓際の席に腰かけ、俯き加減で背中を丸める後ろ姿。寝癖のように飛び跳ねた髪の毛が、教室内を通り抜ける風に揺れている。
時々顔を上げて、そばの窓からグラウンドに目を向ける横顔。微かに聞こえてくるのは、唇からこぼれ落ちている鼻歌みたい。
その人が着ている薄い灰色のカーデガン。変わらない、それはやっぱり先生だったーー。
「先……生っ」
わたしはぼやける人影に声をかけた。胸がいっぱいでかすれた声は小さくて、届きそうになくて、もどかしくて仕方ない。
「……広川先生」
わたしの声に驚いたように、びくりと背中を伸ばしてその人が顔を上げた。
そしてゆっくり、こっちへと振り向く。
「お久しぶりです、広川先生」
忘れたくても、ううん、一生だって忘れたくはなかった。ずっとずっと卒業してからもずっと、わたしに勇気を与えてくれた人。
「川辺……か?」
先生は廊下から入る逆光が眩しいのか、目を細めてこっちを見ていた。
眇めた目で一生懸命わたしを見つめて、困惑したかのように眉を下げ、懐かしい表情になる。なんとなく微妙な反応にも思えるけど、口元はむしろ柔らかく緩んでいた。
「はい……」
わたしの名前、覚えていてくれたんですね。嬉しくて嬉しくて、どうしようもないくらい心臓が飛び跳ねている。
「はい、川……辺……です」
返事をしたとたん、溢れ出してきた涙で声がくぐもってしまい、わたしは何も言えなくなった。
先生が席を立ってもの凄く驚いた顔のまま、あちこちの机に躓きながら近寄ってくるのに、何の言葉も返せない。
云いたいことはいっぱいあった。今日まであった色んな出来事を、誰よりも先生に聞いてもらいたいのに。
わたしは子供みたいに取り乱して、ただ泣いてるだけだった。
先生、わたしは元気でやっています。
卒業と同時に勤めた会社では、優しい人達に囲まれて、今では親友と呼べる友人も出来ました。あんなにも友人関係に悩まされていたわたしが、嘘みたいでしょう?
あなたのお陰です。
あの頃ひとりぼっちだったわたしに、唯一寄り添ってくれたあなたがいたから、わたしは前を向くことが出来たんです。大げさでも何でもなくて、あなたがわたしに生きる勇気をくれていた。
ありがとう、先生。
やっと、胸を張って先生の前に立つことが出来ました。
あの頃の泣き虫少女は、今、こんなにも幸せです。
お読みいただき、ありがとうございました。