第一章 Take a step forward for world 世界へ踏み出す 前編
「どうして...。来てはいけないと、言ったのに」
髪を心地よい風が撫ぜる感触。それに混じる、微かな水の気配。草木の青い匂い。気持ちのよい雰囲気の中、閉じたままの目蓋に柔らかな太陽の光が射している。促されるように再び眠気に誘われて意識を手放しかけ、俺は慌てて重い目蓋を持ち上げた。
そもそもここまで綺麗な自然だの何だの、そんな心地良いものは俺の寂れた生まれ故郷にあるはずない。そう青空を見上げつつ、思い当たる。徐々に頭が冴えてくる。俺は、さっきまでどこにいた?
......そう。俺の部屋。それで?不審者が入ってきた。......それで?......青い炎が出て、俺を包んで。
なんて馬鹿馬鹿しい。そこまで思い立って首を振る。大体あの不審者が現れたところからおかしい。きっと俺は、美沙を送り届けたあとに部屋ですぐ寝てしまったに違いない――これはその夢の続きに過ぎないんだろう。
小さく伸びをして、寝起きでふらつく身体で立ち上がる。それにしても身体が重い。......夢の中だから仕方がないか。
ふと、見知らぬ服を着ていることに気づく。変わった服だ。海外の服とも少し違うし、なんの服だろう。そう思いながら、何気なく視界に入った何かの色に目がいく。
......黄色。だ。
薄目の、黄色。引っ張ってみる。頭皮に痛みが走る。まさか......これは、俺の、髪?
いつ染めたっけ?なんて悠長なことを考えながら、どこかに自分の姿が確認できるものがないか辺りを見回してみた。
「......!」
見渡す限り、前方は草原。自分の横一面には鬱蒼と木々が生い茂り、深そうな森になっていた。後ろには青空をそのまま切り取ったように鮮明に映す鏡......もとい、小さめの湖のようなものが横たわっていた。
湖の縁へと近づく。ひとまず手を伸ばし、一掬い。限りなく澄んでいる水だ。口元へ自分の手を引き寄せ、その美味な冷たさに喉を潤す。......美味しい。
ふと、自然の水はそのまま飲むと腹を壊すと聞いたことがあるのを思い出した。......取り敢えず飲んでしまったものは仕方がないので、その記憶を自分の中で消しておく。
しかし、嫌にリアリティのある夢だと思った。夢なら普通は大概五感でも視覚、聴覚くらいが限界のはず。だが感触、嗅覚、味覚まで働いている.....起きているときより恐らくもっと鋭く。これでは、第六感まで使えそうな勢いだった。
のぞき込んだ湖の中に見えた自分は、やはり思った通りの金髪だった。見慣れない。これが、俺?まるで別人だった。目も外人のように深い青だ。カラーコンタクトにしては自然すぎる色合い。......それから俺は、目覚めてから一番の自分の違和感に気づいた。
「な、これ.......俺の、耳......!?」
“ヒト”の耳より高いところに位置するそれは、この見慣れない金髪と同じ色合いをしていた。恐る恐る触れる。動く。引っ張ってみる。痛い。撫でてみる。ふわふわしている......。
「......誰得」
誰得。まさに衝撃的すぎて、驚く余地が無い。......そう、そこにあったのは俺の耳だった。ヒトの耳ではない。哺乳類の、イヌ系の。それより鋭いところから察するに、狼あたりだろうか?.....まさに誰得。当然、その変なモノが耳の役割を果たしてくれているからには......俺のいつもの位置の、フツウの耳は居ないわけで。
「変な夢過ぎるでしょ......」
呆れて物も言えない。というか、やけに細部まである。普通夢とは印象的な物が強く出るし、女性はカラーが多いが男性はモノクロの夢が多いらしい。おかしい。これは......おかしい。
その時、冗談のつもりで思考の隅を掠った第六感の存在がその時本当に反応してしまう。俺は反射的に湖から飛び退く。“居る”。何か。ヒトでないものが。湖の、近くに――。
「......!!」
気味の悪い異形な生物。見た目通り蛙のような脚力を持つ脚。ギョロリとこちらを見据える大きな目、魚の鱗のような皮膚。体長80cmもあろうかというその堅そうな蛙のような生物の背には、凶器のように尖った異物が生えている。明らかにこの世の物ではないことを告げている。例えるなら、化け物。RPGなんかによく出てくる魔物。雑魚モンスター。
しかし仮にこいつが雑魚でも、戦うのは操作キャラクターじゃない。自分だ。得物も何もない、生身の人間なんだ。そこまで考えておいて、気づく。 俺は何を焦ってるんだろう?これは夢だ。死ぬことは愚か、怪我することや痛みを感じることもない。擬似的に死んでも、起きるだけ。
そう思えば極度の興奮状態になった身体が解れた。蛙が頬と喉を膨らませる。喉元は真っ赤。こういった毒々しい色をしてるのは大概毒を持ってる、とよく図鑑やテレビでやっていたっけ。
予想通りというか、間合いを取りながら蛙がその毒袋に溜めていた毒混じりの泥のような物を大砲のように飛ばしてきた。大丈夫だ。これは夢だ。
しかし、その時予想だにしなかった事態が起きる。
「っ......!?」
自分の身体が勝手に動く。するりと右に回避。泥の塊は背後に飛んでいき、近くの木を直撃した。哀れ、巻き込まれたそこの一帯の樹木は枯れ落ちた。背筋に知らずと悪寒が走る。
「い......ッ」
左頬に焼けるような痛み。泥の塊が掠ったらしい――。
痛み?どうして。これは夢なのに。どうして痛覚が働くんだ?どうして、痛い......!!
蛙は俺が避けたことをよく思わなかったらしい。怒り狂ったようにやかましく泣き喚き、後ろ脚で駄々をこねるように二、三度飛び跳ねては今の泥を連射してくる。冗談じゃない、そんなの避けきれるわけ......!!
本当は、わかってた。
「く......ッ!!」
足許に落ちていた二本の棒切れを拾い上げ、泥弾をそれで巧みに受けつつ走る。泥を打つ、飛散する、走る、接近する、蛙がたじろぐのが見えた――。
「あああああァァァ!!!」
振り下ろす。薙払う。左に、右に。吹き飛ばされた蛙は地面に激突し、絶命したらしい。黒い煙のような物になって跡形もなく霧散した。
そうだ。俺は、わかってた。ここで、目覚めたときから。恐らく、“知っていた”――。これが夢なんかじゃないことに。そして、願っていた。だからこそ、夢だと思いこもうとしていた。
「夢じゃ......ない、のか......」
あの時。俺がこの奇妙な世界に飛ばされたとき。何が起こったのだろう?あの炎は自分だけを包んだのか?それとも俺の部屋を?それとも俺の家を。階下の母さんも......?そしてあるいは、街を――?
がくり、と膝をつく。どうしてこんなことになったんだろう?俺はどうしたらいい......?
心なしか身体が気怠く、重い。こんな奇妙な体験、いや奇妙や不思議という言葉では言い表せないほどの体験を連続で経験してしまっているのだ。心身共に追いつくはずもない。追いつく方が異常、と言える。
それとも、これは蛙の毒のせいなのか?痛みはより一層自分の感覚を鋭くさせ、意識を冴えさせてくれる。混乱しそうな心を押さえれば、いつもの冷静さが戻ってくる。――ああ、そういえば美沙にもよく言われてたな。あんた、いつも冷静すぎ。少しは慌てたらどうなの。
呼吸を整えていれば、また蛙が6匹ほど飛び出してきた。まるで、俺に立てとでも言わんばかりだ。言われずとも俺は立ち上がるし、どちらにせよ迷っている暇は無さそうだ。
「俺は、こんなところで死なない......。俺は、何も知らないまま終わりたくなんかない......此処がどこなのかさえ、まだ知らない......!」
飛びかかってくる蛙。異常になっている自分の脚力に気づかないまま、自分の身長より高く俺は跳び上がる。獲物が想像していた位置から消えたことに気付くも、既に空中に跳び上がってしまった......といった状態の蛙に強く踵落としを入れてやればそいつは断末魔を上げて消え失せる。
更に、消える直前にそいつを踏み台に跳び上がった俺を舌で捕まえようとした蛙のそれをかわして脳天へ棒切れの一撃。気絶したそいつは下の一匹を押しつぶし、これで三体が煙と化した。すると補充するように、6匹が茂みから飛び出してくる。
見える範囲で蛙の数は9匹。取り囲もうとしてるらしい。俺の背後に回ろうとしたのか、頭上を蛙が飛び越そうと跳躍。俺はとっさに地へと手を着き、振り上げた足の甲で丁度逆立ちをするようにそいつの顔面を蹴飛ばす。俺の振り上げる脚力と自分の跳んだことにより働いた蛙の慣性の力で、そいつは顔に足がのめり込む形となった。
それも一瞬の間、そいつは茂みの中へ蹴り飛ばされて消えた。間を置かず俺はそのまま腕を曲げ、腕力で跳躍。左右から飛びかかってくる蛙を棒で一、二と薙払う。着地。後3。
振り向き様に背後の一匹を吹き飛ばす。あと2。
俺を飛び越して背後に回る残りの蛙。振り向いた直後、俺は自分でもわからない何かの力を察知してその2匹から飛び退いて離れた。
その判断は正解だった。
俺が距離をとった刹那、その2匹は稲光のような物に瞬く間に貫かれ、雨散霧消してしまったのだ。......一瞬でも判断が遅れていたなら、俺はその蛙たちと同じ運命を辿っていたことだろう。
しかし、まだ安心するのは早かった。
稲妻は今度こそ、俺をめがけて飛んできた。早すぎて存在を確認するのがやっとだ。これは、避けられない。受けるしかない――。