7.森へ
屋敷まで戻ってきたルイスは、自分が酷い顔をしているのだろうと思った。顔は恐怖にこわばり、ガタガタと震えている。
そして、屋敷を不安げに見る。帰る家はここしかないが、同じ場所にアルバートが帰ってくるという、恐怖。
今から思えば、なぜアルバートと一緒に過ごすことなど出来たのか、ルイスには不思議だった。あの魔性から、授業を受け、紅茶を入れてもらっていた。
そのことのほうが、ルイスには夢のようだった。
ルイスが無我夢中で玄関から屋敷の中に入ろうとしていると、背後から声をかけられた。
「そんなに血相を変えてどうしたのです? 魔物にでも出会ったような顔をしていますよ」
そう言ってきたのは、アルバートだった。
瞳はいつもの落ち着いた琥珀色。どこで着替えたのか、それとも修復したのか。服は、切り裂かれて血のついたものではなく、真っ白なシャツと、黒い燕尾服。
それは、いつもの家庭教師の姿だった。少しだけ不思議そうに、穏やかに微笑んでいる。
その姿に。ルイスは全て夢だったのではないかと思った。
あれは、全てアルバートを待ちくたびれて寝てしまったがゆえの、悪夢の産物なのではないか。
人は誰しも、自らの平和が脅かされたいとは思わない。人ならざるものが、身近な人間として、生活に進入してくることなど、あってほしくない。あってはならないことだと、そう思ってしまうのだ。希望的観測という、逃げ。
だが、ルイスの矜持が、その逃げ道を選ぶことを自らに許さなかった。
「魔物? それは貴方でしょう。いや。お前は、何だ……! 何のために俺たちに近づいた! 何をしようとしている!!」
目の前にいるのは、恩師ではなく、敵なのだと自分に言い聞かせて、ルイスはアルバートを睨みつける。
「――なるほど。誇り高くていらっしゃるのですね……」
それに、妖艶に微笑むのは。間違いなく先ほどの魔だった。
「ふざけるな……!!」
ルイスはそう言って、恐怖を原動力に、アルバートの胸元を掴む。だが、アルバートの長身はびくともしなかった。
「――そのような非力な身に留まっているのは、お辛いでしょう? 目の前の不快な存在すら蹴散らせない……。力なきものは力あるものに蹂躙されるが定め。貴方はそれをご存知のはずだ。だからこそ、そのような無力な人間の器では……辛いのは貴方のほうではありませんか?」
「何を言っている!!」
わけの分からぬ言葉に、ルイスは厳しい声を上げる。
だが、その胸のうちは、不思議にざわめいていた。
これ以上聞いてはいけない。そう、本能が告げていた。
「真実を、知りたくありませんか? 貴方は、真実にふたをした、あいまいな事実だけで満足されるような御方でしょうか? そう。それが、自らの傷をえぐることでも…真実を誤魔化さずに見据える。それが、私の知っている…貴方の姿です…」
嫌だと。本能が叫んだ。
彼の言葉に耳を傾けてはだめだ。古から、悪魔は人の心に蜜をたらすのだという。甘美な蜜の中に、致死量の毒を含ませて、目の前でちらつかせる。それが、ルイスが物語の中で知る、悪魔の姿。
彼の言葉をこれ以上聞いては、いけない。
ルイスは、自らの確信と共に、再び背を向けて逃走することを決定した。
玄関の扉を開けるわずかな動作ですら、隙になる気がして、がむしゃらに逃げる。そして、気がつくと、ポーラといつも手入れをしている庭にたどりついていた。
ルイスは、無我夢中で薔薇のアーチをくぐる。
昼間は花が咲き乱れる庭園も、室内からの遠い明かりと月の光しか照らさぬ夜の庭では、全ての花も眠っているように見えた。今更ながら、ルイスはあたりがすでに夜になっていることに気づく。
息を整えていると、草を踏む音がして、ルイスはとっさに樹木の陰に隠れた。追いかけてきたアルバートだと、なぜか確信した。
だが。
「ヘストン先生とも一緒ではありませんでしたか……」
落胆したように言うのは、スタンレーの声だった。
それに、ルイスは思わず声を上げそうになった。しかし、その後に続く声音。
「ええ。残念ながら。ルイス君はいつから姿が見えないのですか?」
「5時ごろから出かけているらしく……。今まで、こんなにも遅くまで帰ってこないなんてことはなかったのですが。村の方にもいませんし……」
スタンレーは弱りきったような声を出す。
「たしかに遅いですが。ルイス君もまだまだ子供です。遊んでいて時間を忘れることとてあるかもしれません。捜索はすべきかもしれませんが、そこまで悲観する必要もないかと……」
アルバートは、スタンレーを気遣うような声を出していた。
それに、ルイスは、内心で『大嘘つきめ』と罵っていた。先ほどまで、自分と声を交わしていたのはどこの誰だというのだろう。帰ろうとしていたものを、怖がらせてこんなところで馬鹿みたいに隠れる羽目に追いやったのは自分ではないかと、ルイスは内心でアルバートを激しく罵った。
しかし、こんなところに隠れていて、今更出て行くのも間が抜けている。しかし、これ以上姿を現さなかったらもっと大げさなことになるかもしれない。
そう思ったルイスは、タイミングを計るために、スタンレーと、アルバートの姿をこっそり確認した。
今自分が出て行って、嘘を暴いたら、どれだけスッキリするだろうという、挑戦的な気分でもあった。しかし、そんなことになったら、窮鼠猫を噛むのごとく、何をされるのか分からない。ここは、一旦出てアルバートの出方を待つべきだと、そう計算をしていると。
アルバートと、目があった。アルバートは、その瞬間、口の端を少し引き上げた。
スタンレーは、こちらに背を向けていて、気づいていない。
アルバートの視線に、恐怖を感じた瞬間、ルイスは術にとらわれていた。体が、動かない。金縛りにでもあったかのように、指一本動かせなくなっていた。
「ですが……。ルイスは、もしかして魔の森へ行ったのかもしれないと……。そう思うと…とても……」
ルイスの苦境など知るよしもないスタンレーは、そう弱音を漏らす。
「森へ? なぜです? あの森が危険なのは、この村の人間なら、周知の事実なのでしょう?」
それに、アルバートが訝しげにそう訪ねる。
「ええ……。ですが、ルイスは……。昔から……しきりにあの森を気にしていましたから。いつかこんな日が来るのではないかと……。私たちはずっと……」
スタンレーの声は、ルイスが驚くほどに、弱弱しかった。
「ですが、たとえルイス君がかつて森に興味を示したとしても、幼い子供の好奇心でしかありませんよ。ルイス君は聡明な子です。今更、禁じられたことを破るような愚は犯さないでしょう」
「ですが。もしも、ただの子供の好奇心でなければ……?」
スタンレーの言葉に、未だ動けずにいたルイスは固まる。
どういう意味なのか、分からなかった。
「――どういうことです」
「……いえ。何でもありません。ちょっとした……」
そう言うスタンレーの声音は、明らかに何かを誤魔化していた。
そして、そんなスタンレーの言葉に焦れたように、アルバートの瞳が金色に輝きだす。
「ひっ!」
その瞳に魔性を感じたのか、スタンレーは、単純に恐怖にすくみあがった声をあげる。しかし。
「スタンレー・カルヴァート……。どういうことでしょうか?」
そう、アルバートが告げた途端。驚くほど、スタンレーは従順になっていた。
「あの子は……森へ帰ってゆく定めなのやもしれないと……。妻と私は……ずっと……」
答えるスタンレーの声は、妙に抑揚がなかった。
「『帰る』? 妙ですね。森こそが、彼の故郷のようだ」
「ルイスは……森から来た。……妻が森から拾ってきた子供なのです」
スタンレーの言葉に、ルイスは目を見開いた。
「……詳しい経緯を教えていただけませんか?」
「あれは10年と少し前……。そう。冬のことでした。妻は、流産したのです……。私と妻の子供は……生まれて1週間もせずに、高熱を出して……逝きました。私も相当のショックを受けましたが……妻は。元々、とても愛情深く、そして、弱い女だったのです……。彼女は、精神を病んでしまいました……。屋敷の中を、探し回るのです……。『私の赤ちゃん、どこ?』と。何度あの子は死んだのだと言っても……彼女は……!!」
そこで、淡々とした声音が嘘かのように、スタンレーは喉を詰まらせた。
そこから先は、立て板に水のごとく、スタンレーは全てを話し始める。
「私はどうすればいいのか分かりませんでした……。ただ、妻に教え諭すことしか出来なかった……! ですが、ある晩、注意して見ていたつもりだったのですが……妻が、脱走したのです……。私は必死になって探しました!! そして、発見した時……妻は『魔の森』から出てきたところでした……!! そして嬉しそうに、私に報告するのです。『森の中にこの赤ん坊が捨てられていた。死んでしまったあの子の代わりに、神様がこの子を遣わしてくれたのかもしれない。だから、この子を私たちの子供だと思って育てましょう』と……!! ですが!! 信じられますか!? 真冬の夜ですよ!? どうして、生まれたての赤ん坊が、生きていられるのですか……! ――ましてやあの森は『魔の森』だ。たとえ親が、口減らしのために捨てたのだとしても……。妻が生きている間に発見できる可能性など、どれだけあるのでしょう……? あの子は、真冬の夜に放り出されて……弱ってすらいなかった……。私たちの死んでしまった子供は……ちょっとした熱で……逝ってしまったのに……。私は……ルイスは、人ではないのかもしれないと……ずっと……。だから、怖いのです……あの子は、いつか全てを思い出して……魔の森へ帰ってしまうのかもしれない……。そう、思うと……!!」
そう告白するスタンレーの顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
ルイスは、ただ。その話を聞くことしかできなかった。
自分は、スタンレーとポーラの実の子供ではなかったという事実。そして、その出生に関する、あまりに不気味なエピソード。スタンレーは、ルイスが化け物かもしれないと思いながら接していたのだろうかと思うと、今まで信じていた全ての想いのやり取りも、空しいものでしかない気がした。
今まで信じてきた全てが覆るという苦痛。それが、ルイスの幼い心を、打ち砕いていた。
「……なるほど。スタンレー・カルヴァート。貴方は話すべきことを全て話した。……今のことは、忘れるがいい」
そんなスタンレーに、アルバートはそう声をかける。
その瞬間、スタンレーの体がかしいだ。こけそうになりながら、何とか体勢を立て直す。
そして、不思議そうに辺りを見回していた。
「あれ……? 私……は。ここは……」
「カルヴァート様。そんなにご心配せずとも、ルイス君は、きっと見つけますから。私も、心当たりを探してみます」
「あ……ああ。そ、そうですな。私も、探してきますので、それでは」
そして、スタンレーは、そのまま室内に戻っていた。アルバートはそれを見送っていた。
スタンレーの姿が完全に消えると、アルバートは、ルイスの隠れている樹木の影まで歩んでいた。
ルイスは、ただただ視線を茫洋と遊ばせている。
いつも生き生きと輝く瞳に、今は光が消えていた。
「俺は……」
その唇から、かろうじてその言葉が漏れる。
俯くそのおとがいを、アルバートの指が捉えた。そのまま、アルバートが顔を上げさせるのにも、ルイスはなされるがままにされていた。
アルバートの瞳が、金色に輝いてゆく。だが、そんな変化にも、今のルイスは無関心だった。感情のない瞳を、ただむける。
「……一緒に。森へ、来て下さいますね……?」
「うん。……行く」
アルバートの言葉に、ルイスは妙に幼い声音でそう言った。
先ほどは拒絶したそれ。一度ははねのけた術に絡め取られてしまうほど、ルイスの心の中は空虚になっていた。
「――ありがとうございます」
ルイスの快諾に、アルバートはそう言って、地べたに座り込んだままのルイスを立ち上がらせようとするが、ルイスの足には、全く力が入らなかった。
顔から表情をなくし、手足をだらんと投げ出したルイスの人形のような様子に、アルバートはため息をつくと、ルイスを横抱きにした。
普段なら屈辱と感じて嫌がるであろう行為にも、ルイスは何も言わない。
「相変わらず……。貴方はダイアモンドのようですね……。――けして弱くはないはずなのに……一瞬の衝撃で……粉々に砕け散る……。お心強くあれば、貴方は私ごときの術になど、堕ちはしないでしょうに……」
アルバートは、もどかしそうにそう言った。
しかし、その言葉は、ルイスの心に届かない。ルイスにとっては、ただの耳障りな雑音以外の何ものでもなかった。
抱き上げられたルイスの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「我が君……」
切なげに囁かれたその言葉も。ルイスには、認識できない、雑音だった。
ルイスの出生の秘密編です。
タイトルが『森へ』のわりに、まだ森へは行っていませんが、そろそろ1章の大詰めに入ってきています。