3.父と母
「――勉強は頑張ってきたの? ルイス」
そう言って微笑むのは母であるポーラだ。手に持っている剪定ばさみが楽しげに音を立て、余分な枝を切り落としてゆく。
残酷なようだが、美しい薔薇を咲かせるためには、多少の剪定が必要なことをルイスは理解していた。
「うん、頑張ってきた」
ルイスはそう言いながら、ポーラの手伝いをする。
下に落ちた枝木を拾いながら、木に水を与える。カルヴァート家の庭園は、ポーラの数少ない趣味でもある。ルイスの目から見ても、ポーラは花の世話をしている時が一番幸せそうだ。
空は気持ちのいい青空で、庭園にさんさんと日光が降り注ぐ。日の光の下で、庭園はいきいきと輝いていた。暖かな今は、1年の中でも最も花の美しい季節だ。
「そう。良かったわ。新しい先生はどう? 親しくなれて?」
そう言って微笑むポーラはどこか少女めいた雰囲気を持っていた。とても10歳児をもつようには見えない。少女のまま大人になった女性。それが、ポーラを表現するのにはぴったりだった。
体型がかなり小柄なせいか、しぐさがどこか可愛らしいせいか、いつまでも「可愛らしい」という形容詞が似合う女性であった。金色の髪はきっちりと結われているが、それですらポーラを歳相応に見せる役には立っていない。
ルイスは、この母親が自慢だった。
今より2、3年前、その時まだ親しく遊んでいた村の友達に、『将来は母のような人と結婚する』と宣言してマザコンだと揶揄されたことは記憶に新しい。
ルイスには、自分の両親が理想の夫婦に見えた。スタンレーが外で必死に働いて家族を守り、ポーラは家の中のことを切り盛りしてスタンレーを支える。ルイスは、珍しいほどに素直に父を尊敬し、母を敬愛している少年だった。
そんなルイスにとって、理想である両親を目指すのは自然なことであった。だが、笑われたのだ。それは、ルイスにとって幼心に傷つくことだった。母親が好きなことはいけないことなのかと、本気で憤った。
しかし、笑ったのとは別の少年が、『でもルイスの母ちゃんぐらい可愛かったら分かる気がするな』と言ってくれた。それが、ルイスにはとても嬉しく、そしてポーラを誇らしいと思った瞬間だった。
ポーラは、絶世の美女というわけではない。造作も、それなりに綺麗ではあるが、十人並みより少し上な程度だ。だが、それでもポーラが人目をひきつけるのは、全体的なバランスがあまりに可憐だからであろう。
華奢で小さな体の上に小作りの顔が乗っている。そして、瞳は小動物を思わせるそれで、唇も鼻も小作りだった。
そして、ポーラは何よりもルイスを可愛がってくれた。子供の頃、ポーラが行っているガーデニングの作業をルイスが不思議そうに見ていたのが、ルイスが作業を手伝うようになったきっかけだ。
ポーラは、根気強くルイスに色々と教えてくれた。花の種類から、剪定の仕方、肥料の与え方、害虫の駆除のやり方。ルイスが誤って、切るべきでない枝を切り落としても、水を与えすぎて枯れさせてしまっても、ポーラが怒ることはなかった。ただ、優しい口調でどうしてこうなったのかを2人で検討するようにしていた。
ポーラの教え方は、ともすれば甘くなりがちであったが、自分で反省することのできる、努力家のルイスとの相性は良かった。
そのおかげで、すっかり慣れた様子でルイスは手入れを手伝いながら、ポーラへの質問へ答える。
「――いい先生だと思う。相当に博識だし、教え方も上手だしね」
その評価は嘘ではなかった。だが、ルイスは、未だにアルバートが好きになれなかった。理由は、分からない。
アルバートは客観的に見て素晴らしいとルイスも認められる。博識だが、ひけらかすようなところはない。性格は控えめで、誰にでも丁寧に接する。そして、授業の休憩として入れてくれる紅茶はおいしい。
それは認められるのに、どうしてだかルイスはアルバートが好きになれないのだ。
理屈ではない感情の部分が、アルバートを拒否している。なんというか、完璧すぎてうさんくさい、というのが最もあっている気がする。なぜ家庭教師になりたかったのかも、結局分からないままだ。それを言わなくていいと言ったのはルイスだし、言いたくない事情を詮索するほど下世話ではないつもりだったが、どこかでアルバートが信用に足る人物であるのか図りかねていた。
「そう。いい先生なら良かったわ。スチュアートさんのことは、突然のことで困っていたもの。でも、お母様のご容態が優れないのなら、無理にお引止めするわけにもいかないし…ルイスは入学試験を控えているし…どうしようかしらと思っていたのよ」
「…入学試験は、大丈夫だよ。ちゃんと、合格するから」
ルイスは、苦笑してポーラに答えた。
ルイスが行く予定なのは、国内最高レベルと言われる名門校であったが、自信はあった。学力審査で落ちるとは思えなかった。通常以上の理解力と暗記力に恵まれていることに、ルイスは感謝していた。それは、どこか不遜な自信ではあったが、事実に裏打ちされていることでもあった。
「それよりも…新しい生活の方が心配かな。――それに、寄宿舎に入ったら、母さんの手伝いも出来なくなるし…」
ルイスは、棘のある種類の花を手入れしながらそう言った。
ポーラの白い手を傷つけないように、棘のあるものは自分で積極的に手入れするようにしていた。男である自分の方が、傷が残っても問題ないだろうと思ったからだ。それに、ルイスはトゲで手を傷つけたことがあまりなかった。ポーラは、それはルイスが注意深いからだと、いつも褒めてくれる。
「――ルイスは、優しい子ね」
そんなルイスに、ポーラは微笑む。
ポーラはどんな些細なことでも、ルイスを褒める。それが、どんなに深い愛情からきているのか、ルイスはきちんと理解していた。
惜しみなく注いでくれる愛情に、ルイスは嬉しくなる。そして、少しだけ申し訳なく思った。
こんなにも愛してくれる人がいるのに、満たされているはずなのに。どうして、「寂しい」などと思わなければならなかったのかと。
自分がひどく恩知らずで嫌な子供に思えて、ポーラの「優しい子」という評価に、大嘘つきになったような気がした。
ルイスは、ポーラに分けてもらった花を、部屋の窓際にかざった。深い藍色のブルーベルと、毅然とした白の薔薇が部屋に飾ってあるのは多少に少女趣味かもしれなかったが、部屋の中を華やかにしてくれた。
ガーデニングを手伝っているだけあって、ルイスも花が好きだ。
花瓶の中で、ブルーベルと薔薇が丁度いい塩梅になるように細かい調整をしていた。
そうしていると、窓の外に人影を見た。ルイスが何気なくその人を見ると、それがアルバートだということが分かった。
ルイスの部屋のその窓からは、森が良く見える。そもそも屋敷自体が村の最東にあるのだから、その間にさえぎるものは何もない。
何をしているのだろうと、ルイスは疑問に思い、アルバートを目で追う。アルバートはこちらに背を向けて歩いている。つまり、森の方へ向かっているのだ。
ルイスは眉根をひそめる。あの森が危険だということはアルバートも承知しているはずだ。
自分自身が、あの森を悪くは思えないからといって、危険な森にひとりで行く人間を見かければ危ないと注意もしたくなる。
ルイスは、部屋を出ると、足早に外に出ようとする。
「きゃ…っ!」
しかし、廊下を走るという行為についてくる当然の危険性として、曲がり角のところで、メイドのひとりとぶつかってしまう。体重の軽いルイスと、小柄なメイドは、お互いにしりもちをつく格好となる。
「ご、ごめん。大丈夫…!?」
ルイスは、慌てて起き上がって、転んだメイドを助け起こしながらそう言った。
「大丈夫です…。それにしても、ルイス様、随分お急ぎなのですね」
歳若いメイドにそう微笑まれて、ルイスははっとした。
「…ああ……そうだ。ごめん!」
そう改めて謝罪してから、ルイスは走りはしないものの、足早に外に出た。
玄関を出て、森の方を見たが、そこには誰もいなかった。ルイスは、森の近くまで歩いてみる。
こんもりと茂った森の方を見ても、やはり人影はない。
「ルイスッ!!」
そんな中、大声で名前を呼ばれて、ルイスはびくりとなった。
「…と、父さん…」
「そんなところで何を? 危ないから魔の森へは近づいてはいけないと、昔から言っているじゃないか…。ルイス、お前はこの年寄りの寿命を縮めたいのか?」
スタンレーは、悲しそうに顔をゆがめてそう言う。
ルイスは、そんなスタンレーの反応を若干大げさに感じた。入ったわけではない。少し近づいて、様子をうかがっただけではないか。
だが、スタンレーがことこの問題になると大げさになるのは今に始まったことではなかった。
普段は、スタンレーはむしろ器が大きい。子供の頃ルイスが誤って花瓶を割ってしまっても鷹揚に笑っていたし、剣をやってみたいと言ったルイスに、真っ青になって危ないからと止めようとしたポーラをなだめたのはスタンレーの方だった。おかげで、ルイスは週に1回、街へ行って剣を習うことが出来るようになった。また、ルイスが多少の怪我をしても、『男は怪我をしながら強くなるものだ』とばかりにかまえていたスタンレーだ。
それなのに、スタンレーは、森のことになると、顔色を変えるのだ。
その変わりようはルイスから見ても不可解で、1度、森で何かあったのかと聞いたことがある。すると、スタンレーは聞き飽きたような、昔の伝説を持ち出してくる。そんな大昔の、嘘か本当か分からないような話を聞きたいわけではないのは分かるだろうとルイスは思ったのだが。
そして、その神経質さをもって、スタンレーは眉根をひそめていた。
「…分かってるよ。ただ……へストン先生が…この森に入ろうとしていたから…止めないといけないと思って…」
「ヘストン先生が?」
それは意外な返答だったらしく、スタンレーは目を丸くする。
「うん。途中で見失ってしまったんだけど…。だから、本当にこの森の中に入ったのかどうかは分からない。でも、こっちの方に歩いていたから」
「とりあえず、ルイス。館に戻ろう。こんなところにお前がいると、私の心臓が縮んでしまう……」
スタンレーはそう言いながら、ルイスの腕を掴むと、強引に歩き始める。
「でも……っ! ヘストン先生が…っ!」
それに、ルイスは森を再度見る。
脳内に、ずっと聞かされ続けた森の逸話が駆け巡る。どこまで本当のことだか分からないと笑い飛ばしたはずなのに、実際に身近な人がそこに行っているとなると、心配の気持ちが勝った。きっと、この森に行きたがっていた幼い自分を見ていた両親も、こんな気持ちだったのだろうと、ルイスは思った。
「ヘストン先生には、この森が危険だと知らせてある。だから、わざわざ入って行くはずがない。もし仮に入っていたとしても…そのためにお前が危険を冒す必要はない」
「…そんな……」
スタンレーに引きずられるようにしながら、ルイスはそう言った。
「…もちろん、夜になっても先生が帰ってこなければ、皆に知らせよう。まあ、もちろん、何事もなく帰ってきてくれると思うがね。きっと、森以外のどこかに少し出かけているだけなのだから」
そういうスタンレーの言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。
「でも…」
反論しかけたルイスに、スタンレーは泣きそうな顔を向ける。
「ルイス……」
「分か…った」
そんな懇願するような顔をされて、それをはねつけられるほどにルイスは強くなれなかった。
「お願いだ。ヘストン先生を追うためとはいえ…もう森の方へは行かないと約束してくれるね?」
「…はい」
その言葉が、スタンレーを安心させると知るから、ルイスはそう言う。
父親が、自分のせいで泣きそうな状況というのは、けして心地いいものではないのだ。