11. 糧
それは、きらびやかな空間だった。大理石で組み立てられた回廊は美しく、壁は細かく金を大胆に使った装飾がほどこされ、壁の反対側は、ひらけて広い中庭を一望できるようになっていた。中庭では、美しい花々が咲き誇っている。中庭の真ん中にある大きな噴水は清らかな水を撒き散らし、人工的に作られた小川の上には、小さな石造りの橋が優雅にかかっている。
その回廊に、3人の人物がいた。そのうちの2人は大人である。一番目を惹くのは、黒髪に琥珀色の瞳を持った、この世のものとは思えないほどの美貌をもった男だろう。黒と金と赤の豪奢な衣装を身にまとい、その端正な容姿は、血が通っていないかのようですらある。男は、もうひとりの男と厳しい顔をしながら、話しこんでいた。
相対する男はというと、こちらも端正な容姿をしている。つややかな黒髪はもうひとりの男よりも癖が強く、瞳の色は赤い。紺と銀を基調にした服を身にまとっており、琥珀を好んで身につけていることが分かる。人間離れした美貌はもうひとりの男と同じだが、この男の場合、それが妙に生々しいようなところがあった。色気がありすぎて、どこか退廃的な印象すらする美貌である。
その2人の男が話し合っている姿をじっと見ているのは、人間だとしたら10歳前後でしかなさそうな男の子だ。幼いながらに、その美貌はぬきんでており、黒髪に琥珀色の瞳を持っている。白に金のふちどりの上着をまとっており、中に着込んだベストは深緑で、金色で唐草模様が織り込まれている。白いタイを止めるのは、瞳の色と同じ美しい琥珀。――それは、在りし日のルドヴィクスであった。
ルドヴィクスは、2人の会話が終わるところを見計らって、歩んでゆく。
『……父上……!!』
その声音には、どこか懇願するような響きがある。
その声に、琥珀色の瞳の青年が冷たい目を向ける。
『どうした、ルドヴィクス』
『お、お久しぶりです。父上。突然の無礼をお許しください。――あの、エルフ族との和睦を成しました。条件は、以前父上が仰っていたように……』
『……報告は受けている。用は、それだけか』
『つきましては……!! 種族の友好のための祝賀会をと!! 父上にも、ご出席いただきたく、存じます……!! どうか……』
そう言うルドヴィクスの瞳は、懇願に満ちている。
『必要ない。領地問題で立て込んでいる。余の息子たるお前がいれば十分だと思うが?』
『……は……い。御意に、ございます』
そう言うルドヴィクスの瞳からは、光が失われていた。
『余は忙しい。瑣末なことで時間を取らせるな』
男は冷たくそう言うと、歩みだす。
ルドヴィクスは、その背中に思わず手を伸ばそうとして、それを硬く握り締めた。唇を硬くかみ締める。
なぜ、父親が気を悪くしたのか分かっていた。祝賀会への出席など、本来ならば直接打診することではない。然るべき体裁を整えた招待状を出し、その可否を受け取るべきなのだ。
それでも、ルドヴィクスは、このような方法を選んでしまった。それが、父親と話すことのできるチャンスだと、そう思ってしまったから。口実がなければ、会いに行くことすら出来ない人であったから。
そして、夢を見たのだ。困難と言われた、エルフ族との親睦を成し遂げた功績を、ひと言でもいたわってくれるのではないかと。“よくやった”そう、ひと言でも言ってくれるのなら、今までの努力の全てが報われるような気がしてしまったのだ。
人間とは寿命も成長の速度も違うとはいえ、ルドヴィクスは彼らの種族にとっては、まだ子供と言って差し支えのない年齢でしかなかった。仕事よりも、遊びたい年頃だ。それでも、子供らしい楽しみの全てを投げ捨てて、一心に父親の役に立とうとするのは、ただただひと言でも優しい言葉をかけて欲しいという焦がれるような気持ちからだ。
『やはり……私は父上に疎まれているのですね……。マウリティウス叔父上……』
心のどこかで期待していた希望を、粉々に打ち砕かれて、ルドヴィクスは暗い声で赤い色の瞳の叔父に話しかけた。
『そんなことは。ただ、兄上は虫の居所が悪かっただけだと思いますよ。私が、その前に芳しくない報告を差し上げてしまったので。――エルフ族との友好の問題は大事。その責を幼い君に一任するというのは、非常に信頼している証拠だと思います』
マウリティウスの言葉に、ルドヴィクスは首を振る。
『……父上は、母上を心の底から愛しておられた。ゆえに、母君のお命を奪って、この世に生を受けた私を憎んだとしても……。仕方ないと……分かっているつもりなのだが……』
その言葉に、さらに否定するのも辛そうな様子で、マウリティウスは黙り込む。
ルドヴィクスは求めても得られないものだけを求め続けて、回廊の彼方に視線をはせていた。
(……そうだ。俺は。――父親ニ、愛サレナカッタ子供――)
不意に、ルドヴィクスは自分の胸の穴が開いたような気がした。それは、悲しみではない。ただ、果ての無い空洞のようなものを、自分の胸の内に感じた。
遠い日、ただただ父親の背中を見ていた情景と、現在の光景に、ルドヴィクスは一瞬混乱する。
ルドヴィクスは、デイヴィッドと宝剣の取り合いをしているかのような格好で固まっていた。大きな琥珀のはめ込まれた、豪奢な宝剣を見つめる。酷く、懐かしい感覚。それは、少し種類は違えども、初めてレオナルドゥスの姿を見たときにも似た近親感だった。
「俺、の……?」
間違いなく、自分のものだと確信した。そして、そこに宿っていたのは、自分の力であったと。体が、熱かった。形のない何かが、突然大量に注ぎ込まれて、そのたけり狂ったエネルギーが解放を求めているかのような感覚。
ルドヴィクスは、自分の中の声が命じるままに、叫ぶ。
「大提督の渦!!」
その声とともに、ルドヴィクスの力が水に変換される。そして、その渦状に圧縮された水がすさまじい水圧となって、デイヴィッドに直撃する。
デイヴィッドは、抵抗しなかったかのように、ルドヴィクスには見えた。それは、まるで激流の中でなすすべもなく流されていくかのように。デイヴィッドは無防備にその激流に巻き込まれて吹きとんだ。
宙を舞った後に、デイヴィッドは地面にたたきつけられる。ルドヴィクスには、それが相当の重症だということが分かった。腕が妙な方向に曲がっている。体のいたるところから出血している。命に関わるものではないだろうが、当分は満足に動くことすらできないほどの重症だろう。
「……く。やはり、効きますね……。……私は非力だと言ったでしょう……? 出来れば、お手柔らかにお願いしたいものですね……」
口から血をたらしながら、デイヴィッドは笑う。起き上がる気力もないのか、地面に伏したままだ。
そして、彼の言葉が嘘ではなかったことをルドヴィクスは理解する。今、デイヴィッドから感じる力は、驚くほどに微弱なものだった。戦いで消耗しているのもあるだろうが、そもそもの力が話にならないほどに小さなものでしかないのだろう。彼がルドヴィクスと渡り合えたのは、宝剣に宿ったルドヴィクスの力をコントロールしていたからにすぎない。
余裕ぶって笑っているものの、デイヴィッドは明らかに呼吸も荒く、辛そうなのは見て取れた。それは、哀れを催すような光景であった。
だが。ルドヴィクスの心は、不思議なほどに凪いでいた。心の中に、ひと欠片も、デイヴィッドに対する同情は沸いてこなかった。
敗者として、血まみれになりながら地に伏すデイヴィッドへの目は、氷のように冷たかった。
ルドヴィクスは、当然だと思った。分もわきまえず、歯向かってくるような輩が、このような有様で地に伏すのは、あまりに自然なことだった。彼は、敵として立ちはだかってきた。敵を打ち倒すのは当然のこと。
いつかの日、「敵」だと認識していたアルベルトゥスの怪我でさえ、心配していたかつての少年とはかけ離れた温度で、ルドヴィクスはそう考える。
だが、そんな自分の変化に気づいたとしたら、ルドヴィクスは動揺しただろう。――まだ、彼は動揺しただろう。アルベルトゥスをして、自己認識の不安定さと呼ばしめる揺らぎによって。だが、ルドヴィクスはかつての自分と今の自分の変化に気づかない。
ただ、敵は滅されるべきだと、勝者の傲慢さをもって、敗者を睥睨する。手には、先ほどデイヴィッドから奪った宝剣があった。ルドヴィクスは、それをデイヴィッドの喉もとにつきつける。
「いくつか質問をする……。――なぜ、俺を知っている? そして、この宝剣は俺のものであったはず……なぜ……お前が持っている?」
「黙秘権は……なさそうですね」
デイヴィッドは、この状況にありながらも、どこか余裕のある様子で笑う。
それが、ルドヴィクスの神経を逆なでする。
「……食事だと言っていたな……。お前が……ハース家にいた時……。あの家の人間と……親しそうに見えた。……ジャスティーヌはお前を慕っていた……。なのに何で……!! 同じ……人を殺したり出来るんだ!!」
怒りのままに、ルドヴィクスはそう言った。しかし、下から見上げてくる、青い瞳があまりに冷たく静かなことに気づき、思わず動揺する。
「――では、殺してください」
「……え?」
「我々、ガンカナー族は、人の精を喰らわねば、生きていけない生き物……。いわゆる、淫魔ですよ。極上の夢の代償に、精を喰らって生きる……。人を殺すことが悪だというのなら……そうしなければ生きてはいけない生き物の存在が間違っているというのなら……貴方の手で、私を殺してもらいたい。それが、他の命を否定するものの義務ではありませんか……? ご安心下さい。それが、他ならぬ貴方の解ならば、私は全てを受け入れます……」
ルドヴィクスは、デイヴィッドの静かすぎる瞳に、その言葉が真実であることを悟った。
そして、気おされる。ただ無力に地に横たわるしかない男を相手に、完全に飲まれる。しっかりとデイヴィッドの喉に当てていた刃の切っ先がゆるむ。
「――弱い目だ」
「……え?」
デイヴィッドの言葉に、ルドヴィクスは虚をつかれる。
次の瞬間、全く無力に横たわっていると思っていたデイヴィッドがいきなり力を振り絞ってきたのに、ルドヴィクスはとっさに飛びのいた。
「ルドヴィクス様!!」
その時、聞き知った声がした。ルドヴィクスは、振り向かずとも分かった。それは、アルベルトゥスの声だ。
「なぜここが……」
「遅れて申し訳ありません、ルドヴィクス様。敵の術により撹乱されておりました……。――そして……まさかこんなところで会うとは思わなかったぞ。ダヴィド……」
アルベルトゥスはそこで言葉を切って、傷だらけで辛うじて立っている状態のデイヴィッド……否、ダヴィドに冷たい目を向けた。
「言ってくれるね……。僕の気配を察知して、このあたりをかぎまわっていたのは貴方では? ……アルベルトゥス」
「やはり、ルドヴィクス様の御剣を持ち出したのはお前だったか。……何のつもりだ? 本来ならば、何があろうともルドヴィクス様にお返しするが筋。それが、ルドヴィクス様に刃を向けたなどと……。どんな言い訳も通用はしないと分かっているだろうな?」
アルベルトゥスの言葉に、ダヴィドは馬鹿にしたように冷笑する。
「言い訳を、しなければならないのは貴方の方では?」
ルドヴィクスには、その意味は分からなかった。しかし、その言葉がアルベルトゥスに酷い動揺を与えたのを感じ取った。アルベルトゥスは、動揺を素直に顔に出すほど可愛い性格はしていない。アルベルトゥスは相変わらずの眉ひとつ動かさない無表情。しかしほのかに感じた違和感は彼が動揺をしていたと察知するのには十分だった。
ダヴィドは、その唇を笑みの形にゆがめたまま、ルドヴィクスの方をむく。先ほどのルドヴィクスの攻撃による傷は、確実に彼を苦しめているはずなのに、痛々しい様とその余裕の態度が妙に不一致で、ルドヴィクスはぞくりとした。
「ルドヴィクス様。覚えていて下さい。――私は、貴方になら存在を否定されてもかまわない。ですが、今の貴方ではお話になりません。……私が命をささげてもいいのは、そんなに弱い目をした貴方ではない。――それでは、御前を失礼」
「待……!」
妙にうやうやしい一礼に目を奪われた瞬間、ダヴィドの体は、谷の底に吸い込まれていった。
静止の声は間に合わず、思わず崖の下を見たルドヴィクスの目は、絶望的に流れ続けるはるか下の急流だけを捉える。
普通ならば、助からないだろう。しかし、ルドヴィクスにはダヴィドが死を選んだとは全く思えなかった。あれほど挑発してくれて、簡単に自殺するなど勝手すぎる。ダヴィドは生きている。それを、ルドヴィクスは確信していた。
「――アルベルトゥス。……あいつは、何者だったんだ」
ルドヴィクスはそう問いながら、地面に力なく横たわっていたレオナルドゥスの体を抱き上げる。その傷が思ったよりも深くはないことに安堵し、自分の力を送り込むことで回復を促進させた。
「かつて、ルドヴィクス様に仕えていたものです」
ルドヴィクスの質問に、アルベルトゥスは丁寧に答える。
「……仕えて、か。なあ、俺は何なんだ……? 何故お前は俺に忠誠を近い、ダヴィドという男は敵対してくる……? 何故、俺は……父から……」
「ルドヴィクス様……。その答えはご自分で……」
「自分で見つけろというのだろう!! お前の言うことはいつもそれだ……!! 俺を人としての平穏な生活から無理やり引き離したくせに肝心なことは何も言わない!! 教えない!! 大切なものを失わなければならなかったのが……一体何のためだったのかを知るのすら……!」
激昂して、アルベルトゥスを怒鳴りつけていたルドヴィクスだが、はっとして、村の方を見た。
離れた場所から、煙が上がっていた。焚き火と悠長に考えるにはあまりに大量の煙は、どこかで火事が起きていることを教えていた。そして、問題はその方角。
ルドヴィクスは、それがハース家のある方角だと理解していた。
当たっては欲しくない予感が、ルドヴィクスの胸中を駆け巡る。――しかし。そういった嫌な予感ほど的中してしまうのが、世の中の常であったのだ。




