2.教師と秘密
「ヘストン先生は、このあたりは始めてですか?」
ルイスの部屋で2人きりになった後、ルイスは間を持たせるためにそう質問した。
「そうですね。…エインマハのあたりとは、また勝手が違って戸惑っています」
ルイスはアルバートの答えに納得して頷いた。
エインマハは、ルスカ王国の首都だ。ルイスも何度か行ったことがあるが、静かな田舎になれた身では、ひたすらにその人の数と家々の密集っぷりに驚くばかりだった。国王の住居であるのセントマルク宮殿など、その壮麗さに唖然とする他ない。
逆にその光景になれた人間からすれば、この田舎の何もなさに驚くのだろう。
たしかに、アルバートには鄙の地より都会のほうが似合っていた。所作のひとつひとつが洗礼されていて、それを見るにつれ、彼が家庭教師を務めているという違和感がルイスの中で膨らんでゆく。
「――先生は都会の方ですか。それならば、何もないところだと思ってらっしゃるでしょうね。正直俺もそう思うのですが…それでも、景観の美しさだけは保障しますよ。俺は思うのですが、東から朝日が昇る時の美しさは、この村でしか見ることのできないものだと確信しています」
ルイスは、そう言う。
ルイスの朝は早いが、茜色に染まった空が黄金に更に色づき、森の果てから太陽が姿を現してくる瞬間が何よりも好きだった。それは、神聖さを思わせるほどに荘厳な時間だった。
「――東といえば、森がありますね。たしかに、あの森が黄金に色づくのは美しいでしょう」
アルバートの同意に、ルイスは少しだけ嬉しくなった。忌まわしいものとあの森を忌避する村人にはあの森がまがまがしいものに見えるようだった。だからこそ、ただ綺麗だという印象を共有できるのは嬉しい。
「…そうなんです。……あ。でも」
「ルイス君?」
言いよどんだルイスに、アルバートは首をかしげる。そうすると、美しい銀糸の髪がさらりと揺れる。先ほど知ったのだが、アルバートの癖ひとつない銀髪は腰に届きそうなほどに長い。それを、真後ろでひとつで束ねているようだった。
「…その……。あの森には、昔から不吉な噂があって。もちろん信憑性があるかは怪しいものですが…。昔からあの森での怪死が多かったのは事実ですから。村人は、あの森には不用意に近づかないようにしています」
ルイスは、不本意ながらそう言った。
折角森を美しいと認めてくれたアルバートにこんなことを吹き込みたくはなかったのだが、アルバートが何も知らずにあの森に近づくことは避けなければならなかった。
「…そういえば、先ほどスタンレー様も仰っていましたね。あの森は『魔の森』と呼ばれていて、邪悪なものがひそんでいるのだと……」
「すでに父がお耳に入れていましたか」
警告を与えていたらしいスタンレーに、ルイスは苦笑する。
「――美しい森なのに…邪悪なものが潜んでいるとは信じられませんね」
だが、ルイスはアルバートの言葉に、少しだけ救われたような気がした。ほんの、少しだけ。
「そういえば、ヘストン先生はスチュアート先生とはどのようなお知り合いなのですか?」
ふと、気になっていたことをルイスは口にする。
「…実は知り合いというほどではないのですが、私が家庭教師の職務を希望していることを知って、紹介状を書いてくださったのですよ。いい方ですね」
アルバートは微笑んでそう言う。
しかし、それにルイスはそれにざわりとする違和感を覚えた。
――どうして、知り合いというほどでもない人間が、家庭教師の職を探していることを知ったというのだろう。仮にアルバートが困っていたとしても、赤の他人が無職で困っているのを見て、紹介状を書くほど、マライアは軽々しい性格ではなかった。
紹介状とは、雇い主に、『この人は信用できる人です』と宣言する保証書のようなものだ。昨日今日会っただけの、身元も知れぬ相手のために書くものではない。
「成り行きではなく、希望してらしたのですか? どうして…」
気持ちの悪い違和感を抱えたまま、ルイスはそう質問した。
アルバートが女性であったのなら、納得いく答えになったのだろう。中流階級以上の教養ある女性にとって、一般的に女性が職を持つことは恥ずべきものだとされる。だが、女性が「レディ」としての対面を失わずにつくことのできる唯一の職業が「家庭教師」なのだ。だから、何らかの理由で独身を通す女性が、家庭教師としての仕事の口を探すのはさほどおかしなことではない。
そしてだからこそ、一般的に女性がつくべきものとされる家庭教師に、男性であるアルバートがつきたがるというのは、ルイスの常識としておかしなことだった。
「…少し、事情があるので。――ルイス君。貴方の問いに答えたいのはやまやまなのですが」
アルバートは、そう言うと、はかなげに微笑んだ。
改めて、アルバートの美貌を知らしめるような、人の視線をひきつけるような微笑みであった。それに見ほれそうになる自分を叱咤し、ルイスは目をそらすと窓のそとを見た。
「…分かりました。言いたくないのですね。そならば、俺もこれ以上は問いません」
「――すみません」
「いえ。言いたくないことぐらい、誰にでもあると思っていますので…。というよりも、人って、言いたくないことを無理に問い詰められたら…嘘をつくほかないじゃないですか。それが、嫌なので…」
「嘘は、お嫌いですか?」
ルイスは、アルバートの問いに、妙なことを聞くと思った。
「…必要な嘘もあることは分かっています。嘘は必ずしも悪意からのみ生じるわけでもないことも知っています。…それでも、好きか嫌いかと問われれば…嫌いですね。しかし、皆そうではないですか? 嘘をつかれるのは気持ちのいいことではないでしょう。それに、嘘に振り回されて、本当のことが分からなくなるのは、嫌です。それぐらいなら、『言いたくない』と素直に言われるほうが、好ましいと俺は思います。『言いたくない』というのは、ひとつの真実ですから」
ルイスは、そう言った。
「なるほど、心しておきます。私は、貴方には嘘をつきません」
ルイスの言葉に、アルバートはそう言う。
しかし、その言葉にルイスは激しい不愉快さを感じた。『嘘をつかない』という誓約ほどうさんくさいものはないと、本能的に思った。
理性は、アルバートなりに誠意を表そうとしている言葉なのに、悪意に取るべきではないと思うのに、感情が激しく拒否感を抱く。
今、自分がとても大きな嘘をつかれたように感じたからだ。
自分でも驚くほどの怒りが、体中を駆け巡る。体温が一瞬で上がった気がした。
「――ルイス君?」
ルイスの様子を不思議に思ったのか、アルバートは不思議そうにルイスの顔を覗きこんでくる。自らの中の理不尽な怒りを殺そうとしているのに、そのアルバートの無遠慮な行為に、思わずルイスは苛烈な瞳で彼を睨みつけた。
そして、その次の瞬間には、そのことを猛烈に後悔するほどには、ルイスは理性的だった。
「…どうかしましたか?」
しかし、そんなルイスの内面に気づかなかったかのように、アルバートは不思議そうな笑みを浮べたままだった。
「…いえ、すみません。考え事をしていたもので」
あの一瞬の怒気に気づかなかったとは、繊細そうな見掛けに反し、案外鈍いのかとルイスは思って、少し安心した。
そして、ルイスは、そう言いながら、かろうじて微笑んでみることができた。自分がアルバートに感じる憤りは不当なものだと己に言い聞かせながら。
だがしかし、ルイスはわざわざ自分に言い聞かせなければならないことこそ、その憤りが間違いなく存在していることだと、気づいていなかった。あるいは、気づかないふりをした。
「――魔界と呼ばれる地は、人間の世界と重なるように存在しています。…魔界はどこにでもあり、どこにもないとも言えます。一般的に忌避されている地は、魔界へと道が通じている場合が多い…。魔界についての詳細は、人間には、未だ謎が多いのが現状です。ですが、かつての魔界は様々な魔族がそれぞれ小部族を築いていたと言われています。魔族とひとことで言っても、その特徴や発生は様々です。人が魔へと落ちることもあれば、長い年月を生きた獣が変化することもあります。また、かつては信仰の対象であったがゆえに息づいたものが、魔へと転じることもあるようです。しかし、いにしえに、あるひとつの魔族の部族が魔界を統一し、魔界は、統一国家となっている。…これが一般的な魔界についての学説です」
人の世の歴史と、魔界史は切っても切り離せない。人は幾度となく、魔界からの侵攻にさらされてきたのだから。
「…質問をしてもいいですか?」
しかし、腑に落ちないことがあって、ルイスはそう言った。
「なんでしょう」
「最近、魔界からの侵攻が活発になろうとしているのは何故ですか?」
ルイスの言葉に、アルバートは静かに彼を見た。
「なぜ、そう思うのですか…?」
「――魔族がティルの街を狙っていると聞いたからです。ティルは、60年ほど前まで、鉄壁の守りを誇る地でした。魔族も魔物も寄り付けないと言われるほどの城塞都市。実際に、いかな強大な魔力を持つ魔族といえども、ティルの攻略には苦戦している。――それをなぜわざわざ攻め落とそうとするのだろうというのが最初の疑問でした。俺は…気になったので、ティルについて調べてみました……。そして、歴史書を紐解くと、ティルはかつての聖地であったことが分かったのです。…それも、このルスカ王国の礎としての。この国を守護する聖都なのです。だから、魔族が狙っているのだと理解しました。…街ではなく、この国そのものを落とすために。ですが、俺の仮説が正しいとすると、今度は何故今までティルを狙わなかったのだろうという疑問に当たってしまいます。…そこの逆説として、聖都だからだという答えが出ました。聖都であり城塞都市であるティルは魔族にとってあまりに攻略が難しい。だから、せいぜい人間界の一部を蹂躙したい魔族にとっては、あまりに労力がかかりすぎた。――つまり、今まではどこかに侵攻があったとしても、それは小さな規模に過ぎなかった。しかし…ティルが狙われたということは…魔界は我々に全面戦争を仕掛けてくるつもりなのではないでしょうか…。それに比例するようにして、こまごまとした魔物がらみの事件なども少なくなっていることも……皆喜んでいますが…俺は不吉に思えてならないのです…。ですが、なぜこんなに魔界のやり方が変わったのでしょうか…。それを考えると……」
アルバートは、ルイスの言葉に息を吐いた。それは、純粋に感嘆のため息であった。しかし、ルイスは、一気に言った自分の仮説が見当はずれであったのかと不安に瞳を揺らす。
「――驚きましたね。…貴方はたしかに聡明だ…」
「間違って…いませんか?」
「ええ。おおむね合っています。――魔界からの侵攻が本格化しそうだ、などということは…。パニックを引き起こす要因として、一般的には伏せられているのですがね。自力でそれに気づかれるとは…」
「…いえ……た、ただ…興味があっただけで…」
謙遜しながら、しかしルイスは、「一般的に伏せられている」ことを、なぜアルバートは承知しているのだろうかと、少しだけ疑問に思った。
「魔界に、興味がおありですか?」
「――はい。重なり合っているのに異なる世界。…すごく、不思議な気がして」
ルイスの言葉に、アルバートは笑っていた。
「な、何がおかしいのですか…!」
馬鹿にされたように感じ、ルイスが顔を真っ赤にさせると、アルバートは苦笑した。
「いえ…ただ、懐かしい気持ちになりまして」
「…懐かしい?」
「――よく似た会話をしたことがあるのですよ、昔に。…人界にある人は魔界に焦がれ、魔界にある魔は人界に焦がれる…。異界に焦がれる……。嗚呼……そういうものやもしれませんね…」
アルバートは、歌うような調べでそう言って少しだけ遠い目をする。かつての何かを、思い出すように。
「ヘストン…せんせ…い?」
異様な雰囲気を、少しだけ怖いと思いながら、ルイスはそう言った。それに、アルバートは微笑んだ。その途端、ぴんと張り詰めた空気が、柔らかなものに変わる。それは、劇的な変化だった。
「――少し休憩をしましょうか。お茶でも入れましょう」
「あ……はい」
白昼夢でも見たかのような心地で、ルイスは生返事を返す。
そんなルイスの様子に気づいているのかいないのか、アルバートは、部屋を出て行くと、ティーセットを携えて戻ってきた。可憐な野いちごの柄が可愛らしいそのティーセットは、スタンレーが気に入って、わざわざヤルヴィ王国から求めたものだ。
「…ありがとうございます」
ルイスはそう言ってから、ティーカップを手に取ると、その良い香りを放っているその紅茶をこくりと飲む。
その瞬間、目を見開いた。いつもの茶葉であるのは分かる。しかし、そのいつもの茶葉が今まで味わったことのないほどにおいしく思えたのだ。上品な味が口いっぱいに広がり、そして次の瞬間には口の中で広がる香りに陶酔する。飲み干した後も、幸せの余韻のように、体は快楽を訴えていた。
「――どうでしょうか。お口にあえばいのですが」
驚いた顔のままのルイスに、アルバートはそう言って首をかしげる。
「…おいしい……」
それに、ルイスの口から素直な感想が漏れる。
「それは良かったです」
「これ…へストン先生…が?」
ルイスは、そう訪ねる。紅茶の味が、入れるものの技量で全く違うのは、承知しているつもりだったが、こうまで劇的に違うものかと驚愕を禁じえない。
「はい。紅茶を入れるのは昔から趣味でしたので、入れさせていただきました」
「そうですか…。とってもおいしいです。何かこつがあるんですか?」
「こつ……ですか。いえ、考えたことがありませんね。ただ…」
「ただ?」
「喜んで欲しい人がいたもので……。それで、何度も練習しましたから……。ただ、それだけです」
「――喜んで欲しい人…それは、誰ですか?」
ルイスがそう訪ねると、アルバートは、あいまいな笑みを浮かべる。
「その話は、いつか機会がございましたら。…あ、そういえば、うっかりしていましたね。先ほどのルイス君の問いに答えていませんでした」
「あ…」
ルイスは、若干アルバートにはぐらかされたように感じた。やはりアルバートはどこかうさんくさい。言えないことばかりだ。言うのが面倒くさいといった様子にも見えない。何を望んでいるのか、何のために家庭教師を勤めているのか、未だに分からないのだ。
だが、先ほどの問い…「なぜ魔族の侵攻が今になって活発化しているのか」という問いに対する答えが気になったのも事実だった。
「…実はそれは、学者たちの間でも、まだ分かっていません」
「…え」
ルイスは、アルバートの言葉に拍子抜けしながらそう言った。だが、アルバートの言葉には続きがあった。
「ただ。…魔界の方で、何か大きな変化があったのではないかと…そう、言われていますね。国家の転換を図るほどの、何かが」
そのアルバートの言葉に、ルイスは、何故だかどきりとした。