7.少女の祈り
「人ですよ」
ルドヴィクスの問いに関する、アルベルトゥスの答えは簡潔なものであった。
アルベルトゥスは、ジャスティーナとの最初の出会いでの短い間ではあったが、ジャスティーナと面識があったはずだった。もしも、ジャスティーナが人ではないのなら、彼ならば分かったのではないかと思い、ルドヴィクスは問うたのだが、答えはあっさりとしたものであった。
久しぶりにルドヴィクスの前に出ることを許されたアルベルトゥスは、甲斐甲斐しくルドヴィクスの食事の給仕をしながら、質問に答えている。
「ではあの力はどう説明する?」
「――時折、ああした『力』を持って生まれてくる者が、人の中にもおります。それに、ハース家は代々のまじない師の家系です。ルーメン教の普及により、その役割を変じざるをえませんでしたが、そもそも祭祀を取り仕切っていた巫女の家柄。今でも、力の強い者が生まれることがあってもおかしくはありません」
「……それは、あの瞳の色と関係があるのか……?」
ルドヴィクスは、考え込みながらそう言った。
あのルビーのような瞳が美しいと思ったのは嘘ではない。だが、たしかに珍しい色彩であるのは間違いない。もしかして、力と相関性があるのかと疑念を抱くが、それもあっさりとアルベルトゥスに否定された。
「おそらく、直接的には関係がないでしょう。――あれは、遺伝子の変異によるものですから」
「……遺伝子?」
耳慣れない単語に、ルドヴィクスは訝しげな声を出した。
「……つまり、人の姿形を作っているプログラムに変化が生じているということです。あの娘の瞳には色素がないのです。だから、体内の血の色がそのまま赤い瞳となるわけです。アルビノ、と呼ばれる症状で、自然界には一定の割合で起こることですよ。――ただ、古くから、ある種の障碍などは幸い、もしくは災いの象徴としてとして敬われたり忌まれたりする傾向はありましたから、厳密に無関係と断じることもできませんが。ルーメン教でも、古代の神官たちの中にはあえて目をつぶす者がいたのはご存知でしょう。まあ、これはルーメン自身が盲目であったことと深い関わりがありますが……。5感のひとつをあえて閉ざすことで、神聖に近づくとする信仰は少なくありません。……アルビノ症の実際の困難など、光に弱いことぐらいですが、その事実と力の関係が厳密に存在しないと断言するのは避けておきたいところですね」
「……なるほど」
ルドヴィクスは、アルベルトゥスの言葉に頷いた。
つまり、ジャスティーナは人なのだ。そのことに安堵する。
己は人ではなかったと理解したときの絶望と痛み。愛していたもの全てを諦めなければならなかったあの瞬間。それを、あの優しい少女に味わってほしいわけではなかったから。
だが、少しだけがっかりしている自分にルドヴィクスは気づいていた。――もしかしたら、仲間かもしれないと思った。その予測が外れて、ルドヴィクスは少しだけ残念に思っていた。――その感情がエゴイズムに満ちていることを知りながら。ルドヴィクスは、少しだけ残念に思ったのだった。
ジャスティーナは元気になってきた兎を、なでた。それに、兎も心地よさそうに目を閉じる。その様子に、ジャスティーナは小さな声で兎のために歌を歌う。その歌が、癒しの力を持っていることを、ジャスティーナは知っていた。
難しいことなど何もない。ただ、想いを込めて歌うだけ。その想いを乗せる旋律は、優しいものであればあるほどいい。
子供の頃から、ジャスティーナには不思議な力があった。それが、この忌まわしい瞳と関係しているのかはジャスティーナには分からない。だが、野遊びの最中、怪我をした小鳥を見つけたのが最初だった。当時6歳だったジャスティーナは、本能的に歌い始めたのだ。それが、癒しの力を持っていることを、なぜか確信していた。
怪我をした部分に手を当ててしまうように、それはジャスティーナにとって自然な行為でしかなかった。
それが、普通の力ではないことを知ったのは、そのことを両親に話した時だ。
村人に知られれば、間違いなく今以上に「魔女」として迫害される原因になるであろう力。
それを知っているのは、ジャスティーナの両親だけであった。
ジャスティーナは、自分が何ものであるのか分からなかった。どうして、このような忌まわしい目を持っているのかも、不思議な力があるのかも。もしかしたら、本当に自分が人ではないと思うことも多々あった。
だからこそ、目の前の命は必死で救おうとしてしまうのかもしれないとジャスティーナは思う。
何かを救うために力を使うことができたなら、自分の力を忌まわしく思わなくてすむような気がした。
だからといて、村のけが人や病人の前で歌うことは出来なかった。そんなことをしようものなら、間違いなく異端として今以上に迫害されるだろう。ジャスティーナは、人が理解できないもの、自分とは違うものに対して、どれほど憎しみを抱いているのかを、悲しいほどに知っていた。
だからこそ、ジャスティーナは、主にマーシャの肩こりを治したり、スコットが薬草を取る際にこしらえた切り傷を治したりするようなことで発揮していた。
この兎を助けたいと思ったのですら、この力を何かに役立てたいと思ったからかもしれないと、ジャスティーナは思う。
ジャスティーナは、兎料理であるラパンの料理を食べたことがある。それを、おいしいと思った。この兎の仲間を食べて、おいしいと思った自分が、兎を救いたいなんて矛盾だとジャスティーナは、理解していた。
人は他の命を犠牲にしなければ生きていけない生き物。
両親が、幼いジャスティーナの前で動物を屠殺することは無かったため、幼い頃のジャスティーナにとって、大好きな肉料理と、友達だった森の動物たちは別の存在だった。だが、程なくしてジャスティーナは、「おいしい」と笑顔で食べていたそれが、犠牲になった命であることを知る。
あまりに当たり前の、しかし幼いジャスティーナにとっては、天地がひっくり返るような残酷な真実に、ジャスティーナはひたすら泣き喚いた。
思いっきり泣くと、体力を消耗して、お腹がすいてくることにジャスティーナは気づく。そんな自分がなさけなくて、悲しかった。貪欲に食欲を感じる自分が、とんでもなく残酷で非道な存在に思えたから。
動物も植物も、命。人は、他者の命を奪いながら生きている。
その真理を、ジャスティーナの心は拒否した。
だが、半ばハングリーストライキのように飲食を拒否したジャスティーナを抱きしめたマーシャの腕を、ジャスティーナは今でも克明に覚えている。
マーシャはベッドにもぐりこんだままのジャスティーナを布団ごと抱きしめたのだった。『ジャスティーナ。たしかに、私たちはいつも他の命をいただいて生きているよね。だからこそ、食前に祈るのよ。命を、いただいて生きているから。だから、感謝を忘れてはいけないの……。だって、食べなくては、生きてはいけない生き物だから。私たちは……』。
その声と抱きしめる腕が震えていることにジャスティーナは気づく。自分の行動が、優しい母を傷つけていることを知った瞬間、ジャスティーナの瞳に新たな涙が浮かんできた。
それは、今までの他者の命を犠牲にしなければならない自分自身を嫌悪し、哀れんだそれではなく、他者のために流すものだった。自分が食べることを、しいては生きることを拒否することが、どれほど母親を傷つけるのか、ジャスティーナは理解した。そして、その深い愛を。
それから、ジャスティーナは食事を取った。久しぶりの食事は、暖かくて、おいしかった。それをおいしいと思うことがやはり申し訳なくて、ジャスティーナは泣きながら食事をした。
それ以来、ジャスティーナは食べ物の好き嫌いをしない。食事を残すことだってしない。
それは、奪わずには居られない命への、せめてもの誠意のつもりだった。
奪わずにはいられないからこそ、せめて感謝をと言ったマーシャの言葉は正論だろう。ジャスティーナはそれに納得しなければならなかった。納得しているつもりだ。
しかし、ジャスティーナは思うのだ。それならばなぜ、神様はそんな風に、他者の命を奪わなければ生きていけないような生き物に、人間をお作りになったのだろうと。
聖典には、地に這うものも海に生きるものも、人が食していいものとして神様がお認め下さったと書いてあった。しかし、全知全能の主ならば、どうして植物のように、太陽の光と水だけで生きていける存在として、全ての命をお作りくださらなかったのかと、ジャスティーナはどうしても考えてしまう。
『聖典には、命はかけがえのないものだと書かれています。それなのに。どうして。私たちは、ほかの命を奪わなければ生きてはいけないものとして。この世に生を受けたのですか』。不敬なほどのその祈りの答えは得られぬまま。
だからこそ、ジャスティーナはせめて目に映る命ぐらいは助けたいのだ。
他の命を犠牲にしなければ生きていけない生き物だからこそ。
ジャスティーナは、自分がどうしようもない偽善者だと思った。
そして、幼い頃に歌っていた童謡を歌い終える。可愛らしく、とても優しい旋律だからこそ、優しい癒しの力を乗せることができる。
そんなジャスティーナの手に、やわらかなもこもこした毛並みを、兎が押し付けてくる。小さな命との間に、たしかにある絆。
それに、ジャスティーナは幸せな気分になって微笑んだ。
人は、命を犠牲にしなければ生きてはいけない生き物だけど、その生には、ぬくもりがあるのだから。
だけど、少女の胸から拭いきれない疑問。
――どうして、私たちを、こんなにも残酷な命としてお創りになったのですか。かみさま。
人は、他の生き物の命を奪い続けなければ、生きていけない。
少しだけ、シリアスなテーマを入れてみました。