6.善意と悪意
アルベルトゥスは、出来るだけ目立たない服に身を包むと、粗末な酒場に赴いていた。人目を引く整った容姿は誤魔化しようがないが、なるべく「気」を押させることによって、注目を浴びないように周囲に溶け込んでいた。
店内には、ジンや安物のビールが並んでいた。アルベルトゥスは、カウンターの席を選んで座った。
「……お客さん、何にします」
愛想の悪いバーテンは、よそ者であるアルベルトゥスをうさんくさそうに見やりながらそう言った。
「……ジンを1杯」
「あいよ」
短い会話で、注文がなされる。
「何だい、兄ちゃん、初めて見る顔だな。よそもんかい」
話しかけてきたのは、隣の席の男だった。茶色の短髪に、灰色の目を持った男だ。大分酒の回った胡乱げな目で、アルベルトゥスをじろじろと見る。
「……何を言っているんだ。私だ、アルバートだ」
アルベルトゥスはそう言いながら、若干力を使う。軽い暗示の術のために力を使うことで、アルベルトゥスの瞳がかすかに金に色づくと、酔っ払いの顔が一瞬うつろになる。しかし。
「おお。アルバートか。久しぶりだなぁ! 元気にやってたか?」
酔っ払いは、そう言って嬉しそうに笑う。
「ダッドさん、お知り合いですかい?」
先ほどの愛想の悪いバーテンがそう言って、アルベルトゥスを見る。
「おお。こいつはアルバートだ!」
がははと笑いながら、ダッドはアルベルトゥスの背中を上機嫌に叩く。
しかし、彼は知り合いと断言する『アルバート』という人間について、それ以上に何も知らないと気づいたら、これほど上機嫌に笑っていられただろうか。彼は知り合いであるという確信だけが切り離されたように存在して、その根拠や記憶が何もないとしたら。
隣に座っている青年が、彼の記憶を都合のいいようにいじり、「知り合い」の位置に収まったのだと知ったら。彼こそが、人ならぬ異端なのだと知ったら。彼は、こんな風に楽しく酔っていられただろうか。
だが、ダッドはその不自然さに気づくことなく、結果として上機嫌でアルベルトゥスを迎え入れてしまった。
「ところで、ダッド。最近、ちょっと離れている間に妙なことがあるらしいな」
アルベルトゥスは、運ばれてきたまずいジンを飲みながら、そう言った。
「……ああ。呪いのことだろ」
「――呪い?」
アルベルトゥスは、若干目を細めつつ、そう言った。
「ああ。隣村の、ハース家のジャスティーナとかいう娘が、村人を呪い殺しているらしいぞ。コウサボリング家の令嬢が変死したのも、あの娘の呪いだとさ。恐ろしいねえ。あの目が魔女の証だとか。俺も1回見たことがあるが、ありゃ不気味だよ……。あの血みたいな目!! ぞっとしたね……。邪眼っていうのはああいうのを言うんじゃないかね……。お前も、悪いことは言わないから、あの娘には近づかないほうがいい。害を与えても呪い殺されてしまうからな……。ようするに、近づかないのが一番さ。と。こんな噂をしていたら、俺も呪い殺されてしまうかな……。くわばらくわばら」
どこまで信じているか分からない様子で、ダッドはそう言って笑い飛ばす。
「……呪い……。ダッド。その噂の出所を知っているか……?」
「出所ぉ? んなもん、皆言ってるよ! あの娘は呪われた取替えっ子だとね!」
ダッドが陽気にそう言うと、隣の男が、こちらも酔いどれた様子で口を開いた。
「ハース家ってのは、今は薬草を専門にしたまじない師なんて言ってるけど、昔は、術殺なんかを請け負っていたってぇ家柄らしいぞ。しかも、その業のせいであんな薄気味の悪い娘が時々生まれてきて、しかも邪悪な力を持って生まれてくるんだと!」
大仰な様子でくちばしを突っ込んでくる男に、周りの酔っ払いも、やれ恐ろしいだのなんだのと盛り上がりだす。
酒場の中では、ハース家についての出所も怪しい噂が、蔓延していく。
「そういえば、聞いた話では、娘が不審死を遂げた村人のひとりが国府に陳情を出したそうだけどな……。今、国は別のことで手一杯で俺たちの面倒なんざ見てられないんだとか」
「自分の身は自分で守るしかないってか? お上は、俺たちから税金を搾り取るだけ搾り取って何もしちゃくれねえ……。せいぜい、あの一家と関わらないようにするぐらいだよ、俺たちにできんのは」
悔しげに吐き出された言葉に、そうだそうだと、酒場の中に同意が満ちる。
恐ろしい魔族がいることを知りながら、ほとんどの人間はそれに対処する方法がない。ただひたすらに、自分がそういったものに関わらずに暮らせるように祈るだけ。
この酒場の一席にすわる男が、彼らが恐れるそれだとも知らずに。
それは、ひたすらに愚かで無思慮で、無力なだけの村人の姿であった。身分制度が厳格なこの国では、階級によって話す言葉も平均身長ですら違う。貴族の気まぐれや国府の力によって、簡単に押しつぶされてしまうような無力な民。
恐ろしい魔族や魔物がいるのだと知っていても、何ら対処する方法も持たずに、ただそんな危険と関わらずにいられることだけを望む。
世界はあまりに不合理で、彼らはあまりに弱くて。安物の酒で、彼らはその痛みを忘れようとするのだ。アルベルトゥスからすれば、泥水のようなまずいジンが、彼らにとっての祝福なのだ。
そして彼らは酔って陽気になり、アルベルトゥスの肩に腕をまわす。
「本当、ああいうのは近づかないのが一番だねぇ。死んじまったら、うまい酒も飲めなくなるってもんさ! おい、ジン追加だ! こっちの兄ちゃんにも入れてやってくれや!!」
それに、アルベルトゥスはこれ以上有益な情報は得られなさそうだと、ため息をついた。
「残念だが……。用事が出来たので失礼する。――まあ、酒でも飲んで……辛気臭い話は忘れるといいさ」
立ち上がってそう言いながら、アルベルトゥスの瞳は一瞬だけ金色に染まる。
「ああ……そうだな。忘れる……」
うつろな目でそう言う男たちを興味も持たずに一別し、アルベルトゥスは数枚の銅貨をテーブルの上に置くと、外に出た。
「……ウサちゃん……!! 大丈夫!?」
約束どおりに、数日後にジャスティーナとであった森を歩いていたルドヴィクスがまず聞いたのは、切羽詰ったようなジャスティーナの声だった。
その声音から、何か切羽詰った事態を感じ、ルドヴィクスはゆっくりと散歩を楽しむようにしていた足を速めた。
そして、その目に飛び込んできたのは、血まみれの野兎と、それを抱いているジャスティーナ。
ジャスティーナは、野兎を抱いたまま、すがるようにこちらを見てきた。
「……ジャスティーナ! その兎は……!?」
「――分からないの。たぶん、狐にでも襲われたんだと思うけど……。どんどん息が……!」
ルドヴィクスは、ジャスティーナの言葉に促されて、彼女が抱いている兎を見る。もこもこした茶色の毛並みが、血で赤黒く染まっている。目の焦点があっておらず、そして苦しそうな息は、先の長くないものの証拠だと、ルドヴィクスは知っていた。
「この子は……君のペット……?」
助かる可能性があまりに低いことを知らせなければならない憂鬱で、ルドヴィクスは顔色を暗くしながらそう言った。
「違う、けど……。でも、助けなきゃ……!」
腕の中の、小さな命を守りたいと、ジャスティーナは涙を流す。
少女の善良さ。小さな命を惜しむそれに、しかしルドヴィクスは、何だか妙に冷め切った気持ちを持て余していた。その冷え冷えとした自らの感情に、自分自身で驚くほどに。
なぜならば、ルドヴィクスは昨晩のディナーで牛肉を食べたからだ。
極上の肉であればあるほど、味付けはシンプルなほうが美味である。それを知っているアルベルトゥスの味付けは完璧だった。サーロインステーキは、ルドヴィクスの好きな料理のひとつである。
だが、その肉が生きた牛を殺して得たものであることを当然ルドヴィクスは知っている。
そして、ルスカ王国では一般的に兎肉、つまりラパンも食用とされる。森の中に生息している野兎は、運がよければ猟師でなくてもつかまえられる上、味も美味であるとして庶民のご馳走と言える。ラパンを食べたことの無い人間は少ないだろう。
生きるということは、数多の命の犠牲の上に成り立つもの。それは、生き続けるというエゴイズムに他ならない。
それを受け入れて、人は食事をするはずだ。それなのに、生きるために命を殺してむさぼることを受け入れた人間が、目の前で死にゆく同じ命に対して涙を流す。その矛盾が、ルドヴィクスに不快さを呼んでいた。
通りがかりの小さな命を守りたいと嘆く少女のそれが、ルドヴィクスには生きるという加害行動に対する無頓着さ、無関心さに思えた。
彼女は、貧しい暮らしの中で、たまに食べられる肉はご馳走だと、この前言っていたのだ。
もし、ジャスティーナがラパンだけは食べていなかったとする。しかし、それは何故だ。「可愛い」からか。ならば、可愛くない牛や豚、鳥は殺しても構わないが、兎は可愛いから殺しては駄目だとでも言うのか。そちらのほうが、よっぽど命に対して不真面目ではないか。
――ルドヴィクスの感じたそれは、正論であっただろう。それはどこまでも正論で、だからこそ正論でしかなかった。
「……もう。そいつは駄目だよ。――致命傷だ……」
ルドヴィクスは、そう言った。それは、自分ですら驚くほどに冷たい声音だった。
しかし、必死のジャスティーナはそれに気づいていないようだった。
「でも……何か……」
そう言ってから、ハッとしたような顔をする。
「何か……。駄目でもともとだもの……!」
そう言ってから、ジャスティーナは目を閉じた。
何をするつもりなのかと、ルドヴィクスが目を見開いていると、彼女は、歌いだした。
それは、優しい調べだった。もしかしたら、この地方の童謡だろうか。無邪気で、可愛い歌。それが、ジャスティーナの美しい澄んだ歌声で再現される。
それに、ルドヴィクスは圧倒されていた。
ジャスティーナの歌に人を惹きつける何かがあることには気づいていた。しかし、今のこれは。
この前の歌が、美しいだけの音の派なら、今のこれは、鮮やかな実体を持った何か。この前の歌が、風が木の葉を揺らすように人の心を揺らすのなら、今のこれは、水の流れのように人の肉体そのものを捉える。それは、ただの美しい旋律ではなく、たしかな「力」をもった術だった。
そう。古来、歌とは魔術の一種であった。芸術というものは、そもそも祭祀から生まれたもの。舞踏は神にささげる舞いであり、歌は神にささげる賛歌であった。
一神教の普及によりすたれてしまったが、かつてはこの地にもバードと呼ばれる、歌をして魔術を行う者がいた。
――その知識が、どこからきているのかも分からぬままに。ルドヴィクスは、一瞬でそれを理解した。
そして、彼女が何のために力を発現させたのかは、見ずとも分かった。
瀕死の野兎に、生命力を与えている。それは間違いなく、癒しの歌だった。ジャスティーナの、力。
彼女の願いが、力となって野兎を救っている。
それを見ながら、ルドヴィクスは唇をかみ締めていた。誰も見ていないその表情は、どこか頼りなく子供じみていた。
ルドヴィクスは、負い目と痛みを抱えていた。彼女の癒しの歌で、大切なことを思い出したからだ。
かつての自分ならば、理屈ぬきに、彼女と共に野兎の安否を心配し、彼女の起こした「奇跡」に手放しで喜んだはずだったからだ。
理屈ではないのだ。目の前で失われる命に対する想い。それは正論ではない。理屈もない。ただの、不合理で愚直で善良な感情でしかなかった。
(だが、かつての俺にはそれは許されなかった……!)
それを、唐突に思い出す。
目の前にはかりがある。右のはかりには、命が。左のはかりにも命が乗っている。どちらを選べばいい。どちらを切り捨てるべきか。どちらの命のほうが、軽い。命の重さを比べることこそが傲慢。だが、誰かが選ばなければならない選択ならば。百を救うために一を犠牲にしよう。明日、万の命を救うために、今日は百の命を奪ってみせよう。
善良であってはならない。それでは、冷徹な判断が下せないから。――憎みたいのなら憎めばいい。我こそは傲慢な強者。せめて不遜に笑おう。
気まぐれに命を救うことはあった。だが、それはあくまで気まぐれ。善意などではない。そんなもの、あってはならなかったから。
命を切り捨ててきた者の善意など、それは何だ。そんなものがあるなどとは信じない。そんなものが残っていてはならない。
――善意など。数多の命を奪ってきた存在にそんなものが残っているのだとしたら。お笑い種だ。
(俺は……優しくなんてなれない存在だった……)
『優しい子ね』いつもそう言ってくれたのは、人としてのルイスを育ててくれた母だった。
断片的に取り戻した記憶だけでは、何も変わっていないとルドヴィクスは思っていた。人格は、未だ人として、ルイス・カルヴァートとしてのものが強い。
だが、そこにたしかに変化が起きていることを、ルドヴィクスは実感した。
自らも気づかないうちに、考え方がかつての自分に近いものになってきている。それは、取り返しのつかない変化のようで、ルドヴィクスは背筋を振るわせた。
ルドヴィクスが、いつもなら意志の強さを表すような琥珀色の瞳を茫洋と飛ばす先で、ジャスティーナは、全ての章節を歌い終えて、唇を閉ざした。
その視線の先では、目を閉じた野兎。未だ毛には血がこびりついているが、ジャスティーナの力によって、傷口はほとんどふさがっていた。先ほどの瀕死の息は、穏やかなものに変わり、ジャスティーナの腕の中で気を失っていた。
「……もう。大丈夫みたいだな」
「うん。この子を家につれていくね。――前も言ったかもしれないけど、うち、まじない師の家系なんだ。だから、幸い薬草とかはたくさんあるし。……すぐ、この子を治療してあげたいから……。せっかく来てくれたのに、ごめんね」
ジャスティーナは、そう言って苦笑する。そして彼女は立ち上がろうとするが、バランスを崩したようによろめいていた。
「おっと……」
ルドヴィクスはそれを支え、彼女に「力」を送った。
彼女が何故よろめいたのか、ルドヴィクスには分かっていた。力の使いすぎである。
ジャスティーナが生来持っている力自体は、それほど大きなものではない。だが、たとえ兎のような小さなものに対してでも、死の淵に瀕している命を救うというのは、相当の力を要する。彼女の場合、歌を通して小さな力を極限まで増幅したから出来たようなものであった。単純に力を送り込むだけで同じことをしようとしたら、よほど力を持った存在でなければならない。
しかし、歌という増幅装置を使ったとしても、彼女が相当な無理をして力を発動したのは間違いなかった。だからこそ、彼女自身のエネルギーが足りていない状況になる。おそらく、数日も経てば回復するだろうが、しばらくは歩くのですら辛いはずだった。
だからこそ、ルドヴィクスはこっそりと自らの力を彼女に送り込んでいた。彼女の善意を内心で笑い飛ばした、せめてもの侘びとして。
そして、そうしながら、ルドヴィクスは顔に出さないようにしながら、考え込んでいた。彼女が見せた力は、一体何なのかと。
かつて、自らを人だと思いこんでいたことをルドヴィクスは思い返す。
あるいは。彼女も。




