2.閉塞と開放
「ルドヴィクス様。お目覚めの時間です。今日の紅茶は、ウィンセレット社の、プリンセス・クリステルをご用意いたしました」
「ん……」
カーテンがひかれて、眩しい朝日が直接顔に当たる感覚に、ルドヴィクスは顔をしかめた。
すると、黒い子犬がベッドの上に上がると、甘えるようにルドヴィクスの頬を舐めた。それに、ルドヴィクスの口元がゆるむ。
「……レオ…」
愛犬の名前を呼ぶと、その頭をなでる。
そして、薄く瞳を開くと、真っ先に目に飛び込んでくるのは、黒い犬だった。そして、ベッドの脇にあるカートの上には、ティーセット。それを押しているのは、長い銀色の髪の男、アルベルトゥスだ。見た目は20代半ばほどに見え、腰に届きそうなほどに長い髪を、顔のサイドでゆるく結び、前に流している。癖のない美しい髪は、それだけで十分に引き立っていた。
体格は身長が平均より高めで、その顔立ちは驚くほどに整っているが、硬質な印象が強い。純銀のようだと、ルドヴィクスは思う。この上なく美しいが、触ると硬くて冷たい銀の彫像。アルベルトゥスの美貌には、そうした硬質な印象が強い。その髪が、混じりけのない美しい銀色であることも、その印象を促進するのだろう。
ルドヴィクスが身を起こすと、アルベルトゥスが、ソーサーに乗ったカップを渡してくる。
「…ありがとう」
ルドヴィクスは、自然にそう言うと、紅茶をこくりと嚥下した。
美しい水色をした紅茶は、口に含むと、極上の香りが口内に広がる。紅茶の香りに添えられた、ベルガモットのさわやかな香り。コクのある味を楽しんでから、ゆっくりとそれを飲み込む。
そして、いつも思うのだ。アルベルトゥスの入れる紅茶は、今まで飲んだどの紅茶よりもおいしいと。
味わって紅茶を飲んだ後、ルドヴィクスは、アルベルトゥスにカップとソーサーを返す。
「今日も……おいしかった」
そう感想を言うのは、ルドヴィクスの習慣だ。
ルドヴィクスは……否。ルイス・カルヴァートという少年は、父母に、感謝を忘れないようにと育てられてきた。日ごろから、褒めるべきところや認めるべきところで言葉を惜しまないのが、仕えられる者の義務だと、教え込まれてきた。
だが、自然に身についたそれも、どうしてだかアルベルトゥス相手だと、ルドヴィクスはやりにくくてしょうがない。
素直に、認めたくないのだ。
未だかつての記憶を完全に思い出していないルドヴィクスには、アルベルトゥスがなぜ自分に忠義を誓っていてくれているのかも分からないままだ。だが、アルベルトゥスが丁寧にルドヴィクスに仕えてくれているのも事実なのだ。
中途半端に記憶を取り戻し、どうすればいいのか分からなかったルドヴィクスの代わりに、この屋敷を用意したのはアルベルトゥスである。そして、ルドヴィクスの身の回りの世話を完璧にこなしている。
アルベルトゥスの入れる紅茶は絶品だし、彼は料理ですら得意なのだ。
正直なところ、ルドヴィクスは、彼と生活を始めてから、料理をこなすアルベルトゥスの姿に度肝を抜かれた。しかも、下手をすれば、カルヴァート家のコックの作るものよりもおいしいのである。
魔族のくせに、人間離れした美貌の持ち主の癖に、手ずから野菜や肉を切ったり、フライパンや深鍋を使って料理をしたりしている姿は、正直なところシュールに過ぎる。
この屋敷には何人か使用人もいるのだが、ルドヴィクスの口に入るものの調理や、身の回りの世話はほとんどアルベルトゥスひとりでやっている。『下級な使い魔や人間ごときに御身に触らせるわけにはまいりません』というのがアルベルトゥスの言い分だ。
別にそこまでしなくてもいいとも言うのだが、彼なりのこだわりがあるようだったから、ルドヴィクスは好きにやらせている。だが。
「……着替えは手伝わなくていいと言ったはずだ」
ルドヴィクスは、呆れたようにそう言う。
アルベルトゥスのそれは、まるでほんの幼い子供にするように、甲斐甲斐しすぎる。あるいは、王侯貴族にでもするがごとく。
一部の上級ブルジョワや、貴族などは自分の身の回りのことをすべて使用人にさせ、湯浴みですらひとりではしない人間も珍しくは無いと聞いてはいたが、ルドヴィクスとしては、自分がそのように扱われても戸惑うだけだった。
カルヴァート家では自分でできる最低限のことはさせられていたし、それが当然として育ってきたのだ。料理や洗濯などはさすがにできないが、紅茶を入れたり、最低限の身の回りのことは自分でするのが、「ルイス・カルヴァート」の常識だった。
過保護すぎるアルベルトゥスの手を振り切り、ルドヴィクスはさっさとひとりで身支度を整える。
朝食の席には、焼きたてのクロワッサンと、スクランブルエッグにベーコン。マッシュルームのソテー、焼きトマト、ブラックプディング、ポタージュスープ。そしてデザートとして、ミルフィーユと、先ほどとは違う種類の紅茶がそろっていた。
いつもながらの、完璧な取り揃えである。
テーブルの下に置かれた皿には、ルドヴィクスの皿に載せられたものと同じミルフィーユが置かれている、上機嫌の証のように、尻尾を振りながらそれを食するのは、先ほどの黒犬である。菓子類を好むのを見て、最初は愕然としたのも記憶に新しい。
でも、何だかんだで環境には順応するもので、今ではケーキやクッキーなどに目がない犬の姿を見ても、ルドヴィクスは驚かなくなっていた。それどころか、大喜びで好物の菓子に飛びつく姿に、微笑ましさすら感じる。
そして、いつもの光景になる朝食の席で、ルドヴィクスは少しだけ前の時間に思いをはせた。
『ここは…』
『ルドヴィクス様のお部屋です』
アルベルトゥスの言葉に、ルドヴィクスは辺りを見回す。ベッドは天蓋付きベッドというもので、カーテンがかかっていた。
絨毯は足の長いもので、ふわふわとした感触が、靴底から感じられた。置かれている家具は、オーク材のもので、全て綺麗に磨きこまれたものだった。
壁は、白い大理石であり、凹凸が彫られている上に、金を基調とした色彩で彩色されている。
窓にかかっているカーテンは、淡いグリーンで、室内を明るくする役割を果たしている。
ルイス・カルヴァートがかつて持っていた部屋も、それなりに広く豪華なものだったが、この部屋に比べると、所詮は地方ブルジョワの屋敷といったランクのものにすぎなかったのがよく分かった。
広すぎる部屋は、どこか落ち着かない。
『お気に沿わなければ改装いたしますが?』
『――! いや、この部屋でかまわない…!』
不必要なまでにわがままを言うのも、この豪奢な部屋に気後れしているというのを素直に言うのも嫌でルドヴィクスはそう言った。
どうしてだか、アルベルトゥスの前では弱みを見せたくなかった。
『ルドヴィクス様、それからもうひとつ。お会いしてほしい者がおります』
『え……?』
『御前にお呼びする許可をいただけますか?』
『それはかまわないが……。誰なんだ?』
『それは、直接お会いしたほうが早いかと。――レオナルドゥス!』
アルベルトゥスがそう声を張り上げると、突然、黒い子犬が現れた。
子犬は、ルドヴィクスを見ると、嬉しそうにほえる。
『レオナルドゥス……。いや、レオ?』
その言葉が自然と、ルドヴィクスの口から出てきた。
胸からこみ上げてくるのは、懐かしさと愛情。
不完全な記憶では、名前しか思い出せないが、本能がこの子犬を慕わしいものとして覚えていた。
『おいで。レオ……』
優しくそう言うと、レオナルドゥスは尻尾を激しく振りながら、ルドヴィクスにとびつく。それを抱き上げて、そのぬくもりに、ルドヴィクスは安心感を覚えていた。
朝食を食べ終わり、ルドヴィクスは、読書に没頭する。
アルベルトゥスは、こちらが呆れるほどに様々な娯楽を用意していた。だが、ルドヴィクスがことさら好んだのは、読書だ。
しかし、さすがに何十日も閉じこもってばかりいてはいい加減飽きるというもの。
だが、ルドヴィクスにはこれ以外にやることがないのだ。アルベルトゥスは、ルドヴィクスが外出することに難色を示した。
アルベルトゥスの言い分としては、外を出るには、ルドヴィクスの力は不安定にすぎるというものだった。
力を取り戻したばかりで、未だにそれのコントロールがうまくできないルドヴィクスは、感情の高まりと共に力を暴走させてしまうことがある。悪夢を見て飛び起きたら、部屋の中のものを、気づかぬうちにずたずたにしていたこともある。
起きている時は比較的コントロールできるのだが、苛烈な怒りに囚われた時、自らの力を抑えるのが一苦労であるのは事実だった。
『今のルドヴィクス様は強大な力を持った赤子も同然です。御自身の御力ですらコントロールできない。……ルドヴィクス様の御力は、魔族にとっては垂涎のもの。不安定な貴方は、格好の餌食なのですよ。それを、ゆめゆめお忘れなく……』
アルベルトゥスの言葉を思い出して、ルドヴィクスは唇をかみ締める。
赤子扱いされるのが、屈辱でなくて何なのだ。
アルベルトゥスの献身は認める。だが、その言葉の端々に侮辱する響きがあるような気がして、ルドヴィクスは腹立たしく感じる。しかも、正論だから反論も出来ないのだ。
正論で言い含めるのなら言い含めるでも、もう少し言い方というものがあるのではないかとルドヴィクスは思う。
しかし、アルベルトゥスがやわらかく言ってくれたら気持ちがいいのかと考えると、そうでないのかもしれなかった。ルドヴィクスにとって、アルベルトゥスのやることは、全て気に食わないのだ。
ルドヴィクスは、窓から見える森を見つめる。この森は、かつてルイス・カルヴァートという少年が住んでいた村の近くにあった、リファーズの森とは別の森だ。とはいえ、森を見慣れた身からすれば、その光景は郷愁を誘うものだった。
その森の中の木から、木の葉が一枚落ちる。ルドヴィクスは、それに力を放った。その一枚の葉が、無数に切り裂かれる。
「…もう。これぐらいのコントロールなら出来るんだ……」
そして、そう呟いた。
ルドヴィクスは、自らの時間を、レオナルドゥスと過ごしたり、読書をしたりするだけでなく、自らの力をコントロールできるようにする鍛錬の時間にもあてた。
その結果が、この力のコントロールである。
自分は、けして無力なわけではないとルドヴィクスは思う。
今のルドヴィクスは、もともとの力の6分の1しか持ち合わせていないのだが、それでも十分なほど、ルドヴィクスのかつて持っていた力は強大であった。少なくとも、今の力でも、並の相手に負けるとは思えない。それが、ルドヴィクスの実感であった。
ましてや、このまま、無力を理由に閉じこもっていて何になるというのか。
アルベルトゥスは、かつてルドヴィクスが手放した力がどこにあるのかを探していると言っていた。しかし、いつまで待てばいいのだ。何もできない、死んだような生活を、いつまで続ければいいのだ。
焦りは、ルドヴィクスに苛立ちを生む。
「……仕方がないな。アルベルトゥスが外に出てはいけないと……」
横にいたレオナルドゥスにそう声をかけながら、ルドヴィクスははたと気づいた。
「外に出てはないけない……?」
それは、アルベルトゥスが言った言葉とは微妙に違ったが、ルドヴィクスはその言葉をそう認識していた。正確には、『貴方はまだ、外出されるべきではありません』であったが、今のルドヴィクスにとって、その違いは些細なものだ。
「――誰が、主なんだ……?」
従者であるアルベルトゥスに、意見は求める。だが、最終的に決めるのは、主である自分であるべきではないだろうか。
それなのに、なぜ。アルベルトゥスの意向に、こちらが従わなければならないのだ。
それは、苛烈な反感だった。
素直に育ってきた、ルイス・カルヴァートという少年にはなかったもの。ルドヴィクスは、勝気に口の端を吊り上げる。それに、普段は力を抑えて琥珀色に留めている瞳に、わずかに金色の光がよぎる。
それを、レオナルドゥスは、魅了されたようにじっと見つめいていた。
「……レオ! たまには散歩に出るぞ!」
わん! とそれに元気よく返事をしたレオナルドゥスを抱き上げると、ルドヴィクスは窓から身を投げた。
この部屋は2階に位置しているが、ルドヴィクスの力を使えば、着地の衝撃を和らげるなど造作もない。そして、ルドヴィクスは、森の中に姿を消したのだった。
10分後。アルベルトゥスは買ってきたばかりの新鮮な野菜をテーブルに置きながら、頭を抱えていた。
「いつまでもあの御方がおとなしくしていてくださるとは思っていませんでしたが……」
そうだ。いつだって、ルドヴィクスは、自分の思い通りになったことなどなかった。そう思うと、苦いような笑みが口元に浮かぶ。
巨大な獣の背に乗って逃亡していく姿を、幾度見ただろう。
『義務は果たしておろう! 些細な息抜きじゃ、大目に見よ!』
強気に笑いながらの言葉に。憤慨しながらも、結局最後に折れるのは自分の方だった。
在りし日の思い出は、鮮やかにアルベルトゥスの胸の中に蘇る。
しかし、あの時とは事情が違うのだ。
ルドヴィクスは、己がどれほど不安定な存在であるのかを自覚していない。
能力のこともあるが、それ以上に、その心だ。人として在った日々が、ルドヴィクスに人としての自己認識を植えつけている。しかし、中途半端に取り戻した記憶から、自らが人外であることは理解している。
だが、危ういのだ。自らが、人かそうでないのか。その境界が、とても危うい。
自己をしっかりと持っていない存在は、非常に脆い。
アルベルトゥスは、買ってきた食糧を使用人に片付けさせる指示をしてから、ルドヴィクスの気配を探った。
思えば、料理から何からできるアルベルトゥスはわりと万能キャラですね(笑)。材料にこだわるので、買出しから手ずから行っているようです(ルドヴィクスの食事限定)。おそらく、じゃがいもとかトマトとか一生懸命選んでらっしゃいます(笑)。はい、1章から見ればかなーりギャップがあるのではないかと(笑)。
レオナルドゥス、愛称レオ君は名付け親のセンスのせいで、中々にいかつい名前ですが、癒し系として持ってきました。アルベルトゥスとルドヴィクスは、主従関係ながら、冷戦状態(主にルドヴィクスからの反感)なので、レオがいるだけで空気が緩和されること請け合いです。




