1.歌声
森の中に、澄んだ歌声が響く。伸びやかな高音が、空気を振動させながら、高らかに歌い上げられていた。
その美しい歌声に惹かれるようにして、歩を進めていく少年の姿がある。歳は17歳ほどだろうか。10代後半と思われる少年は、あまりに印象的な見た目をしていた。まず、この国では珍しい、艶のある黒髪の持ち主である。髪は短かったが、後ろ髪の一部を鎖骨まで伸ばしている。肌は白く、琥珀色の瞳は、光の加減で金色にも見える。そして、その色彩が印象的なだけでなく、少年は顔立ちそのものが非常に整っていた。
細身ではあるが、女性的なわけではない少年に対して、花に例えるのは間違っているだろうか。しかし、そのあでやかさは、薔薇やクレマチスのような大輪の花のようだった。
人目を惹き付けて離さないような、そんな美貌を少年は有していた。その印象的な色彩に目を囚われたが最後、その美しさに目をそらせないような美貌。それに、敏感な人間ならば、人外の気配すら感じるかもしれない。
そして、それは正しかった。少年は、人ではない。少年自身ですら長らく忘れていたが、彼は人ならざる存在だったのだ。
己が何ものだったのか、彼は未だに思いだせない。ただ、ルイス・カルヴァートという、人間としての名前ではなく、ルドヴィクスというのが本来の名前だと思い出すことができただけだ。
ルドヴィクスは、その美貌へ寄せられる感嘆の視線も畏怖の視線もない森の中を、ただ歌声の元を目指して歩んでゆく。
歌声の主は、神秘的なほどに美しい響きを、あたりに響き渡らせている。その美しいメロディに乗せられる言葉は、悲しい歌詞だ。遠い故国を思う歌。
その歌詞に出てくる「男」が、どのような理由で、故郷を離れなくてはならなかったのかは、詳らかにはされていない。だが、遠い地にあって、2度と戻れぬ故郷の情景を思い綴っているもの悲しい歌だ。
清らかな水をたたえた澄んだ泉。水辺に咲く水仙の花に、野兎が駆ける森。雨上がりに虹がかかる山の向こうに、冬になると雪に覆われる、清らかな地。
二度と帰れないという歌詞は、作者不詳で、様々な解釈がなされている。
曰く、ヤルヴィ王国で人質として生涯を終えた、古の王子の心境を綴った歌だ。曰く、故国を冤罪で追放された、貴族の青年が作者である。曰く、新大陸を目指した航海士が、船の座礁によって故国に帰ることが出来なくなったことから作られた歌である。
だが、どのような解釈をしようとも、そこに綿々と綴られているのは、帰りたい場所に帰ることのできない悲しみだった。
それが、ルドヴィクスの胸を揺さぶっていた。
ルドヴィクスが、「家」を捨てたのは、1ヶ月ほど前だ。距離的には、それほど離れているわけではない。だが、もう2度と帰れない。もう、ルドヴィクスを待っている人がいないからだ。かつて愛していた人たちは、大切な人は、皆ルドヴィクスのことを忘れているのだ。
それは、ルドヴィクス自身が望んだことだ。従者に命じて、彼らの記憶を消してもらった。
それが必要だと思ったから、大切な「両親」を、異形であった自分自身の事情に巻き込まないために、ルドヴィクスはそれを望んだ。
だが。ルドヴィクスの中に息づく記憶が、今もこんなにもルドヴィクスを苦しめる。
己が人でないことを思い出したから。だから、彼らとは一緒にいられないと思った。だが、人として生きていた時間、育ててくれた父と母を愛して慕っていた気持ちは、ルドヴィクスの中に未だ息づいていた。
人ではない身に宿るのは、人が愛としか言えない感情だ。
帰りたい場所がある。それなのに、2度と帰れない。
その気持ちが、少女の歌声に同調していく。
気がつくと、ルドヴィクスの琥珀色の瞳からは涙が流れていた。
歩いてゆくと、その歌声の主の姿が、木陰の中に見えてきた。少し癖の強そうな長い茶色の髪が、木漏れ日をはじいて、一部金色めいて見えた。少女は、長い髪を後ろで少し集めて、水色のリボンで結んでいた。
朽ちて倒れた老木に、服が汚れることも気にせずに腰掛けている少女の傍には、黒い子犬がいる。子犬は、嬉しくてたまらないとばかりに、尻尾を振っていた。
それは、とても美しい情景だった。
木漏れ日が光の筋を描く森の中、伸びやかに歌う茶髪の少女と、それを聞いているかのような黒い子犬。
だが、心地いい歌声と、その空間を乱したのは、ルドヴィクスが歩んでいくときの、木の葉を踏みしめる音だった。それに、その歌姫ははじかれたように振り返る。
「…誰!?」
だが、振り向いたことであらわとなった少女の容姿に、ルドヴィクスもまた驚いていた。
振り向いた少女の瞳は、血で染めたように、赤かった。