11.なくした記憶
「ねえ、貴方。そろそろオリーブが実を結びそうなの」
スタンレーは、上機嫌でそう言うポーラを、幸せな気持ちで見つめていた。ポーラは、すでに30代とは思えないほどに、少女じみた容姿をしている。それを、未だに愛らしいと思うのだ。
スタンレーは、珍しいほどの愛妻家だった。ポーラが1度流産してしまった後、それが悪かったのか、子供には恵まれなかったが、それでも愛しい妻がいるだけで、カルヴァート家は幸せな家庭であると、彼は信じていた。
跡継ぎ問題はないわけではなかったが、弟夫婦の子供が5人もいるので、いざとなれば養子をもらうという手もある。実際、色々と心配をしてくれている弟夫婦からはそのような話がきているのだが、スタンレーはどうしてだかその問題を先送りにしてしまう。
まだ、子供を得る気にはなれないのだ。
「でも、不思議よね。野の花なら、自然と根付くということもあるでしょうけれど、オリーブが気づかないうちに根付くなんて、あまりない話だって、ジェイミーさんも言っていたわ」
オリーブという言葉に、スタンレーは、東のリファーズの森を思い出す。最近、村から出てきた古文書から、東の森が、昔は聖地だったことが明らかになったのだ。
数百年前、この地では異端狩りが横行していた。異教的なものは徹底的に排除され、魔女裁判で多くの人間が犠牲になったという。
「魔の森」の伝説は、その時代に出来た捏造なのではないかと、村ではそう囁かれるようになった。少しでも、異教的なものを貶めるための、教会による捏造。
芸術的な視点から、古代のものが見直されている今の時代、その古代の宗教は、一部の人間のロマンを煽ったようだった。村の無謀な若者のひとりが、怖いもの知らずにも、「魔の森」に足を踏み入れたところ、無事に生還したばかりか、美しい場所だったと伝えてきたのだ。その若者によると、森の奥には、枯れたオリーブの木があるだという。枯れ果てた木だが、どこか荘厳で神聖さを感じたと。
おかげで、今では村人はすっかりリファーズの森を、魔の森と呼ぶことはなくなっていた。
それが、スタンレーには、複雑だった。あの森を忌まわしいとは思っていなかったが、あの森のことを考えると、何故だかとても切なくなったから。
「貴方?」
物思いに沈むスタンレーを咎めるように、ポーラはそう言う。それに、スタンレーははっとなって返事をした。
「そうか…。だが、まだ実はなってないのだろう? それでオリーブかどうかなど分かるのか?」
スタンレーがそう言うと、ポーラは笑う。それは、スタンレーの無知を笑うものだったが、嘲笑ではなく、ただ純粋におかしいと思っているだけの笑いだったから、スタンレーは不快にはならない。
「貴方ったら。実を実らせないと、何の木か分からないと思ってらっしゃるの? 殿方ってこうなのかしら。同じ木でも、幹や葉の感じがそれぞれ違うのよ。たしかに判別が難しいものもあるけれど…それに、今花が咲いているから、オリーブだというのは間違いないわ」
「オリーブの花…というのはどういうものだったかな……」
「白い花よ…。というか、説明するよりも見たほう早いんじゃないかしら」
ポーラは、そう言うと、スタンレーをともなって、庭園に歩を進める。
スタンレーは無骨な男なので、花のことなどさっぱり分からなかったが、それの手入れをしているときのポーラが生き生きしているというそれだけが、スタンレーは嬉しかった。
普段は眺めるだけであまり足を踏み入れることのない庭園に足を踏み入れると、色とりどりの花が、スタンレーを出迎えてくれた。
美しい花々の中で、こんな世界に生きているから、どこかポーラの足取りは妖精じみているのだろうかとスタンレーは思った。こんな綺麗なものを眺めているから、ポーラはいつまで経っても少女のような華やかさを失わないのだろうか。
スタンレーが、色とりどりの花にそんな思いをはせていると、ポーラが振り返った。
「これよ。この木なの…まだ小さいけれど……綺麗でしょう?」
そこにあったのは、本当に小さな木。『木』という言葉からどこかスタンレーが考えていたような、それなりの大きさを持ったものではなく、小さくて、幹も細くて、たよりない印象の木だった。だが、その木が白い花を咲かせている。それは、庭園にある他の大輪の花よりは地味な印象だ。花弁はそれほど大きくはないし、遠くから見れば、全体が白っぽく見えるぐらいでしかない。
だがそれが、不思議に印象的に、スタンレーの瞳に映った。どうしてだか、目を離せなかった。
「貴方、どうしたの?」
そんなスタンレーを見て、ポーラが驚いたような声を上げる。
それも道理だろう。スタンレーの両の瞳からは、涙が流れていた。
記憶の奥底に封じられている、大切な存在を求めて、涙が流れていた。忘れられることを望みながら、忘れられることを悲しんでいた、真実の息子を想って、彼は泣いていた。
だが、彼の記憶は封じられているがゆえに、自分がなぜ泣いているのか分からない。だからこそ。どうして自分が泣いているのかも分からない自分が哀れで、彼の涙は止まらなかった。
スタンレーは、彼のひとり息子が寂しがり屋なことを、知っていた。しかし、それに気づけないほどに不器用な息子を、スタンレーは心の奥底から愛していた。だから、泣けない彼の代わりに、涙はとめどなく流れるのだった。
さて、これで1章の完結となります。2章は、アルベルトゥスと旅立ってしまったルドヴィクスのお話になります。
ちなみに、章題の『忘却の森の章』ですが、ここにある「忘却」は、村人から忘れ去られたオリーブの木、自らの過去を忘却していたルドヴィクス、そして記憶を失ってしまうスタンレーとポーラの夫婦にかけられていました。