10.真実の絆
スタンレーは、暗鬱とした気持ちで、夜遅い時刻を指し示す時計を見た。
ルイスは、まだ帰ってこなかった。
彼は魔の森へ行ったのではないかと、そんな不安が消せなかった。探しに行ったはずの、アルバートとも連絡が絶えている。その、極度の不安感の中で、スタンレーは一刻も早く森を探すべきなのではないかと、そう思った。
だが、探すのに協力してもらっている村人や使用人は、そろいもそろって、森にいるわけがないから、他の場所を探そうとの一点張りだった。
スタンレーには分かっていた。皆、怖いのだ。ルイスを探すために、森の中になど行きたくはないのだ。
スタンレーは、ベッドに伏している妻を見る。ポーラは、気も狂いそうなほどに心配して、ついに失神してしまった。スタンレーは、この歳になっても真っ直ぐに妻を愛していた。だから、こんな時には傍にいてやりたかった。
だが、スタンレーは、決心をして立ち上がる。妻の面倒を誰かに頼み、自分はルイスを探しに行こうと思ったのである。
そんなおり、不意に部屋の扉が開かれた。ノックなしの無礼は、多少不快には思ったが、スタンレーは鷹揚にそれを許すつもりで、振り向いた。
そして、そこにあった美貌に、固まる。
夜を閉じ込めたような髪の色はつやつやと美しく、琥珀色の瞳は、本物の宝石のようにきらめいている。肌は白磁のように白く、しみひとつない。17歳前後ほどに見える青年は、今まで見たこともないほどの美貌の持ち主だった。いや、美貌という点では、先日雇い入れたアルバートも負けてはいないだろう。だが、アルバートの美には、ここまで壮絶な凄みは存在しなかった。
魂を鷲づかみにするような美貌というものがこの世にあることを、スタンレーは初めて知った。これは、人ならざるものだと、スタンレーは本能で直感した。
だが、それと同時に。彼が、ルイスであることも、スタンレーは親として、直感的に悟っていた。ルイスは、顔立ちは整っていたほうだ。エキゾチックな黒髪が白い肌に映え、印象的な容姿をしていた。しかし、「美貌」という言葉がしっくりくるほどに美しかったわけではない。
愛らしい顔立ちをした子供。だが、それはあくまで平均よりも少しばかり整っている、という程度である。畏怖すら感じるほどに美しかったかと問われれば、否だ。黒髪に琥珀色の瞳という珍しい色彩が一致するからといって、自分たちが愛情を込めて育ててきた子供と、目の前の17歳の青年を結びつけるのは難しい。だがそれでも、スタンレーは彼がルイスであることを疑わなかった。
そして、時が来たのだと。恐れていた時がきたのだと、状況も分からぬままに、スタンレーは確信していた。
スタンレーは、御伽噺を思い出す。子供と夫を残し、天に帰ってゆく天人の話を。スタンレーがその話を読んだのは、子供の頃だった。美しい挿絵つきの絵本だった。それはスタンレーの妹のものだったのだが、天へ帰ってゆく天人の絵のあまりの美しさに、スタンレーは惹き付けられたのだった。
だが、今目の前にいる青年は。その挿絵に描かれていた、至上の美女よりも美しい。
「…お帰り……ルイス…」
だが、お前が帰ってくる場所はここなのだと、そう告げたくて、スタンレーはそう言って笑った。いつものように。
それに、ルイスの肩が揺れる。美しい顔に、動揺の光が灯る。
「駄目じゃないか。ルイス。心配したんだぞ…母さんだって…」
努めて、スタンレーはいつものとおりに振舞う。
もしも、ルイスの変化を指摘したら。日常が崩れてしまえば、ルイスがいなくなってしまう気がした。あの、絵本の天人のように。遠いどこかへ、帰ってしまう気がした。
「と…うさん……。俺は…ここに帰ってきても…いいの?」
「何を言っているんだ。ここはお前の家じゃないか」
おそるおそるルイスの唇から漏れた言葉に、スタンレーは力強くそう言った。
「でも…俺は貴方たちの本当の息子じゃ」
「息子だ」
ルイスの言葉に、スタンレーはきっぱりとそう言った。それに、ルイスがはっとしたように顔をあげる。
「お前はきっと真実を知ったのだろう。たしかに…お前は私たちとは血がつながっていない。――お前が……人ならざるものかもしれないと、ずっと思っていた。だけど、そんなことが、なんだ。私はお前の父親だ……。ずっと……私たちは、お前の成長を見守ってきたのだぞ……?」
優しくそう言いながら、スタンレーは思い出していた。今日までの日々を。
スタンレーは、到底赤子が生きていられるとは思えない森から、ポーラが拾ってきた子供を恐ろしいと感じた。だが、その恐ろしい子供が。スタンレーを見て、微笑んだのだ。とても可愛らしく。
ただ、それだけ。だが、無邪気で無力な赤子を怖がり続けることも、憎むこともできなかった。
ルイスと名づけた子供をポーラから引き離したら、取り返しのつかないことになりそうで。抜け殻のようになっていたポーラが明るい笑顔を取り戻したのは、ルイスのおかげだということは分かっていた。
だからこそ。黙認するしかなかった。――ただ、それだけのはずだったのに。
だが、少しずつ育っていく子供を。こちらを見て、何も知らずに微笑む赤子を。
どうして、心動かさずにいられるだろうか。どうして、無邪気に慕う気持ちを無下にできるだろうか。どうして。愛さずに、いられるだろうか。
そして、親子になったのだ。血の繋がりではない。ただ、育んできた時間が、自分たちを親子にした。
離乳食を食べるルイス。テーブルの上やよだれかけにこぼした汚れを、困ったようにぬぐいながらも、本当はとても幸せそうな顔をしているポーラを、スタンレーは見つめていた。
歩くことに挑戦しだしたルイス。不安定な足取りで、スタンレーの元へ歩いてこようとして、こけてしまったルイスを、スタンレーは優しく抱き上げた。
つたない言語を操りながら、必死に話そうとするルイス。話に聞いた言語能力の発育よりも大分早かったから、もしかしたらこの子は天才かもしれないと、ポーラと2人で盛り上がったこともあった。
文字を覚えるルイス。お世辞にも綺麗とはいえない文字だったが、初めてルイスが自分の名前を文字で書いたのを見たときは、胸が熱くなった。その紙は、今でも書斎の奥に大事にしまっている。
近所の子供たちと無邪気に遊ぶルイス。窓から見守っていると、ルイスは転んでしまって。膝をすりむいたらしかったけれど、泣かなかったルイスを誇らしく思った。
ポーラのガーデニングの手伝いをしているルイス。愛しい妻と、可愛くも優しい息子がいる暖かい家庭。男として、これ以上に幸せなことがあるだろうかと本気で思った。
『ルイス様は大変聡明でいらっしゃって、1度説明したことは忘れないばかりか、それを応用して考える能力をお持ちです。また、才能に溺れて努力を怠ることもありません。お世辞ではなく、大変素晴らしいと思いますわ。将来はひとかどの人物になられるでしょう』。そう、家庭教師のマライアに感嘆を込めて評価されたことは、自分のこと以上に誇らしかった。自分たちの自慢の息子なのだ。当たり前だろうと。そんな親馬鹿な言葉をこらえるのに、ひどく苦労した。
そんな全ての時間が、自分たちを親子にしたのだ。それを、ルイスに分かってほしかった。分かってくれるはずだと、そう思った。
「――父、さん。貴方を…そう呼んでもいいんですね…」
「ああ。ルイス…」
スタンレーは、目頭が熱くなるのを感じていた。伝わったのだと、思った。
「……ありがとう……。俺は、貴方たちの息子として……幸せだった……。――でも。ごめんなさい……! 俺は……」
意識が途切れる寸前、スタンレーが見たのは、黄金の瞳だった。神々しいほどに美しい、黄金色の、瞳だった。その瞳から、一筋の涙がこぼれるのを見たのが、彼の最後の意識だった。
ルドヴィクスは、意識を失ったスタンレーの体を、抱き起こしていた。まだルヴィクスには、力を相手の意識にぶつけることで、意識を飛ばさせるような、乱暴なやりかたしかできない。
その美しい頬には、涙がとめどなく流れている。
「アルベルトゥス。――2人から……いや、この村の皆から。俺の記憶を……消せ。俺がいなくなっても悲しまないように。……万が一でも、俺の事情に巻きこまないように……! たしか……そんな術があったはずだ……。お前なら出来るだろう?」
「――よろしいのですか。ルドヴィクス様」
「俺がいればこの村を巻き込むと言ったのはお前だ!! 俺は……っ! なぜ俺を覚醒させた!! 俺が何も思い出さなければ、人のままでいられたら、俺は……!!」
激情を、ルドヴィクスはアルベルトゥスにぶつける。
たとえ捨て子でも、スタンレーたちが与えてくれた愛情は本物だった。もし、ルドヴィクスが人であったなら、たとえ真実に衝撃を受けたとしても、受け入れてお互いに愛情を認められただろう。そう、間違いなく、彼らとルドヴィクスは親子だったのだから。
思わず力を暴走させそうになって、ルドヴィクスは深呼吸をした。
気に食わないからといって、力にたよって当り散らすような無様を嫌ったのである。
取り戻したばかりの力は、ルドヴィクスにとっては暴れ馬にも似て、コントロールが難しい。人知を超えた強大な力が、己の中で荒れ狂っているのを、ルドヴィクスは感じる。これが、元々の力の数分の1だというのだ。もともとの己とは、どのような存在だったのかを考えると、ルドヴィクスは恐怖すら感じた。
「…お気を強く持たれてください。貴方がご自身をしっかり持ってらっしゃる限り…力が暴走することはありません。それはそもそも、貴方の一部なのですから。怒りを感じるのを悪いとは言いません。…ですが、それに囚われぬよう。私を罰したいのであれば、怒りに踊らされるのではなく、貴方御自信の意志でなさってください…。でなければ、ルドヴィクス様。貴方は、力を支配するのではなく、力に支配されてしまわれます。…そのようなこと。御矜持がお許しになりませんでしょう?」
「……アルベルトゥス……! お前の言葉……。正論であることは否定しない。だが……お前の言葉は俺の気に触る……!! ――控えろ!」
「――御意」
ルドヴィクスが苛立ったように言うと、アルベルトゥスが頭を下げた。
そんな芝居がかった動作にですら怒りを感じるが、ルドヴィクスは、それを冷静に抑える。
頭を振ると、アルベルトゥスの存在をないものとして無視をする。
ルドヴィクスの腕力では、立派な体躯をしているスタンレーを抱き上げるのは難しかったが、力をコントロールして、運ぶ。長椅子に彼を横たえると、ルイスは最後にスタンレーと、次いでポーラの顔を覗きこんだ。
「さよなら…。……ありがとう。貴方たちは、たしかに。俺の、親だった。俺は、人じゃないかもしれないけど……。もしかしたら邪悪な存在なのかもしれないけど……。貴方たちに与えてもらったものは、忘れないから……」
ルドヴィクスは、オリーブの木を思い出す。忘れないでと、それだけを願っていた孤独な存在。
今なら、その気持ちが先ほど以上に分かると、ルドヴィクスは思った。
忘れてほしくない、自分の存在を、無かったことにしてほしくない。それでも。
「アルベルトゥス……。命令の変更はしない……。俺が関わった人間、全員の記憶を改ざんしろ。ルイス・カルヴァートなんて存在……最初からいなかった。――存在しなかったんだ…」
「…………」
「アルベルトゥス?」
「……了解、いたしました。ルドヴィクス様」
「……俺は、幸せだったんだ……」
ルドヴィクスは、唐突にそう言った。
従者だと言われても、アルベルトゥスは正直、いけ好かない相手だ。だが、今はこの相手しか話す相手がいない。
「俺は……ずっと。10年間。幸せだった……」
「…………」
「さっきは……」
言いかけて、ルドヴィクスは、唇をかみ締める。言いたくなかった。だが、言わないのは、あまりに卑怯で愚かだ。
「……さっきは、すまなかった。……お前の言葉は正しい。俺が……この10年間を信じていられれば……疑うことなく信じられれば……俺はお前の術にはかからなかった……。そうだろう? たとえ俺が捨て子だと知っても、挙句、人間ではないかもしれないと知っても……それでも受け入れてくれる人がいると信じられれば……! 俺が事実ひとつで真実を見誤るほどに愚かでなければ!! 俺は……失わずにすんだ……!」
自らが愚かだったと、ルドヴィクスは認める。
1度は振り切ったアルベルトゥスの術に絡め取られたのは、ルドヴィクスの心の弱さゆえだった。
自分が化け物かもしれないと、そう思った。たったそれだけで、今まで与えられた全てが信じられなくなった。
「――俺は……いつもいつも、遅すぎる……!」
そう叫んで、ルドヴィクスははっとした。
一体、何を指しているのか、自分でも分からなかったのだ。だが、こんな痛みを。前にも経験をしたことがある気がした。
思い出したいのに、思い出せない。そのもどかしさが、ルドヴィクスを苛む。
「ルドヴィクス様…」
「――アルベルトゥス。俺の力と記憶は、まだいくつかあったはず……。俺は死の間際……7つに。そう、7つに分けた。――そう、昔から魔術において、もっとも安定した数字は7……。正しく、7……。ひとつは、我が友となった『彼』から返してもらった。だから、残るは6つのはず……。どこにある……」
ルドヴィクスは、打って変わって、冷静な声音でそう言った。
思い出せないのだ。
人として、ルイス・カルヴァートという少年として果たしたかった願いは、もはや遠すぎる。ならば、ルドヴィクスとして、望みを叶えるしかないではないか。
でも、存在ですら人の願いがなければ保てないほどにあやふやな存在に堕してまで、果たしたかった自分の願いが、ルドヴィクスには未だに重いだせないでいた。その事実が、苛立ちと焦りに変じる。
「……私には、それを判じる能力はありません。……ですが、ルドヴィクス様が力を手放されたは、97年前……。その時期から、顕著となった力を辿ってゆけば、答えにたどり着くことと愚考申し上げます。――ルドヴィクス様の御力は、どのようなものに宿っているかは予想できません。……神木に宿ったがごとく、人にも、獣にも、魔族にも。宝石であろうと、剣であろうと、宿る可能性はございます。とはいえ、力は力に惹かれるものですから、元々ある一定以上の力を持ったものにしか宿りはしませぬでしょうが」
「……自らの力を取り戻すだけが、とんだ宝探しだな」
ルドヴィクスは、皮肉に口元を歪ませる。
だが、歩き出す。ルドヴィクスとして。まごうこと無く、彼の家だった屋敷を出てゆくために。
「結局俺は……あの人たちに、何も返せなかったな……」
1階に来て、瞳に飛び込んでくるのは、ポーラと過ごした庭園。あそこで、一緒に手入れをしていたのが、つい1日前のことだなんて、ルドヴィクスには信じられなかった。あの頃とは、何もかもが変わってしまった。
自らが人間だと信じていた頃、疑問もなく、スタンレーの跡を継ぐのだと信じていた。カルヴァート商会を、今以上に発展させるのだと。
下層階級に出回っている、粗悪な茶。だが、もっと良質な茶を安価で仕入れる方法を見出せば、それは多大な利益となるのではないだろうか。この国は、これから今以上に富む。それは、嗜好品をもっと一般市民が楽しめる時代の到来を意味する。それを視点に入れた、商業の拡大を。
そんな、未来の白地図を、描いていた。
だが、そんな夢は今となっては、かなわぬ夢でしかない。散々世話になり、溢れるほどの愛情を与えられながら、こんな風に恩を徒で返すようなまねしかできない。
思い出すら奪ってしまうなんて、それがどんなに傲慢なことなのか、ルドヴィクスには分かっている。だが、突如として行方不明になったひとり息子という心の傷を作るよりは、そちらのほうがよほどましではないかと。
ルドヴィクスは、ただ不器用にそう思った。
「……ルドヴィクス様。これを」
そんなルドヴィクスに与えられたのは、一粒のオリーブの実だった。
「これは……」
「満開の花の中に、たったひとつだけ……。――あの存在ではありませんが。元々神木としてたたえられたものの末裔。一家の繁栄の守護の役割ぐらいは果たすでしょう」
ルドヴィクスは、秀麗な顔に複雑な色をにじませながら、その実を見つめた。
忘れないでと、それだけを願っていた彼の想い。忘れないでという悲鳴のような想いは、自らのものとも重なって、ただひたすらに、切なかった。
実はこのシリーズは、1章自体が、この「はじまり」にたどり着くためのものでもありました。
さて、「アルバートが家庭教師になることを希望した理由は」と、「魔の森とは何なのか」という謎が解けたわけですが、その代わりに沢山の謎が出来てしまいました。「ルドヴィクスとは何ものなのか」、「アルベルトゥスが仕える理由は」、「亜麻色の髪の少年は何ものなのか」、「97年前にルドヴィクスが瀕死の状態に追い込まれた理由は」etc...
これらの謎の秘密は、ルドヴィクスが力と共に手放した記憶に眠っています。それを取り戻すのが、このシリーズの今後の課題となります。