23時33分
23時33分名古屋駅着の東海道新幹線のぞみ499号から吐き出された人間が群れを成して、太閤口に近い改札口からあふれ出て、さっきから僕が待ってる貴女のことを隠してしまおうとして。だけど文字通りの人波に呑まれそうなくらい草臥れ切って俯いた貴女が小柄な身体で水色の大きなキャリーバッグに地味な紺色の手提げカバンを乗せてガラゴロ押しながら自動改札の向こうに姿を現して、手にした鮮やかなブルーの端末をタッチするのにふと上げた顔の眼鏡の奥の相貌で僕をとらえて、僕もそんな貴女を見つけて……その一瞬が時間軸に連なってゆくたびに無数の人波も人込みも人いきれも全部モブシーンに成り果てて。
ツインタワーの袂は僕が貴女を待って、貴女が僕と再会するための、大げさでくだらない舞台装置になった。
殆ど化粧っ気のない白く肌理細やかな頬に簡単にくくっただけの長い黒髪が揺れて、はにかんだ眼差しで飾り立てた貴女と再会を喜び合うのも束の間。人混みにまかれては落ち着かないと挨拶もそこそこに太閤口を出た。歩行者が途切れず車が通過できない横断歩道。ごった返すロータリー。どこもかしこも人だらけだ。
どいつもこいつも先を急いでるか、妙にイラついているか、はたまた酔っ払ってるか、大荷物を抱えてるか……なんにしても周囲を顧みることだけは無く、勝手気ままに闊歩している。
急遽決まった海外出張を終えたばかりなのに、羽田から帰国するなり発生した仕事上のトラブルまで解消させたことで名古屋着が大幅に遅れていた。まさに疲労困憊のうえ極度の空腹に苛まれている彼女は今や大荷物を何処かの部屋に落ち着けることよりも、前もって話した通り合流したら栄に移動して僕のお気に入りの焼肉屋さんに行くよりも、目の前の雑居ビルに入ってる如何にも安っぽい手羽先料理屋で一刻も早く手羽先と味噌カツ……つまり肉と塩と脂を酒で流し込むことだけを考えているようで。後ろに立つ僕が何を言っても振り向きもせずエレベーターの▲ボタンを叩き、やってきた古く狭い昇降機に荷物ごと自分を押し込むようにいそいそ乗り込み、しかし3階のフロア直結の店に入ろうとするもラストオーダーの時間を過ぎており、大して申し訳なくもなさそうなバイト店員がへらへらと杓子定規なセリフを投げて寄越し、それを浴びながらスゴスゴ退散する僕と貴女と大荷物。
「あーー、ここにしますか。この際」
質問の体だが確定である。
「え、でも栄までタクシーで」
「うーー、ん、いやまあここでも」
「え、でも、焼肉食べようって」
「んーー、とりあえずここで、まず」
(え、だからもう駅でタクシー捕まえて栄に向かおうよ……そしたら美味しいお肉も酒もあるんだからさあ!)と、言いたいのをぐっと飲み込んで追随する僕に最早一瞥もくれず、懲りない貴女は隣のビルに入ってる昭和レトロ風の安い居酒屋を見つけるやエントランスの階段のとっかかりにキャリーバッグを持ち上げて乗せようとする。そこまでしてとにかく何か食べたいのなら何故こんなところの店にこだわるのか。
まあ、でも、なりふり構わず突撃しようとする貴女に振り回されるのがこんなにも心地よいのは、いつも誰にでも気配りして丁寧な話し方や文章で接してくれる貴女が長旅から解放され、もはや疲れや空腹を隠すことなく僕の前でワガママになってくれているのが本当に可愛くて愛おしくて仕方がないからだ。
ネクラは丁重かつハイテンションな言葉遣いの時ほど実際は真顔で心にもないことを言っている。いつまで経っても普段の会話や意思の疎通に不慣れだから、そうやって普通の言葉であっても大げさに飾り付けてしまうのだ。
観念した僕は彼女の荷物をまとめてつかんで持ち上げた。
店に入ると案の定、ありふれた安い居酒屋だった。わざわざ名古屋に来てくれてまで入る店とは思えなかったが、わざわざ来てくれた人にしてみればここで食べても名古屋メシとやらに変わりはないのだろう。
カタコトの店員さんが店のシステムを説明してくれるが、それにもほとんど耳を貸さずにタブレットのメニューを指でシャーっと送って飲み物を選び始めた彼女は真剣そのものだ。青白い光を浴びた眉間に皺を寄せて、クリっとした目をキュルキュル動かす。化粧もせず脂の浮いた頬やクマの出来た目元に疲れがしみついている。そりゃそうだ、強行軍で海外出張をこなし、その前にも仕事も予定も詰め込むだけ詰め込んで。漸く帰国したと思ったら身内のトラブルでまた成田空港に足止めを食い……名古屋にも予定より数時間遅れての到着だった。
空腹も心身の疲労も日々のプレッシャーも、僕なんかが想像するより遥かに背負っている。それでも今夜の約束を守って、彼女は名古屋に来てくれた。
僕のために──
そう言いたかったけど、残念ながら彼女は次の日も予定がある。名古屋にほど近い豊田市というところで。だから、これもまた〝ついで〟なのだ。なのだけれど、本来ならもう東京で一泊して今頃ホテルかどこかでひっくり返って翌日に豊田市を目指しても良いのに、わざわざ移動して時間を割いてくれているのは確かだ。そこだけは、たぶん僕のために。そう言いたい。だけど翌日に彼女を待っているのは「うし決まったす。飲み物なんにします?」
疲れて少し濁っているが、いつもの澄んだ美しい彼女の声が僕の思考を遮った。目の前に差し出された画面をハイボールからソフトドリンクのタブに切り替えた僕は冷たいジャスミン茶をオーダーした。一緒に酔ってしまおうと思えるほど、僕は彼女との時間を楽しむ余裕がなかった。画面の中から厨房にオーダーが飛び、すぐに飲み物を注いだジョッキが届けられた。
「うすっ、お疲れっ」
「おかえり、お疲れ」
かちん、と鳴ったジョッキの中で波打ったジャスミン茶が飛沫をあげて僕の親指の甲を濡らす。彼女はすでにジョッキを口元に寄せつつ、唇を尖らせて目を細めながら中身を飲み始めていた。少し乾いていた唇が傾かせたジョッキのふちに吸い付くように触れると、冷えた汗と酒で赤く潤ってゆく。喉元を上下させながら流し込まれるハイボール。頬が上がり目を閉じた君がハーーッとため息をつく。全ての労働、圧力、疲労、その他もろもろから今だけ少しだけ、解放されようと吐き出したハーーッだった。
「美味そうに飲んでくれるよね」
「あ゛――っ、次なんにしよ」
ジョッキの中身を早々に飲み干し、次の酒をオーダーした君がツマミも探し始めた。
「お酒飲み干してからツマミ選ぶ人、初めて見たよ」
「んんーなんにしよっかなー」
ッスー、と歯の隙間から息を吸い込みながらメニューを吟味する彼女。味噌串カツ、手羽先、焼き鳥のモモとつくねを塩で、あと枝豆に「ポテトサラダたべる?」「あっうん食べる」ポテトサラダ、刺身盛り合わせ(3種)が注文され、ついでに角ハイボールのおかわりがやってきた。僕の半分くらい飲んだジャスミン茶と二度目の乾杯をした彼女が今日ここまでの経緯を語り始めた。もうこうなると止まらないのはいつものこと。僕は漸く焼肉を諦めて、もういっそと飲み物のおかわりを探しながら耳を傾けた。
カキフライとビール(なんとCORONAがあった)を注文し、相槌を打ち続ける。それはもう大変なドタバタぶりだったが、そのさなかにも現地在住の大学生の生活ぶりや流行のメイクをしてもらった話なども飛び出した。相変わらず何処で何をしてても全力というか、何処に居ても可愛がられるし慕われるひとなんだな。
スマホに入っていたメイクアップした写真を見せてくれた。元々きゅっとした唇につんと張ったオトガイ、くりくりよく動く丸っこい瞳に鼻筋の通った結構強めの美人なのだが、それが彼女曰く〝お鼻ちゅんちゅん〟にしてもらったとのことで見事に引き立っている。キレイ系の可愛い人はメイクがキツイと顔の印象もキツそうに見えてしまうが、これは朱の差し加減が絶妙なのか朗らかでありながら落ち着いたトーンでもあり……つまり「すごいね。めちゃ可愛いじゃん」
「でしょー、すごいメイク上手な子だったの!」
「何しろモデルがいいもんな」
「キモッ!!」
おどけて顔をしかめつつハイボールを飲み干し、次々やってくるツマミをアレコレ食べ始める。お目当てだった手羽先を掴んで噛みつき、新品のハイボールで流し込む。味噌串カツを垂直に頬張って、咥えたところから噛みついて串を引っこ抜きながらもぐもぐしながらまたハイボール。
唇の端と白いオトガイに味噌がちょっとついているのにも気づかずまた喋り続ける。尖らせた唇が酒と油で濡れて光る。酔いが回ってきてエンジンがかかったのか、少し話の内容や言葉選びが乱暴になる。とろん、と据わった両目で僕を刺すように見つめながらしゃべり続けるいい女。ああ、僕このひと好きだなあ。ときおりのぞかせる白い歯にポテサラのニンジンのカケラがくっ付いているのが三千世界で最も愛おしく見えて、僕はニコニコしながらビールの残りを飲み干した。
まだカキフライ来ないな。話を聞きながらそれとなく履歴を見ると注文は通っている。さほど混雑しているようでもないが、まあそのうち来るだろう。
「ねえ、その大荷物どうする……」
「あー(もぐもぐ)」
「この後シーシャ行くなら、近くでどっか部屋取ってそこ放り込んでから行きません?」
「そっすねー(ぐびぐび)」
「ビジホなんか何処もいっぱいだし、なんなら愛情とかでも」
「ぶははは、いっすよー」
冗談めかして勢いのまま言ったが、愛情とはつまりそのままの意味だ。何もしなければ一人で寝るのと変わりはしない。
その場で検索して、栄にあるセッティングザシーンというホテルを見つけた。目当てのシーシャバーにも近い。お問い合わせのアイコンから電話をかけてみると女性の声で応答があった。「今から行くので空いてますかね?」「ええどうぞ、是非お待ちしております」とのことで電話を切った僕は「空いてるって」と既に腰をあげながら荷物をまとめている彼女に告げ、自分も店のタブレットを引き寄せて会計ボタンをタップした。
彼女の水色のキャリーバッグをガラゴロ動かし、取っ手にかけた上着を押さえながらレジに向かう。少ししんなりしたトレーナーっぽい生地の手触りが冷たくやわらかで、汗ばんでいたで彼女の名残を感じてどきりとした。
会計は思ったよりも安かった。彼女が半分あとから渡してくれた。結局カキフライは来なかった。名古屋駅に戻ると流石にタクシー待ちの列も縮んでいて、二組待ってすぐ乗れた。前の二組はいずれも酔客のカップルらしき男女連れで、僕たちは別にそういうわけじゃない。第一この尋常じゃない大荷物を抱えた彼女は小柄で幼く見えるし、どちらかというと家で娘をたぶらかしているように見えるかもしれない。
「どちらまで」
「あー、と、栄の方むかってください」
彼女の大荷物をトランクに詰め込み、二人して後部座席に腰かけてたところでタクシーが走り出した。助手席の背もたれに括られた端末でウサギの人形劇が流れ出し、続いてタクシーアプリが如何に便利でお得か、という寸劇が始まった。僕らはそれに目もくれず、なんとなく散発的な会話だけを交わして赤や黄の明かりの群れの中を箱型の船に乗って流れていった。




