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第3話

翌日から、田所課長の様子がおかしくなった。


「宮地、マルヨシの案件は来月から山田に引き継ぐ。お前は別の担当に回れ」


朝一番、いきなりそう告げられた。


「え……急にですか?」


「急だな。俺が決めた。文句あるか」


有無を言わせない口調だった。理由の説明もない。


「あと、今日は定時で上がって、この資料を第二倉庫に届けろ。届けたらそのまま直帰していい」


「第二倉庫って……駅と反対方向ですよね?」


「そうだな」


「届けるだけなら郵送でも——」


「業務命令だ」


それだけ言って、課長は自分の席に戻っていった。


……何なんだ、急に。


昼休み、大垣がこっそり近づいてきた。


「宮地さん、大丈夫ですか? 課長、今日なんか当たり強くないですか……?」


「……そう見える?」


「朝のあれ、パワハラの定義に当てはまってません?

 確か『優越的な関係を背景とした言動』ってやつ。

 理由も言わずに担当替えって……」


大垣は本気で心配している顔だ。


「しかも、倉庫届けてそのまま直帰って。業務上必要な範囲超えてません?宮地さんだけ変な仕事押し付けられてるっていうか」


「……うん、まあ」


「何かあったら相談してくださいね。私、録音とかも——」


「大垣、大丈夫だから」


そう言いながら、私は少しだけ考えていた。


(——担当を外された。定時で帰らされる。駅と反対方向に届け物)

(進藤と会わなくて済む)

(偶然、だろうか)


◇ ◇ ◇


その週、田所課長の奇行は続いた。


「大垣、今日から宮地と一緒に帰れ。車で送ってやれ」


「へ? 私がですか?」


「お前、車通勤だろ。宮地んちの方向、途中だろうが」


「いや、そうですけど……」


「打ち合わせの続き、車内でやっとけ。あとこれ」


課長は封筒を押し付けてきた。


「ガソリン代。領収書もらっとけよ」


「……これ経費で落ちるんですか?」


「俺が落とす」


大垣は困惑した顔で私を見た。私も困惑していた。


でも、その日から私は一人で帰らなくてよくなった。


◇ ◇ ◇


決定的だったのは、週末の商談だった。


マルヨシストアとの定例会議。本来なら私が出るはずだった場に、田所課長が単身で乗り込んでいった。


会議室には、進藤もいたらしい。


私はその場にいなかったから、何が話されたかは分からない。

ただ、課長が戻ってきたとき、いつもより少しだけ疲れた顔をしていた気がする。


翌週になって、進藤が別エリアに異動になったと聞いた。


詳しいことは分からない。

ただ、マルヨシストア側から「ご迷惑をおかけしました」と連絡があったらしい。


そして、社用携帯に届くメッセージが、ぱったりと止まった。


◇ ◇ ◇


「——宮地」


ある日の終業後、課長に呼び止められた。


「ちょっと来い」


会議室に連れていかれる。何を言われるのか、身構えた。


机の端に、印刷された紙が伏せて置かれている。

端から覗いた見出しに「コンプライアンス相談票(控)」とあった。


——何だろう。

課長は椅子に座って、少しだけ居心地悪そうに頭を掻いた。


「あー……この数週間、色々やっただろ」


「……はい」


「担当替えとか、大垣に送らせたりとか、お前だけ変な時間に帰らせたりとか」


「はい」


「……悪かったな」


え、と声が出た。


「俺なりに調べたんだ。本とか読んでさ。……家でも色々言われるしな。ああいうの、何ていうの——パワハラにならないようにやるの、難しいなって。結局パワハラみたいになっちまった」


課長は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。


「理由も説明しないで担当外すとか、業務命令で無理やり帰らせるとか。優越的な関係がどうとか、業務上必要な範囲がこうとか、全部アウトだったよな。すまん」


(——ああ、そうか)


この人は、知っていたのだ。

あの日、エレベーターホールで待っていたのは偶然じゃなかった。


(聞こえていたのだ。全部)


でも、「大丈夫か」とは聞けなかった。プライベートに踏み込むことになるから。

だから——


「……課長」


「ん?」


「それ、完全にパワハラですよ」


課長がびくっとした。


「いや、だから謝って——」


「優越的な関係を背景とした言動。業務上必要かつ相当な範囲を超えた言動」


私は続けた。


「定義としては、完璧にアウトです」


「……おう」


「でも」


涙が出そうだった。でも、笑った。


「助かりました。ありがとうございます」


課長は一瞬キョトンとして、それから照れくさそうに笑った。


「……おう」


また、それだけ。


いつも通りの、飄々とした顔。でも、少しだけ嬉しそうだった。


「まあ、何だ。困ったことがあったら言えよ。——これはパワハラじゃなくて、ただの上司の仕事だからな」


「それ、自分で言います?」


「言う。最近コンプラ研修でそう習った……あと、窓口にも聞いた」


私は声を出して笑った。久しぶりに、ちゃんと笑えた気がした。


会議室を出ると、大垣が廊下で待っていた。


「宮地さん、大丈夫でした? 課長、また何か言ってました?」


「うん。パワハラされた」


「えっ、やっぱり!? 私、記録つけてたんですよ、最近の課長の言動——」


「大垣」


「はい」


「ありがとう。でも、大丈夫だから」


大垣は首を傾げていた。たぶん、何も分かっていない。でも、それでいいのだと思った。


帰り道、久しぶりにコンビニに寄った。


見慣れた看板。自動ドアが開く音。自社商品が並ぶ棚。


何も怖くなかった。


缶コーヒーを一本買って、夜道を歩いた。

缶を開けて一口。口に流れ込んできたコーヒーは暖かくて、ほんの少し甘かった。


(了)




あとがき:二つの「ハラスメント」について


最後までお読みいただきありがとうございます。

本作は、一見似ているようで対極にある「二種類のハラスメント」の対比をテーマに執筆しました。


一つ目は、田所課長の「偽装パワハラ」です。 彼が第3話で行った「理由なき担当外し(人間関係からの切り離し)」や「遠方の倉庫への直行命令(過大な要求)」は、厚生労働省が定める『パワハラ6類型』の「うわべ」だけをあえてなぞったものです。


定義上はアウトと言えるものですが、その目的は「部下を物理的に隔離し、守る」という、管理職としての安全配慮義務(と、不器用な思いやり)によるものでした。


二つ目は、進藤による「真のハラスメント」です。 こちらは「発注元と受注先」というビジネス上の優越的な力関係を悪用し、拒絶できない立場の相手に対して執拗に迫る、実質的な「個の侵害」です。


「形式的にアウトな上司」が、「実質的に真っ黒な取引先」から部下を救うために、あえて泥をかぶる。 コンプライアンスという言葉が独り歩きしがちな現代で、ルールの奥にある「人の心」を描けていれば幸いです。


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