第2話
進藤拓哉と最初に会ったのは、大学三年の春だった。
友人の紹介で参加した飲み会。
スーツ姿で現れた彼は「仕事終わりで」と笑って、社会人の余裕みたいなものを漂わせていた。
学生だった私には眩しかった。
付き合い始めて半年。「仕事が忙しい」を理由に会えない日が続いても、私は気にしなかった。
社会人は大変なのだ、と思っていたから。
全部嘘だと知ったのは、共通の知人からの何気ない一言だった。
『え、拓哉くん社会人じゃないよ? ずっとフリーターだけど』
フリーターだったことが嫌だったんじゃない。嘘をつかれていたことが、許せなかった。
別れを切り出したとき、彼は言った。
『俺、絶対出世してみせるから。見てろよ』
私が何に傷ついたのか、彼は最後まで分かっていなかった。
(——それが、七年前の話だ)
◇ ◇ ◇
二ヶ月前の再会は、本当に偶然だった。
担当エリアの引き継ぎで訪れたマルヨシストア。会議室で待っていたのが、進藤だった。
『宮地さん? ……結?』
『……拓哉、さん?』
『うわ、マジで? すごい偶然。俺、今ここのエリアマネージャーやってるんだ』
誇らしげな顔だった。
七年かけて証明したかったのだろう。俺はちゃんとした人間になった、と。
(でも、そこじゃない。そこじゃないのだ)
最初は当たり障りのない会話だった。「元気だった?」「お互い頑張ってるね」。
仕事の話に終始して、それ以上踏み込まない——そういう距離感を保てると思っていた。
変わり始めたのは、三週間ほど前からだ。
『今度ご飯でも行こうよ』
『あの頃の話、したいな』
『なんで返信くれないの?』
『避けてる?』
社用携帯に届くメッセージ。
最初は一日一件だったのが、二件になり、三件になり。
仕事の連絡なら無視できない。でも、仕事の話の最後に必ず私的な誘いがつく。
断ると、次の連絡がどこか棘を含むようになる。
(——怖い、と思ったのはいつからだろう)
誰かに相談すればいい。でも、何と言えばいいのか分からなかった。
元カレが取引先にいて、しつこく誘ってくる——言葉にすれば、それだけの話だ。
明確に脅されているわけじゃない。ただ、じわじわと息苦しくなっていく。
気づけばコンビニに寄れなくなっていた。
マルヨシストアの看板を見ると足がすくむ。自社商品が並ぶ棚の前で、動悸がする。
昼休みに「コンビニ寄ってく?」と誘われるたび、曖昧に笑ってごまかした。
最近の昼食は、会社から離れた弁当屋。
遠回りでも、あの見慣れた看板を見なくて済む。
◇ ◇ ◇
「宮地、今日のマルヨシの定例、俺も出るから」
田所課長の声に、心臓が跳ねた。
「……また同席ですか?」
「先月の新商品、初動の数字見たいからな。お前一人でも大丈夫だろうけど」
大丈夫じゃない、とは言えなかった。
商談の日が来るのが、こんなに嫌だったのは初めてだ。
マルヨシストア本部。会議室に入ると、進藤がすでに座っていた。
「お世話になります」
営業スマイル。でも、私を見る目が前と違う。
商談は淡々と進んだ。
田所課長が数字の話をしている間、進藤の視線がちらちらとこちらに向く。
見ないふりをする。資料に目を落とす。それでも、視線が肌に刺さるようだった。
課長は気づいているのかいないのか、いつも通り飄々としている。
「——では、来月の発注数はこの線で」
「ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします」
終わった。立ち上がろうとしたとき、進藤が言った。
「あ、宮地さん。ちょっとだけいいですか。先月の販促物の件、確認したいことがあって」
仕事の話だ。断る理由がない。田所課長は「じゃあ俺は先に戻るわ」と言って席を立った。
(——行かないで)
声にならなかった。
会議室に二人きりになる。空気が変わった。
進藤の顔から営業スマイルが消えた。
「なあ、結」
七年前の呼び方。背筋が冷たくなる。
「……進藤さん、確認事項って何ですか」
「そういうのいいからさ。最近、俺のこと避けてるだろ」
「避けてません。仕事が忙しくて」
「嘘つけよ。メッセージ全然返さないじゃん」
「社用携帯に私的な連絡されても困ります」
「俺たち、昔付き合ってたんだぜ? そんな他人行儀にしなくても」
「昔の話です」
立ち上がろうとした腕を掴まれた。心臓が跳ねる。振り払おうとしたけど、思ったより力が強い。
「待てって」
「離してください」
「ちょっと話聞けよ。俺、お前のために頑張ったんだ。七年だぞ。エリアマネージャーまでなったんだぞ。なのになんで——」
「だから、そういうことじゃないって言ってるじゃない」
声が震える。
「嘘ついてたことが嫌だったの。フリーターだったからじゃない。ずっと言ってるのに、なんで分かってくれないの」
「は? じゃあ俺の七年なんだったんだよ」
「知らない。私のためとか言わないで。頼んでない」
「お前——」
「もうやめてよ!」
腕を振り払った。涙が出そうになるのを必死で堪える。
「こういうの、やめて。お願いだから」
進藤の顔が歪んだ。
「……分かったよ」
低い声だった。分かった、と言いながら、その目は何も納得していない。
「今日は帰る。でも、また話そう。な?」
返事をしなかった。進藤は舌打ちを一つ残して、会議室を出ていった。
一人になって、ようやく息ができた。
少しだけ時間を置いて、私も会議室を出る。廊下を歩いて、エレベーターホールに向かう。
田所課長が、まだそこにいた。
鼻歌混じりでスマホを見ている。私に気づいて顔を上げた。
「おう、終わったか。帰って資料まとめるぞ」
「……はい」
エレベーターが来て、二人で乗り込む。課長は相変わらず鼻歌を歌っている。何の曲かは分からない。
ぐったりと疲れていた。でも、一人じゃないことが少しだけ楽だった。




