第1話
「宮地、おい宮地 結。顔色悪いぞ。ちゃんと飯食ってるか」
朝、デスクについた途端これだ。田所課長が湯気の立つ缶コーヒーを押し付けてくる。
「……課長、それパワハラですよ」
「何がだよ」
「プライベートへの過度な干渉。研修で習いませんでした?」
「干渉じゃない、心配だ」
「その境界が曖昧なのが問題なんですって」
田所課長は「はあ」と大げさにため息をついた。
「最近はコンプライアンスだかが厳しくなって、息苦しいねえ。缶コーヒーも渡せない時代か」
「渡すのはいいんですよ。『顔色悪い』『飯食え』がセットでついてくるのが問題なんです」
「お前のためを思って——」
「その言い方が一番アウトです。女子社員に『お前』呼びも微妙ですからね」
課長は降参とばかりに両手を上げて、自分の席に戻っていった。
量販営業部CVS課。田所誠司課長は、この部署の名物のような存在だ。
五十五歳。仕事はできる。面倒見もいい。
ただ、その面倒見の良さが、時代とズレ始めている。
正直なところ、私は嫌いじゃない。缶コーヒーだって、ありがたく飲む。
ただ「これパワハラの定義に当てはまりますよね?」と言いたくなる瞬間が、一日に三回くらいある。
「宮地さん、大丈夫ですか?」
後輩の大垣祥子が、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「何が?」
「いや、課長、朝からグイグイだったなって……」
「ああ、いつものことだよ」
「いつもなんですか……?」
「大垣も気をつけなよ。課長、たぶん悪気ないから余計タチ悪いんだよね」
大垣は「ですよね……」と微妙な顔をした。
「私この前、『お前は愛想がいいから営業向きだ』って言われたんですけど……。あれもギリギリアウトですよね……」
「うーん、褒めてるつもりなんだろうけどね」
「『女の子は愛想が大事だからな』って続いたんですよ」
「……それはちょっとアウト寄りかな」
「ですよねえ……」
大垣は関西出身の二十六歳。私の2つ下。
愚痴っぽく言いながらも、本気で嫌がっているわけではなさそうだ。
この部署に来て一年、田所課長の扱いにも慣れてきたらしい。
慣れていいのかどうかは、また別の問題だけど。
「宮地、今日の午後のマルヨシストアの商談、俺も同席するから」
課長の声が飛んできた。
「え、課長がですか?」
「新商品の初回発注、でかい話になりそうだからな。
お前一人に任せきりも悪い」
「……ありがとうございます」
素直に助かる。
マルヨシストアはうちの主力取引先の一つで、担当エリアのエリアマネージャーが窓口になっている。
(——そのエリアマネージャーが、過去に会った顔だったのは、本当に偶然だった)
◇ ◇ ◇
午後。マルヨシストア本部の会議室。
「お世話になっております。本日は課長さんにもお越しいただいて」
エリアマネージャーの進藤が、営業スマイルで私たちを迎えた。
三十二歳。若くしてこのポジションに就いたやり手——という評判らしい。
「いえいえ、いつも宮地がお世話になってます」
田所課長も穏やかに挨拶を返す。
商談は滞りなく進んだ。
新商品の提案、販促プランの説明、初回発注数の交渉。
進藤はあくまで感じのいい取引先の担当者で、私たちはあくまで感じのいい営業チーム。
何も、問題はなかった。
「ありがとうございました。引き続きよろしくお願いします」
「こちらこそ。また来月の定例でお会いしましょう」
名刺交換の延長のような、穏やかな別れ際。課長と二人、ビルを出る。
何も、起きていない。
◇ ◇ ◇
「お前、最近弁当屋ばっか行ってない?」
帰り道、唐突に課長が言った。
「……え?」
「前はコンビニで昼済ませてたろ。どうした、飽きたか?」
「いや、別に……最近あの弁当屋のチキン南蛮が美味しくて」
「ふうん」
それ以上は何も聞かれなかった。
(——また始まった。プライベートへの干渉。今度は昼食の取り方か)
でも、なぜか今日は「パワハラですよ」と返す気になれなかった。
会社の最寄り駅で課長と別れ、一人で電車に乗る。
社用携帯が震えた。
画面に表示された名前を見て、息が止まる。
『今日の打ち合わせの件、ちょっと確認したいことあるんだけど。
明日の夜空いてる?
前も言ったけど、たまには関係なくご飯くらい行こうよ。
いつまでも返事くれないと俺も困るんだけど』
(——またか)
画面を伏せて、見なかったことにした。




