無垢と静寂
土曜の午後。
初夏の陽がやわらかく差し込む庭で、樹は文庫本を片手に腰を下ろしていた。
視線は活字に落ちているが、耳は自然と隣家の騒がしさを拾っていた。
「ママ、好きだよ」
幼い声。でも、抑揚は少ない。
けれど、口元だけがわずかに緩んで、ふわりと微笑んでいるのが見えた。
それが、透という存在だ。
目は真っ直ぐで、感情を大きく動かすことが少ない。
小さな体にそぐわないほど、心は静かで落ち着いている。
けれどその分、一つ一つの言葉に重みがある。
「愛してるって、言葉だけじゃ届かないでしょ?だから、こうして伝える」
そう言って、透は自然と母親の肩に手を回し、淡々と抱きしめる。
あまりに迷いがなさすぎて、母親が一瞬驚いたように笑った。
それが透のやり方だった。
見返りを求めない。
ただ、自分の中の“愛”を、適切な形で表現したいと思っている。
それが家族であれ、友達であれ、時には──
「樹、ただいま」
家の前を通り過ぎようとした透が、樹を見つけて足を止める。
手には買い物袋、表情はいつものように無表情。けれど、目が一瞬だけ柔らかくなった。
「好きだよ、樹。会えると嬉しい」
淡々とした声。でも、その言葉には嘘がなかった。
ふわりと笑う。まるで光が差し込むような、短く儚い笑み。
「……お、おう」
返す言葉に困る。
これは子供の甘えでも、無邪気な感情でもない。
何か、もっと根の深い──“愛情”の一種だ。
透は、言葉よりも行動でそれを示す。
だが彼は分かっている。
自分の抱く“好き”が、家族愛や友愛、そして恋愛までも包む広さを持っていることを。
本来ならキスだってしてみたい、とさえ思っているかもしれない。
でも、それを今はしない。ちゃんと、我慢している。
“まだ”その時じゃないと知っている。
樹はページをめくる手を止め、透の小さな背中を見送る。
(……変なガキだよな、本当に)
けれど、その言葉の裏に、わずかな温かさと困惑が入り混じっていた。