TS転生令嬢は虐げられていた異母姉を愛する
プロローグ:異世界転生と新たな生活
――これは、夢だろうか。
リリアーナ・エル・アクアベリーは、薄暗い天井を見上げながら、意識が覚醒するのを感じていた。
しかし、視界に映るのは見慣れた自室の天井ではない。
白いレースのカーテンが揺れる窓、天井の装飾、そして漂うラベンダーの香り。
どれも現実離れしていて、彼女の前世――そう、前世にあたる生活とはかけ離れていた。
「……またこの夢か」
リリアーナは静かにため息をついた。
しかし、これは夢ではない。
なぜなら、彼女はこの世界に生まれた瞬間から、前世の記憶を鮮明に持っていたのだから。
前世の彼女は、アラサーのエロゲ好きニートだった。
自宅に引きこもり、ひたすらゲームをプレイし、二次元の美少女たちに囲まれた理想郷に浸っていた。
しかし、それが原因で体調を崩し、気が付けばこの異世界に転生していた。
TS転生――つまり、男だった自分が女の子として生まれ変わるという、まさにエロゲ的な展開。
しかし、実際に異世界の貴族令嬢として生まれ変わるとは、さすがに予想外だった。
「リリアーナ様、起きていらっしゃいますか?」
扉の向こうから優雅な声が響く。
メイドのクラリッサだ。
彼女はいつも丁寧で優しく接してくれるが、その態度の裏に隠された微妙な距離感を、リリアーナは敏感に感じ取っていた。
貴族社会では、人間関係も一種のゲームのようなものだ。前世で培った洞察力を駆使しながら、リリアーナはこの世界で生き延びてきた。
「うん、今起きたところ」
リリアーナは柔らかく返事をし、ベッドからゆっくりと体を起こした。
鏡の前に立つと、そこには淡い金髪と透き通るような青い瞳を持つ少女が映っている。
スレンダーな体躯に整った顔立ち――前世の自分とは比べ物にならないほどの美少女だ。
これが俺……いや、私か……。うーん、何度見ても慣れないな。
しかし、この世界で13年も生きていれば、さすがに「リリアーナ」としての自分にも馴染んできた。
貴族令嬢としての立ち振る舞いや礼儀作法も完璧にこなし、周囲からの評価も高い。
しかし、その裏で常に「攻略対象」を探してしまう自分がいることに、リリアーナは苦笑せざるを得なかった。
そんなある日、リリアーナの生活は大きく変わることになる。
「リリアーナ、お前は今日からアクアベリー公爵家に引き取られることになったわ」
母イリーナがそう告げたのは、朝食の席でのことだった。
イリーナは美しく優雅な女性で、リリアーナを深く愛してくれている。
しかし、その背後にはどこか計算された冷静さが見え隠れしていた。
「アクアベリー公爵家……?」
リリアーナは眉をひそめた。
この世界の貴族社会については、前世の知識と13年間の経験でかなり詳しくなっている。
アクアベリー公爵家は、この国でも屈指の権力を持つ名家。
だが、その内部は複雑な権力争いと冷酷な家族関係で知られていた。
「公爵家のアルフォンス様は、お前の父親よ。お前は正式に彼の娘として迎え入れられることになるわ」
その言葉に、リリアーナの心は静かに波立った。
父親――そう、彼女は生まれてから一度も実父に会ったことがなかった。
母イリーナは詳しい事情を語らなかったが、どうやら複雑な政略結婚の結果としてリリアーナが生まれたことは間違いない。
「ふーん、面白そうじゃん」
リリアーナはわざと軽い口調で返した。
だが、内心では別の感情が渦巻いていた。
”これは新たなステージだ。公爵家という舞台で、どんなドラマが待っているのか……“
まるでエロゲの新ルートが解放されたかのような感覚に、リリアーナの心は高鳴っていた。
第1章:サリアとの出会い
アクアベリー公爵家の門が重々しく開かれた瞬間、リリアーナは自分がまるでエロゲの新ルートに足を踏み入れたような感覚に包まれていた。
目の前に広がるのは、広大な庭園と荘厳な石造りの邸宅。
咲き誇る薔薇の花々の向こうに立つその建物は、権威と冷淡さを象徴するかのように空を突き刺していた。
リリアーナは馬車から降り、柔らかなブーツの底で白い砂利を踏みしめながら、目の前に立つ人々を冷静に観察した。
さて、このステージの登場人物は……
最初に目に入ったのは、父アルフォンス・ドエル・アクアベリー。
彼の姿は、噂に違わず冷酷な威厳に満ちていた。
四十歳とは思えないほど整った顔立ちだが、その鋭い灰色の瞳には一片の温かみも感じられない。
隣に立つイリーナ――リリアーナの母は、公爵夫人として完璧な微笑みを浮かべている。
しかし、その目の奥には計算された冷たさが隠れていた。
「リリアーナ、よく来たな。今日からここがお前の家だ」
アルフォンスの声は低く、まるで形式的な挨拶のようだった。
愛情も興味も感じられないその言葉に、リリアーナは内心で肩をすくめた。
うん、前評判通りの冷たい親父だな。攻略対象にはならないタイプ。
「ありがとうございます、父上。どうぞよろしくお願いいたします」
リリアーナは完璧な礼儀作法で一礼した。
その態度にアルフォンスの眉が微かに動いたが、特に何も言わずに背を向けた。
イリーナは微笑みを浮かべたままリリアーナの肩に手を置き、邸宅の中へと導こうとする。
――その時だった。
リリアーナの視線がふと、邸宅の片隅に立つ一人の少女に吸い寄せられた。
彼女は使用人の制服を着ていたが、それは明らかに他の使用人たちのものよりも古びていて、裾もほつれていた。
淡い銀色の髪が肩にかかり、その髪の隙間から覗く横顔は、驚くほど整っている。
しかし、その美しさよりもリリアーナの心を捉えたのは、彼女の瞳だった。
深い悲しみと諦めが混じり合ったようなその瞳は、まるで長い間光を求めることを忘れてしまったかのようだった。
あの子……誰?
リリアーナの心がざわめく。
これは単なる同情ではない。
前世のエロゲ好きとしての直感が告げていた。
この子こそ、この世界の攻略対象だと。
「母上、あの方は……?」
リリアーナは自然と声を上げていた。
イリーナは一瞬眉をひそめたが、すぐに冷静な声で答えた。
「ああ、あれはサリアよ。あなたの異母姉にあたるわ」
その言葉に、リリアーナの心臓が一瞬止まったかのように感じた。
異母姉……!?
リリアーナは再びサリアを見つめた。
サリアはリリアーナの視線に気づいたのか、一瞬だけこちらを見た。
その瞳の奥に、警戒と戸惑いが浮かぶ。
あの瞳……守ってあげたい。
いや、それだけじゃない。
もっと近くで、その心を開かせたい。
リリアーナの心はすでに決まっていた。
この子を幸せにする。それが、この異世界での私の使命だと。
初めての夜、リリアーナは自室の窓辺に座り、月明かりを眺めながら考えていた。
サリア……彼女は一体どんな人生を歩んできたんだろう?
使用人として扱われる異母姉。
その存在自体が公爵家の冷酷さを象徴している。
しかし、リリアーナにはそれが許せなかった。
自分が前世でどれだけ孤独だったかを思い出すたび、サリアの孤独が他人事には思えなかったのだ。
「よし、まずは話しかけるところからだわ
リリアーナは心の中で作戦を立て始めた。
エロゲの攻略と同じように、相手の心を開かせるためのステップが必要だ。
焦らず、しかし確実に距離を縮めていく。
だが、この現実はゲームとは違う。
サリアの傷は深く、そう簡単には心を開かないだろう。
でも大丈夫。私は絶対に諦めないから。
リリアーナは決意を新たにし、翌朝を迎えるのだった。
翌日、リリアーナは食堂での朝食を終えると、さりげなく邸宅内を歩き回った。
サリアの姿を探すためだ。
広い廊下を抜け、裏庭へと向かうと、そこにサリアの姿があった。
彼女は庭の片隅で黙々と花の手入れをしていた。
薄暗い表情で、まるで自分の存在を消すかのように静かに作業を続けている。
「おはよう、サリア姉さま」
リリアーナは明るい声で呼びかけた。
その瞬間、サリアの手がぴたりと止まった。
「……リリアーナ様」
サリアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には驚きと困惑が混じっていた。
自分が「姉」と呼ばれることに慣れていないのだろう。
「姉さまと呼ばないでください。私はただの使用人です」
その言葉に、リリアーナは小さく微笑んだ。
「そんなこと、私は認めないわ。サリア姉さまは私の大切な家族。これから仲良くしましょう?」
サリアは目を見開き、しばらくリリアーナを見つめていた。
しかし、その瞳にはまだ警戒心が残っている。
うん、簡単にはいかないか。
でも、それでこそ攻略しがいがあるってもんだ。
リリアーナは心の中で拳を握りしめた。
これが私の新しいルートの始まり。
絶対にサリア姉さまを幸せにするんだから。
この日から、リリアーナとサリアの新しい関係が静かに、しかし確実に始まっていくのだった。
第2章:心の壁を越えて
アクアベリー公爵家に引き取られてから数日が経った。
リリアーナは、この冷たい邸宅の空気にもすっかり慣れていた。
前世の記憶とエロゲの知識を総動員しながら、この新しい環境を「攻略対象の多いシナリオ」として楽しんでいる自分に、どこか滑稽さを感じていた。
しかし、リリアーナの関心はただ一人の少女に向けられていた。
サリア・エル・アクアベリー――異母姉であり、この邸宅で最も不遇な存在。
美しい銀髪と静かな瞳を持つ彼女は、まるで影のように人目を避けて生きていた。
使用人として扱われ、家族からは無視されるその姿は、リリアーナの心に深く刺さっていた。
あの子の心を開いてみせる……絶対に。
リリアーナは強く決意していた。
これは単なる同情ではない。
前世で味わった孤独と重なるサリアの姿に、リリアーナは特別な感情を抱いていた。
そして、その感情は日々強まっていった。
「サリア姉さま、これ、一緒にお茶しませんか?」
リリアーナは柔らかな笑顔でサリアに声をかけた。
場所は邸宅の中庭、色とりどりの花が咲き誇る場所だ。
リリアーナはこの場所を「二人の特別な場所」にしようと考えていた。
しかし、サリアは小さく首を振った。
「私は使用人ですから……お嬢様とご一緒することはできません」
その言葉に、リリアーナはため息をついた。
サリアの自己評価の低さは、想像以上だった。
長年の虐待と無視が、彼女の心に深い傷を残しているのだ。
「姉さま、何度言ったらわかるの? 私はあなたを使用人なんて思っていないわ。あなたは私の大切な家族……それに、私の――」
リリアーナは一瞬言葉を飲み込んだ。
攻略対象と言いかけたが、さすがにそれは控えた方が良さそうだ。
「……友達になりたいの。ダメかしら?」
サリアは驚いたように目を見開いた。
しばらく沈黙が続いた後、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「そんなこと……ありえません。私は、家族からも必要とされていない存在です。あなたのようなお嬢様が私と友達になるなんて……」
その言葉に、リリアーナの胸が締め付けられた。
どうして、そんなふうに自分を卑下するの?
リリアーナはサリアの手をそっと握った。
サリアの手は冷たく、細くて、まるで今にも壊れてしまいそうだった。
「そんなこと、言わないで。私はあなたを必要としてる。だから……少しずつでいいから、私のことを信じてほしいの」
サリアはしばらくリリアーナを見つめた後、静かに手を引いた。
しかし、その瞳には以前とは違う何かが宿っていた。
完全に心を開いたわけではないが、リリアーナの言葉が少しだけ届いたようだった。
それから数日、リリアーナはサリアと過ごす時間を少しずつ増やしていった。
朝の散歩、庭での花の手入れ、そしてたまに一緒にお茶を楽しむ。
サリアは依然として警戒心を解いてはいなかったが、それでもリリアーナの存在を拒絶することはなくなっていた。
ある日の午後、リリアーナはサリアの部屋を訪れた。
サリアの部屋は使用人用の小さな部屋で、質素な家具と薄暗い照明だけがある。
しかし、その中にはサリアが大切にしていると思われる花の絵が飾られていた。
「これ、姉さまが描いたの?」
リリアーナはその絵に見入った。
淡い色彩で描かれた花々は、どこか寂しげで、でも温かみを感じさせた。
サリアは少しだけ恥ずかしそうに頷いた。
「はい……小さい頃から絵を描くのが好きで。でも、もう描くことはやめようと思っていました」
「どうして?」
「こんなこと、無駄だと思っていたから……」
その言葉に、リリアーナは首を振った。
「無駄なんかじゃないわ。あなたの絵はとても素敵。私、もっとたくさん見たい」
サリアは驚いたようにリリアーナを見つめた。
その瞳には、これまで見せたことのない柔らかさが宿っていた。
「……ありがとう、ございます」
それはとても小さな声だったが、リリアーナにとっては大きな一歩だった。
その夜、リリアーナは自室のベッドで天井を見上げながら考えていた。
サリア姉さまの心の扉は、少しずつだけど確実に開いてきてる。
あともう少し……あと少しで、もっと近づけるはず。
リリアーナは微笑みながら目を閉じた。
サリアの笑顔をもっと見たい。
そのためなら、どんな努力も惜しまない。
そう心に誓いながら、リリアーナは静かに眠りについた。
第3章:二人の絆と家族の冷酷さ
アクアベリー公爵家に引き取られてから数ヶ月。
リリアーナとサリアの関係は、少しずつではあるが確実に変化していた。
サリアはまだ完全には心を開いていないものの、リリアーナの存在を拒絶することはなくなっていた。
むしろ、リリアーナがそばにいることで安堵の表情を浮かべることすら増えてきた。
リリアーナにとって、それは小さな勝利だった。
だが、その勝利の影には、家族の冷酷な視線が常に付きまとっていた。
ある日の午後、リリアーナはサリアと共に庭園でお茶を楽しんでいた。
サリアの表情は柔らかく、以前のような緊張感は薄れている。
銀髪が陽光に照らされ、まるで宝石のように輝いていた。
「姉さま、最近は少し顔色が良くなった気がするわ」
リリアーナが微笑むと、サリアは照れくさそうに視線を逸らした。
「リリアーナ様のおかげです……でも、私はまだ……」
その言葉を遮るように、リリアーナはサリアの手をそっと握った。
「私の前では遠慮しなくていいの。あなたはもう一人じゃないから」
サリアの瞳が揺れる。
その瞬間、二人の間に静かな絆が確かに生まれていることをリリアーナは感じた。
しかし、その温かなひとときは、無遠慮な声によって壊された。
「リリアーナ、お前はまたそんな下賤な者と時間を過ごしているのか」
冷たい声が背後から響いた。
振り返ると、そこにはアルフォンス公爵とイリーナが立っていた。
アルフォンスの鋭い目がサリアを射抜き、イリーナの口元には薄い笑みが浮かんでいるが、その瞳は冷ややかだった。
「父上、母上。サリア姉さまは私の大切な家族です。下賤な者などではありません」
リリアーナは毅然と答えた。
その言葉にアルフォンスの眉がわずかに動く。
しかし、彼の態度は変わらなかった。
「家族だと? あれはただの失敗作だ。お前は公爵家の後継者として相応しい振る舞いを学ぶべきだ」
その言葉に、サリアの顔が一瞬で青ざめた。
だが、リリアーナはすかさずサリアの手を強く握り返した。
「私は後継者になるつもりはありません。サリア姉さまがこの家で幸せに暮らせること、それが私の望みです」
その毅然とした態度に、イリーナの笑みが消えた。
彼女は冷たくリリアーナを見つめた後、静かに呟いた。
「その考え、いつまで持ち続けられるかしらね……」
その日の夜、リリアーナは自室で深く考え込んでいた。
アルフォンスとイリーナの態度は予想していたものの、実際に直面すると心の奥底から怒りが湧いてきた。
あの人たちはサリア姉さまを人間扱いすらしていない……許せない。
リリアーナは拳を握りしめた。
このままではサリアが再び心を閉ざしてしまうかもしれない。
そう考えると、いてもたってもいられなかった。
私は絶対に姉さまを守る。どんな手を使ってでも。
翌日、リリアーナはある行動に出た。
公爵家の影響力を利用して、サリアの立場を改善するための計画を練り始めたのだ。
まず、リリアーナは使用人たちにサリアへの態度を改めるよう指示を出した。
彼女が公爵家の一員であり、リリアーナにとって特別な存在であることを公然と示すことで、サリアへの無視や冷遇を減らす狙いだった。
次に、リリアーナは公爵家の財政や管理に関する知識を学び始めた。
これは単なる後継者としての義務ではなく、サリアを守るための武器として必要なものだった。
家の内部から権力を握り、サリアを堂々と保護するための準備だった。
数週間が過ぎた頃、サリアの周囲には少しずつ変化が現れ始めた。
使用人たちはリリアーナの存在を恐れ、サリアへの態度を軟化させた。
サリア自身もその変化に戸惑いながらも、リリアーナの努力を理解し始めていた。
「リリアーナ様……どうして、ここまでしてくれるのですか?」
ある日、サリアはリリアーナにそう尋ねた。
その瞳には純粋な疑問と、少しの不安が宿っていた。
リリアーナは静かに微笑み、サリアの手を取った。
「だって、姉さまは私の大切な人だから。守りたいと思うのは当然でしょう?」
サリアはその言葉にしばらく沈黙していたが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとう、リリアーナ様」
その言葉はまだ控えめだったが、リリアーナにとっては何よりの報酬だった。
しかし、リリアーナの行動はアルフォンスとイリーナの怒りを買うことになる。
ある晩、リリアーナは父アルフォンスに呼び出された。
暗い書斎で対面したアルフォンスの顔には、これまで以上の冷酷さが浮かんでいた。
「リリアーナ、お前の行動は目に余る。サリアのことは放っておけ。彼女に関わることで、お前の未来を台無しにすることになるぞ」
その言葉に、リリアーナは一歩も引かずに答えた。
「私は自分の未来を自分で決めます。サリア姉さまを守ることが、私の生きる意味です」
アルフォンスは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに冷たい笑みを浮かべた。
「そうか……ならば、その覚悟がどれほどのものか見せてもらおう」
その言葉が意味するものは明白だった。
リリアーナは公爵家の冷酷な策略に立ち向かう覚悟を新たにし、サリアと共に未来を切り開く決意を固めたのだった。
第4章:スフィアの死と変化の兆し
夏の終わりが近づく頃、公爵家の空気は一層重苦しく沈んでいた。
サリアの母、スフィア・ミエル・アクアベリーの病状が悪化し、屋敷全体が微妙な緊張感に包まれていたのだ。
スフィアが長年の病に伏せっていたことは公然の秘密だったが、ここ数週間は特に容態が深刻だった。
リリアーナは、その空気の中で静かにサリアの様子を見守っていた。
スフィアの病状が悪化するたびに、サリアの顔色もまた曇っていく。
サリアは母の愛情を一度も感じたことがないと言っていたが、それでも母の存在は彼女にとって重くのしかかるものだった。
ある日の午後、リリアーナはサリアを庭園に誘った。
秋の気配が漂う庭には、枯れ葉が舞い散っていた。
リリアーナはサリアの手をそっと握りながら、優しく声をかけた。
「姉さま、大丈夫?」
サリアはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……大丈夫じゃない、かもしれません」
その声はかすかに震えていた。
リリアーナはサリアの手をもう少し強く握り、彼女の瞳を見つめた。
「無理に強がらなくていいの。私は姉さまの味方だから」
サリアの瞳に、わずかに光が宿った。
その瞬間、リリアーナはサリアの心の壁が少しずつ崩れているのを感じた。
数日後の夜、屋敷全体がざわめきに包まれた。
リリアーナが廊下を歩いていると、使用人たちが慌ただしく行き交い、静かに囁き合っているのが聞こえてきた。
「……スフィア様が……」
その言葉を耳にした瞬間、リリアーナの胸に冷たいものが走った。
急いでサリアの部屋へ向かうと、扉は静かに開かれていた。
中に入ると、サリアがベッドの端に座り、手を握りしめて俯いていた。
「姉さま……」
リリアーナの声に反応することなく、サリアはただ静かに呟いた。
「……母が、亡くなったそうです」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるような響きだった。
リリアーナはゆっくりとサリアの隣に座り、彼女の肩に手を置いた。
「悲しい?」
しばらくの沈黙の後、サリアは小さく頷いた。
「母は、私にとって優しい人ではなかった。でも……それでも、母だったから」
その言葉に、リリアーナの胸が痛んだ。
サリアの中には、愛されたかったという深い願望があったのだ。
たとえどれだけ冷たくされても、親の存在は子供にとって特別なものだとリリアーナも理解していた。
リリアーナはサリアをそっと抱きしめた。
「大丈夫、姉さま。私はここにいる。これからは、私が姉さまを守るから」
サリアはその言葉に、静かに涙を流した。
その涙は、これまで抑え続けてきた感情が溢れ出した証だった。
スフィアの葬儀は、貴族らしく冷徹で形式的なものだった。
アルフォンスとイリーナは淡々と儀式をこなすだけで、サリアに対しての配慮は一切なかった。
リリアーナはその態度に内心で怒りを燃やしながらも、冷静さを保っていた。
今は感情的になるべき時ではない。
サリアを守るためには、冷静な判断と行動が必要だった。
葬儀が終わった後、リリアーナは行動を開始した。
スフィアの死によって公爵家の権力構造に変化が生じることは明白だった。
リリアーナはその隙を突き、サリアの地位を向上させるための計画を練った。
まず、リリアーナは公爵家の管理に関わる使用人たちと接触し、サリアが公爵家の正式な一員であることを強調した。
リリアーナの影響力は無視できないものとなっており、使用人たちも次第にサリアへの態度を改めざるを得なくなった。
次に、リリアーナはアルフォンスに直談判を試みた。
父の書斎に足を踏み入れたリリアーナは、冷たい視線を浴びながらも一歩も引かずに言った。
「父上、サリア姉さまをこの家の正式な家族として扱っていただきたい」
アルフォンスは一瞬だけリリアーナを見つめた後、冷笑を浮かべた。
「お前には似合わない感情だな。だが、好きにするがいい。結果を出せるなら、口出しはしない」
その言葉にリリアーナは内心でほくそ笑んだ。
ならば、結果を見せてやるわ。
数週間が過ぎると、サリアの立場は目に見えて変わっていった。
使用人たちは彼女に対して敬意を払うようになり、食事や服装も改善された。
サリア自身もその変化に戸惑いながらも、リリアーナの努力を理解し始めていた。
ある日の夕方、リリアーナはサリアと共に庭園を散歩していた。
夕陽が二人の影を長く伸ばし、静かな時間が流れていた。
「リリアーナ様……どうして、ここまでしてくれるのですか?」
サリアの声は静かだったが、その瞳には深い感謝と戸惑いが混じっていた。
リリアーナは微笑みながらサリアの手を取った。
「だって、姉さまは私の大切な人だから」
その言葉に、サリアは驚いたように目を見開いた。
しかし、すぐにその瞳は柔らかく細められ、頬に薄紅が差した。
「……ありがとう、リリアーナ様」
その瞬間、二人の間に確かな絆が生まれたことをリリアーナは確信した。
サリアの心は完全に開いたわけではないが、もう少しでその扉は全て開くだろう。
あと少し……あと少しで、姉さまは私のものになる。
リリアーナは心の中で静かに誓いながら、サリアの手を優しく握り続けた。
第5章:愛の告白と障害
秋も深まり、アクアベリー公爵家の庭園は紅葉に彩られていた。
冷たい風が吹き抜け、枯葉が静かに舞い散る中、リリアーナはサリアを中庭へと誘った。
今日こそ、自分の想いを伝える――その決意が胸の奥で静かに燃えていた。
サリアは、リリアーナの少し緊張した様子に気づいているのか、不思議そうに首を傾げながらも、何も言わずに彼女の後についてきた。
二人は庭園の片隅、古びた石造りのベンチに腰を下ろした。
ここは、二人がよく一緒に過ごす場所だった。
「……姉さま」
リリアーナはゆっくりとサリアの名前を呼ぶ。
その声はわずかに震えていたが、決意は揺るぎなかった。
サリアは静かにリリアーナを見つめ返す。
銀色の髪が秋風に揺れ、薄紅に染まった頬が夕陽に照らされて美しく輝いていた。
「どうしたの、リリアーナ様?」
サリアの声はいつも通り穏やかだったが、その瞳の奥には微かな不安が宿っているように見えた。
リリアーナは深呼吸を一つしてから、ゆっくりと口を開いた。
「姉さま……私、ずっと言いたかったことがあるの」
サリアは驚いたように目を見開いたが、何も言わずに続きを待っている。
その静寂がリリアーナの心臓の鼓動をさらに速くさせた。
「私は……姉さまが好きです」
その言葉は静かに、しかし確かな響きで空気を震わせた。
サリアの瞳が大きく見開かれ、リリアーナの顔をじっと見つめる。
数秒間の沈黙が永遠のように感じられた。
「……リリアーナ様?」
サリアの声はかすかに震えていた。
その反応に、リリアーナは微笑みながら続けた。
「私は、姉さまを家族としてだけじゃなく、一人の女性として愛しています。あなたがどんな過去を背負っていても、私はあなたを大切にしたい。ずっとそばにいてほしいの」
その瞬間、サリアの目から涙が一滴、頬を伝って落ちた。
リリアーナは驚いてサリアの手を取ったが、サリアはその手をそっと振りほどいた。
「リリアーナ様……そんなこと、言わないでください」
サリアの声は苦しげだった。
リリアーナは戸惑いながらも、サリアの瞳を見つめ続けた。
「どうして? 私の気持ちは本気よ」
サリアは唇を噛み締め、目を伏せた。
「私は……そんな愛に値しないんです。私はずっと、この家で使用人として扱われてきた……家族からも認められなかった。そんな私が、あなたのような方に愛されるなんて……考えられません」
その言葉に、リリアーナの胸は締め付けられた。
サリアの中に根付いた自己否定の深さに、リリアーナは改めて気づかされた。
「それは違う、姉さま。あなたは愛されるべき人だわ。私はその証明をしたいの。だから、どうか逃げないで……私の気持ちを受け取って」
リリアーナはもう一度サリアの手を握った。
その手は冷たく、細かく震えていた。
しかし、サリアは再び手を引き、ゆっくりと立ち上がった。
「ごめんなさい……リリアーナ様。私は……」
そのままサリアは何も言わずに庭園を後にした。
リリアーナはその背中を見つめながら、静かに拳を握りしめた。
サリアとの距離が縮まったと思った矢先の出来事に、リリアーナは心の奥で悔しさを噛み締めていた。
しかし、それだけでは終わらなかった。
数日後、公爵家の中で異変が起こる。
リリアーナが朝食の席につくと、アルフォンスとイリーナが冷たい視線を向けてきた。
イリーナの唇には薄笑いが浮かんでいる。
「リリアーナ、最近サリアと随分親しくしているようね」
イリーナの声は柔らかいが、その裏には明確な敵意が滲んでいた。
リリアーナは冷静さを保ちながら答えた。
「姉さまは大切な家族ですから」
その言葉に、アルフォンスの目が鋭く光った。
「家族ね……。だが、サリアは正式な公爵家の一員ではない。お前にはもっと相応しい役割があるはずだ。くだらない情に流されるのはやめろ」
リリアーナは静かにナプキンをテーブルに置き、父親を真っ直ぐに見つめた。
「私の人生は私が決めます。父上や母上の望む通りには生きません」
その言葉に、イリーナの微笑みが消えた。彼女は冷たく言い放つ。
「ならば、その代償を払ってもらうことになるわね」
リリアーナはその意味をすぐに理解した。
アルフォンスとイリーナが、サリアを再び排除しようとしているのだ。
その夜、リリアーナはサリアの部屋を訪れた。
サリアは驚いたようにリリアーナを見たが、すぐに視線を逸らした。
「リリアーナ様……どうしてここに?」
「姉さまを守りに来たの」
その言葉に、サリアは驚きと戸惑いの表情を浮かべた。
「守る? 何を……?」
リリアーナは真剣な表情でサリアを見つめた。
「父上と母上が、姉さまをこの家から追い出そうとしている。私はそれを絶対に許さない。だから、姉さま、私と一緒に戦ってほしい」
サリアはその言葉に目を見開いた。
「戦う……?」
リリアーナは頷いた。
「私はあなたを愛してる。どんな障害があっても、あなたと一緒にいたい。そのためなら、家族だって敵に回す」
サリアの瞳が揺れる。
その中に恐れと迷いが見えたが、同時にリリアーナへの信頼も感じ取れた。
「リリアーナ様……私は……」
その言葉の続きを、リリアーナは静かに待った。
「私は……あなたの気持ちが怖かった。でも、今は違う。あなたが私のためにここまでしてくれるなら、私もあなたのそばにいたい」
その言葉に、リリアーナの胸は温かさで満たされた。
彼女はサリアの手をそっと握りしめた。
「ありがとう、姉さま。これからは二人で未来を切り開いていこう」
その夜、二人は手を取り合い、公爵家の陰謀に立ち向かう決意を新たにした。
最終章:未来への約束
冬の終わり、アクアベリー公爵家の庭園にはまだ薄く雪が残り、冷たい風が木々の枝を揺らしていた。
だが、その寒さの中で、リリアーナとサリアの間に流れる空気は、どこまでも暖かかった。
リリアーナはサリアの手をしっかりと握り、二人並んで庭園の中心に立っていた。
ここは二人が何度も語り合い、心を通わせてきた場所。
今、この庭は新たな未来への誓いを立てる場となる。
過去数ヶ月、リリアーナは公爵家の権力を巧みに利用し、サリアの地位を正式に認めさせるために奔走してきた。
アルフォンスとイリーナが仕掛けた数々の陰謀を冷静に切り抜け、時には大胆な手段を用いながらも、最終的に公爵家の内外にサリアの存在を認めさせた。
アルフォンスは最初こそ強硬な態度を崩さなかったが、リリアーナの知略と公爵家の支援者たちの後押しにより、ついにサリアの家族としての地位を正式に認めざるを得なくなった。
イリーナもまた、その表情には未だにサリアへの冷淡さが残っていたが、リリアーナの決意の前にはもはや抵抗できなかった。
その日の午後、屋敷の大広間で正式な発表が行われた。
「サリア・エル・アクアベリーは、公爵家の正式な一員として迎え入れられる」
アルフォンスの冷たい声が響いたが、その言葉の重みは計り知れなかった。
使用人たちも、貴族たちも、サリアを単なる使用人ではなく、公爵家の正統な娘として受け入れざるを得ない事実を突きつけられたのだ。
サリアはその場に立ちながらも、信じられないような面持ちでリリアーナを見つめていた。
リリアーナは微笑み返し、その手をそっと握った。
「これで、もう誰にも姉さまを傷つけさせないわ」
その言葉に、サリアの瞳に涙が溢れた。
長年の孤独と痛みが、リリアーナの一言で癒されていくのを感じたのだ。
数日後、リリアーナはサリアを庭園へと連れ出した。
冬の寒さがまだ残る庭だが、二人にとってはそれがかえって心地よく感じられた。
「姉さま、これからのこと……一緒に考えない?」
リリアーナが静かに口を開いた。
サリアはその言葉に驚きながらも、優しく頷いた。
「これからのこと……?」
リリアーナはサリアの手を握り直し、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私は、姉さまと一緒に未来を歩みたい。この家の中だけじゃなく、外の世界にも出て、二人で新しい人生を築いていきたいの」
サリアはしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「私も……リリアーナ様と一緒にいたい。でも、本当にいいの? あなたには公爵家の後継者としての責任があるでしょう?」
その言葉に、リリアーナは小さく笑った。
「私は、自分の生き方を自分で決めるわ。父上も母上も、もう私を縛ることはできない。私が望むのは、姉さまと一緒にいること。それが私の未来なの」
サリアの瞳に再び涙が溢れた。
彼女はリリアーナの手を強く握り返し、震える声で答えた。
「ありがとう……リリアーナ様。私も、あなたと一緒に新しい未来を歩みたい。どんな困難が待っていても、あなたとなら乗り越えられる気がするの」
その言葉を聞いた瞬間、リリアーナの心は温かな感動で満たされた。
二人の間には、もう何の隔たりもなかった。
その夜、二人は星空の下で静かに語り合った。
公爵家の庭園に広がる夜空は、無数の星々が輝き、二人の未来を祝福するかのように美しかった。
「リリアーナ様、こんなに幸せな気持ちになるなんて、思ってもみませんでした」
サリアが静かに呟いた。
リリアーナはサリアの肩に頭を預け、優しく囁いた。
「私もよ、姉さま。でも、これからもっと幸せになろう。二人で一緒に、素敵な未来を作るの」
サリアはその言葉に微笑み、リリアーナの手をぎゅっと握りしめた。
「はい、一緒に……ずっと一緒に」
そして翌朝、二人は新しい人生を歩むための準備を始めた。
公爵家の重い空気から解放され、自分たちの力で未来を切り開く日々が始まる。
庭園の片隅、かつて孤独と絶望が支配していた場所で、今は希望と愛が満ちていた。
二人の絆はどんな困難にも揺るがない。
リリアーナとサリアは、共に未来を見つめながら、静かに手を取り合った。
その未来には、数えきれないほどの困難が待ち受けているかもしれない。
しかし、二人にとってそれは恐れるべきものではなかった。
なぜなら、リリアーナとサリアの間には、揺るぎない愛と信頼があったからだ。
「姉さま、これからもずっと一緒に」
「はい、リリアーナ様。どこまでも一緒に」
そうして二人は、朝日の差し込む庭園を歩き出した。
その背中には、新たな未来への希望が輝いていた。
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