淡い紫色の薔薇
私室の前に行くと、爽やかな甘い香りがした。
香りは、廊下に飾られた淡い紫色の薔薇から漂っている。
(今日は二本なのね……)
淡い紫の薔薇の花は二本飾られていた。
まだ、薔薇の時期には早い……咲き始めたばかりなのだろうか。
(やり直し前、専属侍女のリリアンに聞いてみたけれど、この薔薇を飾っているのは自分ではない、と言っていたわ)
そのときは、不思議に思っただけでそれ以上詮索することはなかった。
伯母は花が好きでこのお屋敷はいつも花があふれていたから、きっと偶然この場所に飾られたのだろうと思ったのだ。
(でも……今になって考えれば、嫌っている私の部屋の前にわざわざ花を飾るはずないわ)
薔薇を手にして香りを吸い込んでみる。
爽やかな甘い香りは、心を穏やかにしてくれるようだ。
「お嬢様……失礼致します」
薔薇を花瓶に戻して振り返ると、執事長がリリアンを連れて立っていた。
やり直し前、リリアンは先ほどの場で専属侍女として紹介された。
(けれど今回は、鍵の一件があったから遅れたのかしら)
そんなことを思いつつ口を開く。
「どうしたの?」
「先ほど紹介するつもりでしたが、タイミングを逃してしまい……。このような場所で申し訳ありませんが、お嬢様の専属侍女を紹介させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、構わないわ」
「こちらは、お嬢様の専属侍女のリリアンです。カーラー子爵家の三女で、侍女としてはまだまだ不慣れではありますが、良い話し相手になるかと」
「そう……。リリアン、これからよろしくね」
微笑んで首をかしげると、リリアンがそばかすのある頬を赤く染めた。
「アイリス様、こちらこそ、よろしくお願いいたします」
明るく正義感が強いリリアンは、いつでも私の味方になってくれた。
けれど私の専属侍女になったせいで、彼女は使用人たちから嫌がらせをされる。
そのうえ、宝石を盗んだという濡れ衣まで着せられるのだ。
(でも……今回は、そんな目に遭わせないわ)
密かな決意をしていると、執事長が「では私はこれで」と一礼して去って行った。
「アイリス様、湯浴みの用意ができています」
「ありがとう」
慣れない手つきながら一生懸命手伝ってくれるリリアンを微笑ましく思いつつ磨き上げられる。
ゆったりとした部屋着に着替えた私は、ようやく部屋で一人きりになった。
父が亡くなったときに従姉妹に取り上げられた調度品が全て揃っていることで、本当に六年前に戻ってきたのだと改めて思い知らされる。
義兄に殺されたはずの自分が、なぜ六年前に戻っているのか。
どうして、義兄の態度がやり直し前と大きく違うのか。
(わからないことだらけ……)
ベッドに倒れ込んだところで、先ほどまでずっと私の手を握っていた義兄の手の温もりを思い出す。
義兄の手は、想像していたよりもゴツゴツしていた。それはきっと義兄が剣を握るからなのだろう。
(――お義兄様は、魔法も、勉学も、剣も、立ち居振る舞いも何もかも完璧だわ)
密かに義兄に憧れている令嬢は多く、義兄の婚約者になった後は彼女たちからの嫌がらせも多かった。
(でも私……お義兄様のこと、何も知らない……)
私が知っていることといえば、義兄が遠縁から父の養子に迎えられたこと、何もかも完璧なこと、私のことをいない者として扱ってきたこと……。
(――今日知ったのは、ダンスのリードがお父様によく似ていること……)
きっと疲れ切っていたのだろう。
いつの間にか私は、ベッドに倒れ込み鍵を握りしめたまま、眠りについていた。
* * *
胸元に強い衝撃を感じた。あまりの熱さの原因を探して下を向くと、刃のような氷が私の胸を刺し貫いていた。
(お義兄様の魔法だわ……)
氷から感じるのは、確かに義兄の魔力だった。
どんどん体から力が抜けていって立っていることができずに膝をついて地面に倒れ込む。
けれど、誰かに抱き留められ、それ以上の衝撃は訪れなかった。
「アイリス!」
私を抱き上げた義兄は、血まみれだった。
(お義兄様……)
ボタボタと私の頬に落ちてきた生温かい液体は、怪我をした義兄の血だろうか……それとも違う何かだろうか。
視界がぼやけてしまって、義兄の表情を見ることはもうできない。
今まで私に興味を示してこなかった義兄に、最期に抱き上げられたことにほんの少しの喜びを感じた。
どうして嬉しく思うのだろう……何もかも諦めていたはずなのに。
* * *
その夢は生々しくて、しばらくの間、身動きすら取れなかった。仰向けのまま天井を眺める。
はっきりと思い出せなかった死の間際の記憶……。背中が冷たい汗で濡れている。
「……お義兄様が、私のことを抱き上げるなんてあるはずないのに」
出会った当初から、義兄は完全に私を避けていた。
まるで、私がそこに存在しないとでもいうように……。
それなのに先ほどの夢の中で義兄は確かに死の間際、私の名を呼び抱き上げた。
(でも……昨日のお義兄様だったらありえるかもしれない)
単なる夢だったのか、それともやり直す直前に実際に起きたことなのか、判別できないままゆっくりと起き上がる。
ベルを鳴らすと、リリアンが部屋に入ってきて着替えを手伝ってくれた。
今日のドレスは、私の瞳の色と同じ淡い紫色だ。
普段着なのに高価な真珠がふんだんに使われている。
(見たことのないドレスだわ……)
そのことを不思議に思いつつも、全てが以前と同じということもないのだろう、と無理矢理納得する。
「アイリス様、すでに食堂で旦那様とシルヴィス様がお待ちになっています」
「お義兄様も……?」
義兄は公式の席以外で、私と食事をしたことはなかった。
ザワザワと落ち着かない気持ちのまま、私はリリアンとともに食堂へと向かったのだった。