斜面
鬱蒼とした木々と切り立つ崖。
確かにあの崖から転落したなら、助かるはずがない。
(でも、お父様を引き留めるだけでいいはずなのにどうしてお義兄様は身代わりになろうだなんて……)
「この場所であれば、周囲から馬車は見えにくいでしょう。ここからは徒歩です」
「リセル、どういうこと?」
銀色の髪が暗い木々の下、木漏れ日を浴びて輝いていた。リセルは紺色の瞳を細めしばらくなにか思案しているようだった。
「知っていることを洗いざらい話していただけませんか? そうでなければ、これ以上の協力はしかねます」
「……」
「出会ったばかりの俺のことは、信用できませんか?」
「……いいえ、信じるわ。だってあなたはお義兄様が信じている人だもの」
あの場で私に関わっていた痕跡など消して、見捨てた方がリセルにとって危険はなかっただろう。彼ならそれができた。
それに、いざというとき私を逃がすために義兄が選んだ人だ。信頼できるに決まっている。
「本来であれば、馬車でフィートフィア山を越えようとしていたお父様はあの崖から落ちて死んでしまうはずだったの。なぜか今、馬車に乗っているのはお義兄様だけれど」
「……未来を知っているかのような言い方ですね」
「そうよ、変わることがあるけれど、未来の大枠を知っているの」
「シルヴィス殿もそうなのですね。競売の落札額も、まだ発見されていなかった鉱山もあらかじめ知っていたようでした」
「そうかもね。でも、お父様にもお義兄様にもまだ話していないわ」
「……はあ。あの二人には先に俺に話したなんて、口が裂けても言わないでくださいね」
「あら、どうして?」
「自覚がないのですか? 少しでもあの二人に関わったことがある者なら、誰もが口を揃えて言いますよ。ヴェルディナード侯爵と侯爵令息は、アイリス・ヴェルディナード侯爵令嬢を溺愛していると」
「……そんな噂が」
「事実です」
この三年間、父と義兄はとても忙しくて、一緒に過ごした時間は少なかったはずだ。
「まあいい、ほら行きますよ」
「ええ」
差し伸べられた手を掴めば、その手のひらはゴツゴツと堅かった。
おそらく腕が立つという予想は当たっているのだろう。
「しかし、馬車の事故であればヴェルディナード侯爵を止めるだけで良かったはず。いくら王命とはいえ、方法は他にも……」
「……私もそう思っていたわ」
けれど義兄はあえて自分が代わるという選択をした。
(ただの事故ではなかったということ?)
「ねえ……この斜面を登るの?」
リセルが進む先に道はない。
あるのは低い木と蔦と雑草が生い茂る斜面だ。
「ええ、お嬢様には少々過酷です。ここでお待ちいただいたほうがよろしいかと」
「……絶対に私も行くわ」
「そうですか」
ため息を吐くと、リセルは私に背を向けて斜面を登り始めた。
私に手を貸すつもりはないようだ。
彼が手と足をかけた場所を注意深く確認して登っていく。
(何も言わないけれど、私に合わせてくれているみたいね)
何気なく登っているように見えるけれど、小柄な私が進みやすいように足場を選んでくれているようだ。
(がんばって鍛えてきたつもりだけれど、まさかこんな斜面を登るなんて)
細かい枝が私の手足を傷つけ、柔らかな手には血が滲む。掴み損ねて力を入れた拍子に爪が剥がれたけれど構わず登る。
ただ、思い浮かぶのは義兄にあの日のことを聞かなくてはいけないということだけだ。
手も足もボロボロになり、頬にもいくつもの擦り傷ができたころ、私はようやく斜面を登り切ったのだった。