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中編






現段階で分かることは母主導の縁談が(私の意思関係なく)進んでいること、新藤さんとやらが母の言う「素晴らしい人」の可能性が著しく低いことだろうか。確実に裏がある人と見て間違いない、母は信用出来ない。


そうだとしたら、彼のお母様とやらに姉と私の写真を見せた件も嘘の可能性が高い。最初から新藤さんの「何か」を知った上で話を持ち込んだ。向こうもこんな17の小娘と息子を結婚させたがる理由は知らないけど、なりふり構ってないことからも後ろ暗い理由があるのは明白だ。


私はどんな状況でもみっともなく足掻く性格だ。しつこいともいう。母に脅されようがこのまま従うつもりは毛頭なかった。18年間耐えたのにまだ母は私を苦しめるつもりだ、もう血が繋がっていようが関係ない。向こうが私を縛るつもりならこっちも徹底的に反抗してやる、と決めた。心を折るつもりなら卒業後なんて悠長なことを言わず、今すぐにでも結婚させれば良かったのだ、母は詰めが甘い。


まず、闘うためにも敵を知らなければならない。私は若山さんに連絡を取り、ある人に伝言と「仕事」をお願いした。


それから約1時間後、若山さんが部屋にやって来た。タブレットを持って。私にそれ手渡すと、真っ黒だった画面が明るくなり、いかにも紳士的な初老の男性が映っている。


「茉莉お嬢様、こうしてお話しするのは久しぶりですね」


柔和な微笑みを浮かべるこの男性は執事の吾妻(あづま)さん、祖父の代から長瀬に仕えてくれている古株だ。仕事上両親と関わる機会も多いので表立って私を助けることは難しいが、私を心配し何かと助けてくれる。私が絶大な信頼を寄せている1人だ。理由は彼の温厚(仕事以外で)な性格と、もう1つ。


「吾妻さん、久しぶり。ごめんなさい、急に色々お願いしちゃって」


「いえいえ、この程度1時間もあれば十分でございますよ」


そう言いながら彼は私から向かって左側に視線を動かし、「調査結果」を報告してくれる。


「…新藤雄二様、27歳。出身は東京都、東央大学経済学部卒業後、森崎銀行に入行。群を抜いて優秀で、上司の覚えもめでたく後輩からも慕われている。その端正な顔立ちと紳士的な性格も相まって女性人気も高いが誰とも交際はしていない。父親は現警視総監、母親は代々政治家を輩出している東金家の唯一の娘で父親は元財務大臣、ほう、家柄も良くご本人も大層優秀な方のようですね…表向きは」


突然声が低くなり、自分に向けられたものではないのに私は背筋が冷たくなった。


「…高校時代、密かに交際していた女性に暴力を振るい問題になりかけるも父親の圧力と金の力で揉み消す。そして大学時代はご友人と女性数人に対して暴行、これももみ消し。被害者の一人は精神を病みずっと入院されているようですね。また、最近も交際相手に暴力を振るい訴えられる寸前で大金を積み黙らせていらっしゃいますね…他にも被害者がいらっしゃるようで、口に出すのも悍ましい、不愉快極まりない方でございますね」


吾妻さんが怒りを滲ませていた理由が分かると同時に、あまりの酷さに二の句が継げなくなった。…何かしら問題を抱えているとは思っていたけど、想像の何十倍も酷い。いや、そんな言葉で片づけてはいけない。女性に暴力を振るい、今も尚苦しめられている人が居るのにのうのうと暮らしているのだ。まさに鬼畜の所業、クズ野郎である。


母がそんな相手と自分を結婚させようとしていた事実にもっとショックを受けると思っていたけど、そうでもないことに驚きを隠せない。もうとっくに私の中の母への期待は薄れていたのだろう。あんな嬉々として暴力を振るう相手へ娘を嫁がせようとする母への最後に残っていた情も、たった今捨てる覚悟が出来た。さあ、話を整理しよう。


恐らく新藤…もうさんを付ける必要はないか。新藤の両親は息子の「所業」に頭を悩ませていた。金で揉み消しても完璧ではない、実際母が嗅ぎつけているのだから。言って言うことを聞く相手ならこんなことをしていないだろうし、想像の範疇を得ないが、新藤は女性に暴力を振るうことで興奮を得る異常者なのかもしれない。そこで結婚相手…いや体のいい「生贄」を探し始めた。「妻」なら暴力を振るっても今までよりバレるリスクが低いとでも思っているのか。

しかし、普通に良い所のお嬢様相手は駄目だ、まともな親なら娘が嫁ぎ先で暴力を振るわれると知ったら黙っていない。


その点うちは普通ではない。私が訴えても父は私が最悪死のうが気にも留めない可能性が高いし、母は言わずもがな。…もしかしたら「要らない娘だから何をしてもいい」とでも持ち掛けたかもしれない。それを言い出す方も、それを受けて早急に17の小娘との縁談を進める方もまともではない。


「要らない」娘の体のいい厄介払い先を探していた母と「生贄」を探していた双方の利害が一致し、この歪な縁談、いや人身売買は成立した。対価は何を貰っているのか、やはり金か、と疑問に思ったが長瀬の会社の経営は安定している。まあそこはどうでもいいか。


だが、分からないのが新藤が私を選んだ理由だ。母が姉の写真を見せるわけがないし、初めから私の写真だけ渡したのだろうけど…ああ、私はぱっと見大人しく従順そうだからか。暴力を振るう人間はそういう相手を好むと聞いたことがあるし…あー気分が悪くなる。奴の言う一目惚れも恋愛的な意味ではなく、どれだけ痛めつけても問題ない玩具を見つけたことに対する歓喜かもしれない可能性に気づき、背筋が薄ら寒くなる。


しかし、吾妻さんの調査能力の高さには恐れ入る。警視総監と政治家が厳重に守っている相手の隠蔽した事実をすぐに調べ上げてしまうのだから。亡くなった父方の祖父はどういう経緯で吾妻さんを雇ったのか。


「お嬢様、この方とお知り合いなのですか、でしたら早急に縁をお切りくださいませ。何でしたら破滅でもさせましょうか、正直に申し上げて生きている価値を感じない方でございますし」


穏やかな声色で恐ろしいことを告げられる。冗談でも何でもなく、吾妻さんにはそれだけの能力があるのだ。敵に回したら誇張ではなく本当に人生が終わる。


「ううん、友人が最近この人と知り合って、交際を申し込まれたらしいんだけど胡散臭いと思って。早く連絡を絶つように伝えておくわ。ありがとう」


適当な理由をでっち上げ、礼を言うとタブレットの電源を切る。流石にこのタイミングで新藤に何かあれば母は確実に私を、こんなことが出来る吾妻さんを疑う。母は自分の思い通りに事が運ばないと逆上し、何をするか分からない性格でその上粘着質だ。吾妻さんの親族に何をしでかすか分からない。母の被害を受けるのは私だけで良い。どうせ縁を切ろうと思っていたのだ、それが早まるだけだ。


今回上手く新藤との縁談を退けられたとしても、母は早急に新しい相手を見繕うはず。今度は卒業後なんて猶予は与えない。そして新藤の身に何か起きても駄目だ、母は敏感に察知し私の自由を奪うために行動を起こし始める。つまり、母に気取られることなく縁談をぶち壊し、色々混乱している内に家を出るしかない。…祖父は協力してくれるだろうが、やはり迷惑をかけたくない、娘である母との仲はただでさえ最悪なものになってるのだから。それも元を正せば姉ばかり可愛がる母の態度に何度も苦言を呈した結果だから私が悪いわけではない。


…こんな時祖父の他に頼る相手として、見慣れた顔が浮かぶ。が、この件はここから先は自分だけの力で乗り切らなければいけない。今までもずっと困った時は誰かに頼って生きてきた、それは家族と向き合うことを放棄し逃げていたことと同じだ。だから最後くらいは家族と逃げずに向き合って、そして


全部捨てて逃げ去ってやろう、と。






それから3日経ったが、いい考えが思い浮かばず頭を悩ませていた。若山さんを始め他の人にも何か悩んでいると気づかれており、内心気が気でない。さらに明日は私の誕生会で今日は結衣と買い出しに行くのだ。たかが数人で飲み食いするのに準備も何もいらないと思うが…出かけるのは楽しいから問題ないけれど。


いや、問題はある。今結衣の顔を見たら全部ぶちまけてしまいそうで怖い。結衣は考えるより先に体が動くタイプだし喧嘩っ早い。そのままうちに乗り込みかねない、そうなったら一条のおばさん達の耳にも入る。…それでは意味がない、おんぶに抱っこのままでは。


…そして何より例の顔合わせとやらもどんどん近づいている。母の話をそのまま信じるならば、それ以降蓮と顔を合わせたら「疑わしい行動」と見做され無理矢理結婚させられることになる。そんなのは死んでもごめんである。私は無自覚に、どんどん追い詰められていた。碌な案も浮かばないのに日数だけ過ぎていくのだから。


結衣以上に蓮の顔は見たくない。見たらきっと、また、いつものように頼ってしまう。「妹」が困っていたら「兄」として助けてくれようとするだろう。今まではそれを嬉しく思っていたけれど、好きでもない最低な奴と結婚させられてしまうかもしれない状況だと、その純粋な善意に胸が痛む。


「妹」としか思われていなくても、優しくされるとほんの少しでも、もしかしたら、と期待してしまうのだ。ああ、いっそ当たって砕けてみるのもいいかもしれない。きっぱり振られ縋るものが無くなれば、なんでもできるようになるかもしれない。ははは、と乾いた声が室内に響いた。



蓮から電話が来たのは、それからすぐあとだった。




「結衣が忘れ物?」




「ああ、あいつ昨日うちに来た時財布忘れて、さっき俺が連絡するまで気づいてねーんだよ。早く取りに来いって電話したら午前中は用事があって来れないから、茉莉に取りに来てもらうよう頼めって。あいつ何考えてるんだ」




電話越しでも結衣に呆れているのが伝わる。財布も忘れるのもそうだが、今日会う予定の私に取りに行かせるのも中々にアレだ、蓮の反応は間違っていない。




「俺がそっち行って届けた方がいいんだろうけど、今日午前中点検の業者が来るから家空けられないんだよ」




なんとタイミングの悪い。…仕方ない、財布がないと買い出しも難しいし蓮も行く時間がないのなら暇な私が行く他ない。




「仕方ないね、今から私が取りに行くよ」




「わりーな、今度なんか奢るわ」




言い終わると蓮は電話を切った。…図らずも1人で初めて蓮の家に行くことになってしまったが、あれほど私が1人で来るのを嫌がっていたのに、やけにあっさり家に来ることを蓮は承諾した。色々冷静ではなくなっていた私はその違和感になんの疑問も抱かなかった。


正直今蓮には会いづらかったが、財布を受け取ったらすぐに帰ればいいと、楽観的に考えていた。








「おー来たか」




財布を取りに来た私を蓮は快く迎え入れてくれた(いつも通り無表情)。さっさと財布を受け取ったら帰ろうと思ってたら「実は他にも結衣が忘れて行ったものがある、軽いものばかりだから持って行って欲しい」と言われ、何も言えないままリビングに通され、その結衣の忘れ物とやらを持ってくると言う蓮を待つことになってしまった。




いつもは隣に結衣がいるのに今日は蓮の部屋に1人。何度も足を運んでいると言うのに、1人だと意識するだけで落ち着かくなる。大学生が一人暮らしするには広すぎる一室は蓮の父親の持ち物。というか最上階のフロアは全部一条の所有らしい。ひと月の家賃、ウン十万。住んでいる部屋を除けば普通にバイトもしているし、他の大学生とあまり変わらない生活を送っている、はずだ。




誰が見ているわけでもないのにソファに腰掛けると背筋がピン、と伸びる。…緊張する、片思い相手(脈なし)の部屋に1人で来て落ち着けというのが無理な話だ。こちら健全な女子高生なのだから。




全身が強張りつつあった時、ガチャとドアの開く音がし蓮が出てくる。が、何故か手ぶらでそのままキッチンへと向かってしまった。あれ、忘れ物は…。その後蓮は慣れた手つきでコーヒーを入れ始めた。やけにのんびりとした動作に、業者はどうした、そもそも忘れ物はという言葉が喉から出かかる。が、結局何も言えず黙ってコーヒーを淹れる蓮の姿を見ていた。




私の分だけミルクをたっぷり入れたカフェオレにし、グラスを両手に持ちソファの前のテーブルに置いてくれる。とうとう我慢できなくなり、口を開いた。




「あのさ、蓮、結衣の忘れ物は?それに業者の人来るんじゃないの、こんなゆっくりしてていいの」




「あー、それ全部嘘」




「え」




淡々と告げられた言葉に私が何も言えなくなっているのに構うことなく、蓮は私の隣に座る。…気のせいでなければいつもより距離が近いような。気のせいじゃない、ちょっと近づいたら肩と肩が触れてしまいそうだ。そう認識した瞬間、頬が熱を持ち始めてしまう。




全部嘘、という言葉とこの状況、混乱し続ける私に蓮はさらに追い討ちをかける。




「吾妻さんから茉莉の様子がおかしいから話を聞いてやれって昨日電話が。茉莉は俺か結衣じゃないと思ってること吐き出せないからって」




吾妻さん…!バラしたわね、と私はいつもにこやかな紳士に心の中で恨み言をぶつける。寄りによって1番知られなくない相手にバラしてしまった、せめて結衣の方に…っと思ったが1人にだけ教えると言うのはあり得ないので、結衣にも知られていると見た方が良い。




「だから騙す形になって悪いけど、嘘ついて来てもらった。あの家族に関することで悩んでるなら、俺が家に行くのは危険だと思ったから」




嘘をついて呼び出したことに対する罪悪感からか肩をすくめる蓮。こんなことで一々申し訳なさそうな顔しなくていいのに、昔からそうだ。口調は素っ気なくても私のことを心配してくれている。…そういう態度を取られるとこっちは勘違いしそうになるということを分かっていない。




嬉しいという気持ちと、これ以上優しくしないで欲しいという気持ちがせめぎ合い胸の奥から何かが込み上げてくる。蓮の顔を見ていられなくなり咄嗟に目を逸らし、無理矢理笑顔を張り付ける。…大丈夫、やれば出来ると自らを鼓舞し再び蓮の顔を見る。




「な、何のこと、ただの寝不足なだけで別に何もない」




「…それで誤魔化してるつもりかよ、嘘つくんならもっと本気でやれ」




呆れつつも私を労わるような優しい声色に心臓がドクンと鳴る。同時に自分の拙い誤魔化しが一瞬で看破されたことで、う、と言い淀む。鼓舞しても全くの無駄だった。…私は往生際が悪い性格だったが、この幼馴染を前に隠しきるのは難しいと悟ったし、これ以上誤魔化しても疑いを強めるだけだ。ゆっくり深呼吸をし、今度こそ真っ直ぐ蓮の目を見る。




「一個聞いていい?何で分かったの」




「そんなの見てれば分かる、茉莉…きつい時ほど無理矢理笑うだろ、きついのなら無理に笑うな。俺と…結衣の前では」




分かって当然と言う口調で告げられた瞬間、私の中で何かが切れた。顔合わせが迫っているのに碌な作戦が思いつかずに追い詰められ、結局1人では何もできないのだと言う現実に打ちのめされていた。その上好きな相手からこんなことを言われたら、脆くひびの入っていた私の心はひとたまりもない。




壊れた人形のようにググ、と顔を上げる。




「…いで」




「え」




「妹としか思ってないのなら優しくしないで」




自分でも驚くほど冷たい声が出て、びくりと肩が震えた。けれど、それが合図だったのか堰を切ったように自分の口からドンドン言葉が溢れ出ててくる、自分でも止められない。




「…三日前母親に呼び出されて、急に縁談が決まったって言われたの。あの人がまともな縁談何か持ってくるわけないと思って調べたら案の定、学生時代からずっと女の人に暴力振るってるクソ野郎だった。あの人、そんな相手と娘を結婚させようとしてたの、笑えてくるよ。そんなに疎まれてたんだって。…今まであの家族には何も期待して無かったし高校卒業するまで我慢すればいいと思ってたけど…向こうがずっと私を縛り付けるつもりなら徹底的に反抗して、こっちからあんな人達捨ててやるって決めた」




蓮の顔を一瞥する。黙ったまま私の話を聞いているが、その瞳には燃え盛る怒りの炎が浮かび始めている。ああ、やっぱり怒ってくれている、と心が少しだけ温かくなった。それでも溢れ出る言葉は止められないけれど。




「今までずっと誰かに頼って生きて来たから、最後くらい自分の力でどうにかしようとしたけど結局いい考えが浮かばなくて、追い詰められてた。…そんな時蓮に呼び出されて、色々言われて決心が鈍った、縋りたくなった、だって」




声が震える。きつく握りしめた拳も、唇も。ここまで来たらどうにでもなれ、の精神だ。これで振られれば、ある意味で私は強くなれるし何でも出来る気がする。




「私ずっと蓮のこと好きだった、小学生の時から。いつもなら優しくするのは幼馴染だから、妹だからって自分に言い聞かせてた。けど、今同じ事されると正直きつい」




真っ直ぐに蓮のことを見つめると、ほんの微かに目が見開かれる。やはり私の気持ちには気づいていなかったらしい。蓮が鈍いか、隠すのがうまかったからか、恐らく前者だろうけれど。




「茉莉」




「私チョロいから、きつい時に優しくされると勘違いするよ、だからさ、今ここできっぱり振ってよ。妹としか思えないって。そうしたら縋る物も無くなって、あの人相手に何でも出来る気がするから、だから」




「茉莉!」




蓮の鋭い声に肩がビクっと震え、驚きのあまり身動きが取れなくなった時突然きつく抱きしめられる。…一体何が起こっているのか分からず、一瞬頭が真っ白になった。辛うじて分かることは体が密着しているせいで蓮の体温が伝わってくること、あの時付けていたシトラスの香水が香っていることぐらいだ。




「っ何する…」




慄いて抗議の声を上げようと次の瞬間、私は何も言葉が出なくなった。蓮が傷ついたような表情で私を見下ろしていたから。…何で蓮がそんな顔をしているの、と訊ねる前に蓮の端正な顔が近づいてくる。あ、まつ毛が長いと現実逃避をしている内に、綺麗な形のいい薄い唇がそっと自分の唇に触れる。




「!!!!」




唇は僅か数秒ほどで離れたが、混乱したまま何度も目を瞬く私と蓮の目が合う。そこにいたのは素っ気ないけど優しい幼馴染ではなく、熱の籠もった眼差しで私を射抜く…知らない男の顏だった。その視線に背筋がゾクリとし、心臓が早鐘を打つ。既に脳の容量を超える出来事が立て続けに起こっているせいで、まともな思考力が残っていない私の耳元を蓮が吐息と囁きで擽る(くすぐ)




「…妹にこんなことしない…最初は妹だと思ってたけど、今は違うし幼馴染とも思ってない、そんな言葉じゃ片付けられない」




「っ」




耳元で囁かれると擽ったい、と身をよじり腕の中から逃れようとするが殆どさっきのキスで全身の力を持っていかれてしまった私の力では、蓮の腕を押しのけることは叶わない。…今何て言った、妹とも幼馴染とも思っていないと言っていた気がするけれど、幻聴だろうか。だってそうだろう、妹とも幼馴染とも思っていないなんて、そんな私にとって都合良く解釈出来る事を蓮が言うはずが…。




すると抱きしめた時と同じ、突然抱擁から解放される。蓮の体温が遠ざかることに寂しさを感じてしまう自分が、心底浅ましい。しかし、蓮の両手は私の両肩に乗せられているため、やはり逃げることは出来ないし目を逸らすことも出来ない。




今度は蓮が真っ直ぐに私の目を見る番だった。肩から私の右頬へ蓮の手が移動し、壊れ物を扱うかのような優しい手つきで頬へ添えられる。




「…俺も茉莉のことが好きだ。だから、優しくするなとか、振ってくれとか言わないでくれ。茉莉が傷ついて、悲しんでいるのを見るの耐えられないんだよ、お前にはいつも笑ってて欲しいし、頼られるのも嬉しい。茉莉を傷つけようとする奴がいるのならどんな手を使ってでも排除する、だから俺から離れないでくれ」




蓮の私を見つめる瞳には真剣さしかない。頬に添えられた手は少し震えており、緊張しているのが分かる。それが蓮の言葉の本気だということに拍車をかけており、私はさっきの言葉が自分の都合のいい幻聴ではなかったことを理解した。




「…いつから?」




今1番知りたい疑問を口にすると蓮は懐かしむように目を細めた。




「自覚したのは中学の時だな。茉莉が告白されたって結衣に聞かされて、茉莉が誰かと付き合うのを想像しただけで耐えられなくなった。こんな気持ち妹には抱かないって、けどお前は俺のこと幼馴染としてしか見てないと思ってたから、今の関係を壊すのが怖くて何も言えなかった」




自嘲気味に語る蓮を見て、ああ、自分と同じだと思った。自分のことを恋愛対象として見てないと思ってたから、今の関係を壊したくなかったから何も出来なかった。その癖気持ちを捨てることも出来ず、ずっと引きずっていた。もっと早くに玉砕覚悟で挑んできたら、互いの気持ちを知れていたのに。もしも、の話をしても意味はないけれど。




けど、やはり蓮が私を好きだなんて、信じられない。いや、今までの流れで蓮の気持ちを疑っているわけではない。だって本当に妹として、幼馴染としての気持ちしか持たれていないと思っていたのだ。それに、きっぱり振られる未来しか予想していなかったので、まさかの両思いだったという結果に戸惑いを隠せない。




再び顔を上げると、優しく微笑む蓮と目が合った。…普段あまり感情が表に出づらいからだろう、時折見せる蓮の微笑みは破壊力が凄まじかった。心臓がドクン、と変な音を立てる。そんな愛おしげな顔でこっちを見ないで欲しい、心臓が持たない。顔を見ていられず視線をゆっくり下に下げ…唇に視線が移動した途端、さっきのことを思い出した。つまり…キスされたことを。




「っっっっ」




だんだん冷静になると恥ずかしさが蘇って来て、反射的に蓮から離れ、ソファの端へと移動してしまう。




「え」




その瞬間の捨てられた子犬を彷彿とさせる蓮の顔は暫く忘れられない。




さっきまで有った甘い雰囲気は、もう何処かに行ってしまった。










「おい、いい加減落ち着けよ、安心しろ、もうしないから」




ソファの端の端まで移動して頑なに自分と距離を取ろうとする私に蓮は困っていた。が、その声色には切なさが含まれている気がして、逆に落ち着かない。その上捨てられた子犬のような悲しそうな顔をされると、もうどうしていいか分からない。蓮は感情表現に乏しいと思っていたが、そうではなかったようだ。両思いだと分かった途端、私に距離を取られて悲しい、というのが伝わってくるので罪悪感で胸が張り裂けそうである。が、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。




いや、もうしないと言われるのも少し、寂しいような…けど、もう一度すると言われたら多分全身が沸騰して弾け飛んでしまう。いや、でも…とずっと下らない問答を繰り返していた。流石にこれ以上蓮に心配をかけるわけにはいかない。




「…ごめん」




謝りつつ、元いた位置まで移動した。蓮もホッとしたのか頬を緩ませた。ちら、とテーブルの上を見るとさっきまでなかった封筒が置かれていた。どうやら私が悶々としている間に用意したらしい。何が入っているのか。




「それ、何?」




「ああ、これは」




蓮は封筒を手に取り中身を取り出す。そこに入っていたのは




「…婚姻届…」




結婚する男女が記入して役所に提出するとめでたく夫婦になる、あの婚姻届。なんでそんなものがこの場にあるんだ、とマジマジと婚姻届を見る。




「なんで婚姻届がここに」




「なんでって、使わないと貰ってこないだろう」




「使う?誰が?」




「俺と茉莉」




「え」




「茉莉、結婚しよう」




買い物行こう、と誘う時と同じ軽さでプロポーズしてきた目の前の男に対し、あまりの衝撃に何度も目を瞬かせる。プロポーズする時のトーンじゃない、完全に友達を買い物に誘う時のそれであった。ロマンチックも何もあったものではない。 




今日は両思いになったこと以上の衝撃には遭遇しないと思っていたが、それを遥かに凌駕するとんでもない爆弾を落とされてしまった。両思い→付き合う→結婚ではなく両思い→結婚、段階をすっ飛ばしすぎである。




キャパオーバーしたことで反応が鈍くなった私に気づいた蓮が、説明を始めるまで数分かかった。












要するにこういうことらしい。母親に退路を断たれる前に婚姻届けを提出し、一条の姓になってしまえば流石の母親も簡単に手出しも出来ない。やったもん勝ち、という奴だ。




あのプロポーズもどきの理由が分かりホッとしたが、強引すぎる手段ではないかと心配になった。確かに法改正で18歳以上を成人と認めるようになったため、親の了承を得ずに婚姻届けを提出することが出来るようになった。そして明日私は18歳になるので、親の許可を得ずに結婚しても法的には問題ないのではある。…法的に問題ないだけであって普通にそんな風に結婚を強行したら家族間に亀裂が入るだろうが、うちは普通ではないしそれで非常識だと罵られて絶縁されるなら願ったり叶ったりである。




「…理由は分かったけど、それなら最初からそう言ってよ、急に結婚しようは心臓に悪い」




全く、と恨みがましい視線を向けると




「まあ確かにそうだけど、いつか言おうと思ってたし時期が早まっただけだから別に良いだろうと」




悪びれることなくそんなことを宣う蓮を前に私は口をポカンと開け、呆然としてしまう。…それはいつかプロポーズする予定があったということか。言葉の意味に辿り着くと顔が一瞬にして熱を持つ。




「茉莉が大学出たらって考えてたけど、俺も社会人になって2年目だしもう少し経ってからの方が良いかと最近考え直した。早ければいいってわけでもないし。…茉莉可愛いから誰かと付き合ったらと思ったら気が気じゃなかったし、結衣は頻繁に茉莉はモテるって煽るから尚更。絶対脈なしだと思ってたけど、諦められる気もしなかったから茉莉が高校卒業したら本気で行く予定だったぞ…こっちも予定より早まったな」




おい、いいからその口を閉じろと叫びたい衝動に駆られる。淡々とした口調から紡がれるのは聞いているこっちが耐えられなくなるほど恥ずかしい言葉の数々。平然としている蓮の様子から察するに気づいていないか、恥ずかしいと思ってすらいないか。私はサラッと「可愛い」と言われたことを聞き逃さなかった。覚えている限りでは蓮がそういった言葉を言った記憶はない。服や化粧を「似合ってる」はあるけれど。




だと言うのに、突然そういった言葉を躊躇いなく口にするようになってしまった。…もしかして両思いだと分かった途端甘くなるタイプか?何それ、色んな意味で心臓に悪い。




「良く平然と恥ずかしいこと言えるね」




恥ずかしさから口元を手で覆い恨みがましい目で蓮を睨むが、本人は何を言ってるか分からないとでも言いたげな顔でキョトンとしている。




「恥ずかしい?茉莉が可愛いのは事実だろ、どこが恥ずかしいんだ」




そんな真顔で言う台詞ではないだろうし、可愛いと言われるとこっちが恥ずかしいと言うことを分かってほしいが、言っても無駄な気がするので反論するのを辞めた。




「…ありがとう、蓮もカッコいいよ、この世で1番。蓮は私が誰かと付き合うか不安だったって言うけど、10年近く蓮のことしか見てなかったよ」




だが、こっちばかり恥ずかしがるのは不公平なので、顔から火が出そうなのを必死で耐え心の内を晒す。ささやかな仕返しである。すると蓮は凄い勢いで顔を背けてしまう。そしてジワジワと耳が赤くなる。…あ、これ自分から攻めるのはいいけど逆に攻められると弱いやつだ、と私は意地の悪い笑みを浮かべる。いいことに気づいてしまった、今度やられっぱなしになったら逆にやり返してしまうことに決めた。しかし、その様を可愛いと感じてしまう辺り私も大概蓮のことすきだなぁ、としみじみ思った。




私はアタフタする蓮を見て楽しむ趣味はないのでこれ以上揶揄うのは辞めて、話題を変えようと話を切り出した。




「そういえば、婚姻届、蓮が役所に貰いに行ったら騒ぎになったんじゃない?」




私の問いにとっくに体制を立て直していた蓮が答える、まだ耳は赤いけど。




「いや、あれは結衣が持ってたから貰った。雑誌の付録だと」




「へ?」




何で高校生が結婚情報雑誌を買っているんだ。




「表紙のモデルがタイプで、気づいたら買ってたと言ってたな」




ああ、と納得した。結衣は中身を見ずに表紙で本や雑誌を買うことが多々あったから。それでも高校生が結婚情報雑誌を買うなんて珍しくて、店員さんも不思議に思ってたんじゃないだろうか。




「なんてタイミングのいい」




「そもそもこれを言い出したのもあいつだぞ、うまいこと部屋に呼び出せって言ったのもな」




婚姻届けを手に取りながら詳しく教えてくれた。




『18になったらいっそ婚姻届け出しちゃえば良くない?うちの一員になればそう簡単に手は出せないよ、やったもん勝ちだし、法的に問題無いんだからいけるいける…そもそも向こうが一条に逆らえるとも思えないけど』




「あいつの邪悪な笑顔、茉莉にも見せたかった、いやあいつは絶対お前の前では見せないか」




蓮は何とも言えない複雑な表情をしている。…結衣は割と大胆と言うか思い切りのいい所があるので、彼女の発案と聞き納得した。結果的に蓮と両想いだと分かったのも結衣のおかげなので、今この場に居ない親友に思いを馳せる。




ふと、私はとても大事なことを思い出した。




「今更聞くことか分からないけど、おじさん達には言ってあるの…婚姻届け云々のこと」




改めて口に出すのはやはり恥ずかしく、後半はしりすぼみになってしまった。が、蓮は冷静な態度を崩さず答える。




「2人とも反対してない、寧ろ乗り気だったぞ。『娘が2人欲しかったんだよね』とか何とか」




大企業の社長夫妻とは思えないほどの大らかさ。だからこそ兄妹が伸び伸びと育ったとも言えるけど。




こうして結婚するにあたる障害(私の家族を除く)は無くなってしまった。取りあえず明日の誕生会の時に婚姻届けを書いて役所に提出、その次の日に家族に挨拶、結婚の承諾を貰いに行くということになった。事後承諾だけど。流石に早すぎないかと思ったが、向こうがいつ勘付くか分からないから早く籍を入れたいと言われれば、何も言えなくなる。私もまんざらでもなかったし。因みに証人の欄は兄妹の両親に頼んだ。2人とも快く引く受けてくれたし、何なら実の親より優しかった。



「茉莉ちゃんが蓮と結婚したらって昔考えたことがあるけど現実になるなんてね、感慨深いわ」


「いやー蓮がこんなに早く結婚するなんてね、絶対無理だと思ってたよ。…本当にうちの息子で手を打って良いのかい?もっといい男いるよ?」


「クソ親父余計なこと言うな」


不機嫌極まりない声で言う蓮に私は声を上げて笑った。この人たちと家族になれることを心の底から嬉しく思った。




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